いきなり閑話 道徳経のこと

次話以降、本格的に妄想して参る。


が、妄想に先立ち、

この崔浩さいこうのスタンスを

言明しておかねばなるまい。



言っとくがな、我。

大っ嫌いであるからな。

道徳経の記述。




○定義問題


若干ヤヤコシイので、

ここを先に記しておこう。


当ごっこが扱う「老子」は、

道徳経と題されている。

作者が老子とされているから、

老子、と呼ばれている訳である。


が、どうにも読んでいると、

「お前これ本当に老子の著作か?」

と疑えてしまう。


故に、当話においては

老子の弟子が「道徳経」を

著した、と仮定している。

弟子が師匠の名を語りました、

と言う扱いである。


まずは上記、ご認識頂きたい。



○道家思想と道教


我は同時代の達人、

寇謙之こうけんし殿の教えを受け、

道教を奉じておる。


道教とは、老荘=「道家思想」から

発展した思想体系である。

いわば道徳経の孫である。


で、あるにもかかわらず、

大っ嫌いなのである。


何故か。

「道徳経がうたう聖人なんざ

 ほいほいいてたまるかクソが」

と言う話である。



だいたい何なのだ、道経一章。

「道ってよくわかんない。

 わかったって思っても、

 それ、勘違いだから。

 だからわかんないまま、

 道について考えよー☆」

であるぞ。

納得度ゼロだ。


いやまぁ、我自身は

理解せぬでもないのだぞ。


問題は、いったい民衆が、

どこまでそれを踏まえられるか?

と言うことである。



道教では、人格もてる神々を奉じている。

老子も太上老君たいじょうろうくんと呼ばれる神格である。


考えてもみていただきたい。

なんだかよくわからん存在なぞ、

普通の人は崇拝できまい。


民衆の信奉に値する神は、

時々こわいけど、

親しみのあるおっちゃん的で

なければならぬのだ。


リアリティを感じられるもんでなくば、

想像し、信奉するは叶うまい。



以上より、思想集団「道家」と

社会集団「道教」の違いは、

以下のようにまとめられようか。


深遠なる「道」に対して

「よくわかんない! ヤバイ!」

を前提としたまま語るのが道家。

すなわち、道徳経の世界。


「そんなあいまいな言い回しで

 民衆が納得するかボケ!

 もうちょい噛み砕きやがって

 くださりやがれダボぁ!」

と「道」との向き合い方を

現実的に提示したのが道教。


――である、 と。



故に道教は、道徳経の言う

道の存在そのものは是認する。

深淵なるものである、とも説いている。


が、民衆と道との合一は

端から投げ出しておる。

そんなん民衆に求めるだけ

無駄だからだ。


だのに道徳経は、

そんな夢想するだけムダなはずの代物を

前提とした人々の暮らしを、

理想的な有り様、として

描き出している。


故に、道徳経はクソである。

現実見ろ。




○道徳経の性格


では、何故道徳経は、

かくもドリー夢な世の中の姿を

描いたのであろうか。


この点については、

史記列伝に載る老子の伝より、

道徳経の来歴を

確認する必要がある。



老子は道德を治め、其の學を以て自らが名を隱れ無からしむるを務めと為す。周に居せること之に久しかれば、周の衰えたるを見、乃ち遂には去らんとす。關に至るれば、關令の尹喜は曰く:「子は將に隱れなんとす、彊いて我が為に書を著すべし」と。是れに於いて老子は乃ち書上下篇を著し、道德の意を五千餘言にて言いて去り、其の終なる所を知りたる莫し。



老子はもともと隠遁志向だったが、

当時の政治がクソ&クソであったため

ここではないどこかに旅立とうとした。


ら、途中の関所で捕まり、

関所の長官である尹喜いんき

「先生! 残される我々のために

 どうかお言葉をば!」

と迫られ、本を書いた。


その後どこかへ消えた老子の

行く先を知るものはいない…

というアレである。



ここから分かるのは、

道徳経の教えは隠者視点で

書かれている、と言うこと。


そして、読ませる対象が

施政者側の人間。


ここより、

レトリック技術に長けた隠者が

施政者に向けて書いたもの、

として記述を読む必要が生じる。


つまり、ベースの思想に「政治 is K.U.S.O」

が横たわっている、と見做せよう。



ここで我は、思うのである。


――これ本当に、老子の言葉か?


