道経2  名の限界を知る人

さて、道はよくわからぬ。

「どう」しようもない。

崔浩ギャグであるプギャー。


うむ、心底謝罪する。


やむを得ぬ。

よくわからぬものを

よくわからぬなりに

理解しようとするのであれば、

よくわからぬものが

もたらす現象を観察、

考察するよりほかあるまい。


なので、ここで仮の話をしよう。

「道」というよくわからぬものに、

とあるAさんが合致した。


そのAさんは、では、現実社会で

いかなるふるまいをなそうか。


ここでAさんを、

「道」にマッチした変態、という事で

「道者」と呼ぶこととしよう。


対して「道者」たらぬものを

仮に「民」と呼ぶ。



なお、「道」が

よくからぬものである以上、

以降の記述によって「道者」の

全容が把握できる、などとは

認識せぬようご注意いただきたい。


「道」がよくわからぬものである以上、

「道者」とてよくわからぬものである。


また、道徳経そのものが

何をどう頑張っても

「有為」の塊でしかない以上、

ここにある記述を読んでも

「これは道ではない」が

分かるだけである。


すなわち我々が語れるのは

「道者」のガワのみである。

本来、言葉では結局

「道者」も語れぬのだ。


全く、何だこのクソッタレたロジックは。

楽しいぞ。 


以上の七面倒くさい前フリを踏まえ、

では、本編に踏み入ってまいろう。





改めて「名」について、

もう少し踏み込んでおくこととする。


先に語りたる通り、

我々が万物に「名」をつけたとき、

万物は我々の認識の範囲内に収まる。

しかし万物は、我々の認識の外にも

存在している。



例えば、である。


世の中にて皆人が「美しい」と

見なすものも、より巨視的に見れば

「美しい」の要素を失う。


皆人が「素晴らしい」と

見なすものも、より巨視的に見れば

「素晴らしい」の要素を失う。


何故か。


我々の認識は、常に相対的なものである。

「有」るを失えば「無」い。

「難」しきを達成できれば「易」しい。

「長」いものと較べれば「短」い。

「高」いところから傾ければ「下」る。

「音」が調和するから「聲」となる。

「前」に従うからこそ「後」ろ。


となれば、我々が

「美しい」ものを認識しても、

「素晴らしい」ものを認識しても、

我々の認識の外から見れば、

相対的に「みにくく」「すばらしくない」

ものとなってしまう恐れがある。



道に合致したもの、道者にしてみれば、

道について変に「名」を与えたところで

なんの意味もなさない、と

把握していることになろう。


故に、道に従うために

ことさらの振る舞いはせず、

道のことを伝えるにしても、

ことさらに言葉は用いない。

 

所詮、説明で

どうにかなるものではないからだ。


万物を見よ。

作り出したあとには語らぬ。

生み出したものなぞ抱え込まぬ。

成し遂げたことに

いつまでも居座りはせぬ。


道者の振る舞いも、これに似ている。

打ち立てた功績に、

いつまでもかかずらわぬ。


そう、かかずらわぬのだ。

功績とて、所詮は

人の認識の範疇のことである。

これを誇ってみたところで、

「功績」という「名」に縛られるに過ぎぬ。


故にこそ、

道からもかけ離れずにおれる、

となろうか。




○道経2


天下

皆知美之為美斯惡已

皆知善之為善斯不善已

 天下にて

 皆の美の美たるを

 知りたるは斯れ悪なるのみ。

 皆の善の善たるを

 知りたるは斯れ善からざるのみ。


有無相生 難易相成

長短相較 高下相傾

音聲相和 前後相隨

 故より

 有と無とは相い生じ

 難と易とは相い成り

 長と短とは相い較び

 高と下とは相い傾し

 音と聲とは相い和し

 前と後とは相い隨う

 

是以聖人

處無為之事

行不言之教

 是を以て聖人は

 無為の事にて處し

 不言の教にて行う


萬物

作焉而不辭

生而不有

為而不恃

 萬物は

 作したれど辭せず

 生みたれど有せず

 為したれど恃まず


功成而弗居

夫唯弗居

是以不去

 功成りたれど居せる弗し

 夫れ唯だ居せる弗し

 是れを以ちても去らず



○蜂屋邦夫釈 概要


世の中の人々が感じる評価は、信ずるに足りない。様々な要素は、比較されるからこそ生まれている、相対的なものである。道という絶対的なものは評価しようがないため、道を知るものはことさらに道について伝えようとはしない。聖人は知らず知らずの内に功績を成し遂げるが、その功績に寄りかからない。だから、その功績はなくならない。



○0516 おぼえがき


突然提示したオリジナルワード「道者」だが、これは原文中に出てくる表現「聖人」に対するアンチテーゼである。いやいやアンタ、さんざ二項対立を批判しといてなにお前が二項対立的に規定してんのよ、というアレである。つーか老子とか言う書が始めっから矛盾しまくりな代物であり、一口にまとめると「道について語るけど、この書をいくら読んでも意味ないから(笑)」的な事態に陥っている。つまり本来は道経第一章で完。何を書いてんだこの本の著者は。気が触れてるとしか思えん。


さて、基本的には前章を受けて「世の中やべえ、理解できたと思い上がってんじゃねえ」を語ってるが、そこにプラスして「有限でしかねえお前の基準で善悪語ってんじゃねえバーヤバーヤっつーか有限がいくらこぞったとこで所詮有限でしかねえ以上世の中を全部捉えられるもはずねえんだから多数決だって絶対基準になるわけねえだろバーヤバーヤ」とも語ってる。うーんひどい。


ところで冒頭、真善美のうちふたつが来るからもしかして真善美って儒教由来? とか思ったのだけれど全然そんなことはなかったぜ。プラトンとか言われてしまった。


そっちかー! ったはー!

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