道経4 無いが、有る。
前章で「なーんもないが、ある」
と語ったな。
ちょうどいいタイミングである。
あらためて、道が
どうよくわからぬのかを語ってみよう。
道。
見えぬ。
感ぜられぬ。
言うなれば、無、なのだ。
空っぽと言うしかない。
そして、空っぽなそれを
埋め立てようとしてみたところで、
決して満たされることはない。
そのあまりの深さは、
万物の淵源を
思い起こすより他あるまい。
故に、道、の前においては、
あらゆる概念が無に近似する。
鋭きものも、決して接し合う事がない。
よってものを切ることはなく、
「鋭さ」は用を為さぬ。
こんがらがったものも、
無限遠にも等しき
スペースの中にあっては、
結局は解けよう。
どれほどまばゆき光も、
道そのものを照らすことはない。
無限遠の果てにて、
いつかは拡散し切る。
果てには、
それが塵なのか、光なのか。
分からぬほどとなる。
空虚でありながら、しかしなみなみと
湛えられているようでもある。
たとえるならば、空気、であろうか。
道とはまた、空気のようなもの、
あるいは空気そのものが道、
と言えるのやも知れぬ。
道より生まれ落ちたる我々。
その発祥は、天帝よりも先、
と見做すべきであろう。
天帝が我々を生んだのではない。
道より生まれ落ちたものの
一つが天帝となり、
一つが我々となったのだ。
○道経4
道沖而用之或不盈
道は沖なれど
之を用うるに
或いは盈ちず
淵兮似萬物之宗
淵なるにては
萬物の宗なるに似る
挫其銳 解其紛
和其光 同其塵
其の銳きを挫き
其の紛すを解き
其の光を和し
其の塵を同じうす
湛兮似或存
湛うるにては
或るものの存せるに似る
吾不知誰之子
象帝之先
吾 誰が子なりたるを知らず
帝の先なるを象る
○蜂屋邦夫釈 概要
道は空っぽのように見えて、尽きせることなく働き続けている。無限大の世界における働きは、一見静まり返った水面を見るかのようだ。その働きは万物の根源につながっている。世間で万物の根源と呼ばれている天帝ですら、道の子孫であるとしか思えないのだ。
○0516 おぼえがき
挫其銳 解其紛
和其光 同其塵
の部分は、これ恐らく後世の注釈がそのまま紛れ込んでるんだろうな、と言う見解なんだそうである。確かにその前後で「~兮似~」の文型が存在していることを考えれば、敢えてここで対句的表現を崩す動機は非常に弱い。けど完全な対句形式じゃないからなあ。まぁ、敢えて言えば「えっこの句別にここにいらなくね?」辺りかな。そう言う意味では、挿句説については支持をしておきたいところ。
上記部分に限らず、老子のテキストには後世の人間がつけた注釈句がうっかり紛れ込んでいる可能性が非常に高いそうである。そうすると懸命に逐語的に追って解釈を繋げようとしても「そもそも老子の言いたかったこと」になんて届きゃしねーよ、的な話にもなってくる。元々老子のスタンスは「テキストで追っても仕方ねえだろ、ドントシンクフィールだよ」の世界ではあったと思うし、そうするとこのテキストにある一字一句を金科玉条しても仕方ない、という事にはなってきそうだ。ただし、それは一度全テキストをきっちり追った上で考えるべき事でもあるんだろう。
湛兮似或存の部分が、突然「空気」に当てはまってきた。空気は「ない」。けれど我々はそれを吸う事で、初めて生命活動ができる。この先老子は上善は水の如し、つまり流体のようにあらゆる状況に合わせて変化するものこそが至上だ、と謳うわけだが、空気が同じく流体である、という実感を彼が持てていたならば、上善は気の如し、だったのかもしれない。……いや、「空気ってものがある」って理解してる自分でもその実感ってだいぶ形而上学的で実感しづらいものなあ。
しかしラスト二行の意味がよくわからん。いや、その二行の言っていることはわからないでもない。けれど、それがなぜこの章に組み込まれているのか。淵なるにては万物の宗に似る、からの惹起なのかなあ。
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