道経3  欲というもの  

世相を覗いてみよう。


民が論争をなすのは

「賢さ」がステータスと

見做されるからである。

民がものを盗むのは

得難きものに「価値」を

見出しておるからである。


ここで前話に立ち返ろう。

「賢さ」は本当の「賢さ」と言えようか?

「価値」は本当の「価値」と言えようか?

民の間に存在する、

あくまで相対的な基準ではあるまいか?


上記は下記のように

一般化し得よう。


民が抱く欲求。

これこそが民の心を乱し、

その認識を相対化の沼に陥れるのである。


この点は、また一章にも通じよう。

欲を抱くにより、道そのものでなく、

道がもたらす現象で注意が止まる。

「妙」なるが見えず、

あき」らかなるのみが見える、

と記されたる由縁であろう。



この点より、道者のマインドセットが

垣間見えてこよう。


ことさらに思索の沼には溺れぬ。

ただ腹を満たすことに満足を得る。

その意思を、あたら表には発さぬ。

ただ心身を壮健にしておくよう努める。



民が道者に至るためのヒントは、

現在抱いている知恵や欲などが、

かえって足かせになりかねぬ、

という気付きとなろう。


外向きに発していた思考を、

道との合一に至る、

無限遠の道筋へと注ぐのである。

垂れ流しておる暇なぞないぞ。


「なーんにもないが、ある。」


という広告コピーが存在していたな。

アレだ。


アレに心底納得し、受容しうる境地。

これこそが道者の境地である、と言えよう。


ここに納得がいたり、初めて

思考という有意から解放される。

それが、無為の境地である。




○道経3


不尚賢 使民不爭

不貴難得之貨 使民不為盜

不見可欲 使心不亂

 賢なるを尚ばざれば

 民をして争わしむらず

 得難きの貨を貴ばざれば

 民をして盜みたるを為さしむらず

 欲すべきを見ざれば

 心をして亂しむらず


是以聖人之治

虛其心 實其腹

弱其志 強其骨

 是れを以ちて聖人の治とす

 其の心を虛とし

 其の腹を實とす

 其の志を弱みて

 其の骨を強ましむ


常使民無知無欲

使夫知者不敢為也

 常に民をして無知無欲とせば

 それ知者をして

 敢えて為さざりたるなり


為無為

則無不治

 無為を為さば

 則ち治まらざる無し



○蜂屋邦夫釈 概要

人君が多くの欲望を持たなければ、人民は乱れなくなる。聖人の政治は、心を単純にさせて腹をいっぱいにさせ、こころざしを弱めて筋骨を丈夫にさせる。小賢しさを寄せつけないようにする。民を、常に無為の境地に置くのである。


 

○0516 おぼえがき


煩瑣な思考から解き放たれるために頑張れと煩瑣な思考を突きつけてくるラオ先生まじでロック。アホかと。


基本的に、ここは「理想の政治」を語るシーンとされている……の、だが。


なんつーか、そこに付き合ってると勿体無いよなーって印象がある。


孫子もそうだが、この手の短い書は、「前段をきっちり踏まえた上で次に進め」と要請されているところがある。としたら、語り得ないものについて語るぞ、と提示しているのにかかわらず、なんで語り得るもののことを語っているのか? という矛盾にぶち当たる。


道経一章からしてすでに「語り得ないものを語る」という大矛盾を抱えているわけだが、この大矛盾を解決する……のは不可能にしても、克明に暴き出すロジックに、矛盾があっちゃあどうしようもない。


この辺り、荘子もそうだが、レトリックによって「語り得ぬもの」の周辺を語るしかない、からなのではないだろうか。なので諸賢の見解に言う「治」は「統治」だが、こちらでは「己を治める」の意味に解釈します。リソーノセージのお話は本に任せます。っつーか全然理想的じゃねえだろあれ。

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