道徳経は、道についての

考察そのものはさておき、

世に対する振る舞いが

あまりにも世情より

かけ離れすぎている。


史記老子列伝は、老子について

礼を修め、孔子の師ともなった、

と語っている。


そのような人物が、

先人の定めたもうたルールを

ぶち壊すような文章を書いて、

世の中を乱そうとするであろうか。



この点は、以下のように

考えるべきなのやも知れぬ。


 ソクラテスは著述をしなかった。

 弟子のプラトンが思想をまとめた。


 キリストは聖書を編んでいない。

 編んだのは弟子たちである。


 仏陀は喋っただけだ。

 仏典として整理したのは弟子たちである。


そして、道徳経も同様に、

老子の教えを、ある隠者が

とりまとめたものではないか……と。



漢の時代、儒家の轅固生えんこせいが、

「こんなもんは庶民の家の

 タンスの肥やしにしておけ」

と、道徳経を切り捨てておる。


我も、この説には同意である。

隠者目線で語られ過ぎておる。


少なくとも、王侯のたぐいが

施政のヒントとして

一生懸命読むような類の書では、ない。



繰り返す。

道徳経は、クソである。


こと、政治を運営する場においては。




○魏書巻35 崔浩伝抜粋


性不好老莊之書,

每讀不過數十行,

輒棄之,曰:

(浩は)性にては老莊の書を好まず、

 讀みたる每、數十行を過ぎずして

 輒ち之を棄て、曰く


此矯誣之說,

不近人情,必非老子所作。

 此れ矯誣の說、

 人情に近からず、

 必ずや老子が作せる所に非ざらん。


老聃習禮,仲尼所師,

豈設敗法文書,以亂先王之教。

 老聃は禮を習いたるは、

 仲尼が師する所なれば、

 豈に敗法の文書を設け、

 以て先王の教えを亂さんや?


袁生所謂家人筐篋中物,

不可揚於王庭也。

 袁生のいわゆる

 家人が筐篋中の物たれば、

 王庭にては

 揚ぐべからざるなり、と。




○0516 おぼえがき


次話で語られることになるのだが、「道に合致したものの振る舞い」を、道徳経は「無為」であるとしている。


一方で政治とは、何をどう頑張っても「有為」の塊だ。そう考えてみると、道徳経が語る理想の世の中とは、およそ実現が可能なものであるとは思われない。


では、にもかかわらず、何故書かれたのか。

その真相は謎である。


だから、俺が同じような立場で、同じようなことを書かなきゃいけなかったらどうするだろう、と考えた。


そしたらね、書きますよね全力で。

当てこすり。皮肉。


おいお役人。お前さんみたいな行政官的立場からも理解しやすいように、道と、道に合致した人間の振る舞いについて、存分に比喩も交えて記してやろう。どうよ、どこからどう切り取っても現実に即してねーだろう、実現できるってんなら実現してみるがいい。まぁ無理だと思うけどな!


そう言うふいんきを感じてしまうのですよね。そう考えると、うーん道徳経の著者、全然道に合致してない。だがそれがいい。



実は老子ごっこを始めたあとに、初めて崔浩先生が老子のこと大っ嫌いだと知った。ただ、自分が提示したい解釈の方向性が、思いがけず崔浩先生のスタンスにハマってきてくれていた。俺も道徳経における「理想的な政治のありよう」を読んで「ばっかじゃねーの」って思ってたのですよね。


ただ一方で、そのありようは「道に合致した人間の振る舞い」からおろせば理屈的に正しいものなんだ、とも思っている。




以上をまとめます。


遅れましたが、当「ごっこ」では、

老子道徳経が語る「理想の世の中」を、

当てこすり、皮肉的なものとして

解釈しています。


よって「老子の言葉は素晴らしい!」

方面の思想には、基本的に展開しません。


いや、素晴らしいと思うからこそ

こうして全文通読をするんですよ?


ただそれは、どちらかと言うと

「うっは、こいつ性格わりーなwwwww

 すきwwwwwwww」

みたいな感情です。


そういう奴が解釈する老子、

だと思ってお付き合いください。

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