道経7 ひっそりと、在る
我々がある、天と地との間。
どちらもが悠久の時を経、
我らの前にある。
なぜ天地は、かくも長く
在っておれるのだろうか。
それは、ことさらに在ろう、と
志さぬゆえであろう。
道者の振る舞いも、
また天地のありように近しい。
おのが身を殊更に前に出さぬがため、
結果として前に立つこととなる。
あえて物事の中心に立とうとせぬため
結果として物事に適切に関わる。
私的な都合は後回しにすることで、
結果として、私的な都合をも
全うするのである。
○道経7
天長地久
天は長く地は久し
天地所以
能長且久者
以其不自生
故能長生
天地の能く長く
且つ久しかる者の所以は
以て其の自ら生ぜざるなり
故に能く長生す
是以聖人
後其身而身先
外其身而身存
是れを以ちて聖人は
其の身を後とし
而して身を先ず
其の身を外とし
而して身を存す
非以其無私耶
故能成其私
其の無私を以ちたる非ざるや
故に能く其の私を成す
○蜂屋邦夫釈 概要
長らくに身を保つには、ことさらに我が身を貴ぼうとしないことだ。我が身を尊ばないからこそ、結果として尊ばれることとなる。
○0516おぼえがき
うーん、これはほぼまるまる解説なんじゃないかなあ。これまでの章に比べるとずいぶん卑近というか。とりあえず、崔浩先生はぜってー嫌いだわ、この章w あのひとむしろガンガン他人を蹴落とす口だものw
良きこと、正しきこととは、前面に出ず、ひっそりと、そこにあること。ただ、こいつを語るにしても、少々本文で言うところの「聖人」への憧れ、賞揚の香りがキツい。確かに道徳経において「聖人」は目指すべきところなのだが、前に出ちゃったらそれ道徳経的聖人じゃないだろって言う。
老子は儒教批判的なテキストが多い、ってよく書かれている。けどこの辺を読んでいると、テキストそのものがなんだかんだで儒教的聖人観から脱却し得ていない。儒教それだけ強烈な思想だったんだろうし、それだけ「儒教的でない」価値観を提供するのが難しかったんだろうなあ、って思う。
そうやって考えると、一章の「道の道とすべきは、常の道に非ず」は、「いや、頼むから一旦忘れて儒教的な道の概念! 全く別口の話したいんで!」的な叫びのようにも見える。常識って、そうと気づかないからこそ常識ですしねぇ……。
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