1-3話▶︎Can't escape

「う…ぐ……ッ」

 モラルは目を覚ますと、頭痛を感じて、呻くような声をあげながら体を起こした。

 寝る前に嫌なものを見たせいだろう、とモラルは考えながら時計を見た。時計の針は午前8時をまわったところだった。

 いつも、はやく起きて朝食を用意したり、掃除をしたりしているモラルにしてはかなり遅い時間だ。

 寝起きの悪いモラルがぼーっとしていると、横から叶夢の明るい声が聞こえた。

「あーっ!モラルっ、今起きたの?」

 声のする方に顔を向けると、そこには、モラルが寝ていた二段ベッドの下の段を覗き込むようにして立っている叶夢がいた。

 モラルはのそのそとベッドから這い出ると、頭のてっぺんに出来た寝癖を押さえつけるように撫でながら、

「おはようございます、叶夢様……ふぁ…あ」

 と、あくびをすると、自分の部屋へ行くべく、廊下へと繋がっているドアを押し開けてリビングを後にしようとした。

「おはよ……じゃなくて、ちょっと待ってよモラル!」

 叶夢は、モラルを呼び止めると同時に、彼の着ている「いそうろう」と書かれた服の裾を引っ張った。

「なんです? 俺、着替えたいんですけど…」

「や、その…悪いんだけど、ちょっと調べてもらいたいことがあってさ」

「?」

 叶夢はそう言いながら、短パンのポケットからスマホを取り出すと、その画面をモラルに見せた。

 叶夢のスマホの画面には、の「カエ」というユーザーのプロフィール画面が表示されていた。

 モラルはその画面をまじまじと見つめると、叶夢の方へと視線を戻した。

「このかたがどうかしたんですか?」

 と、モラルが叶夢に問うと、叶夢は悲しそうに眉根を下げた。

「あのね、この人ね、私と仲のいい相互さんなんだけどさ…ここ最近──1週間くらい前から、なかなか浮上しなくなってて…。浮上しなくなる前までは、よく話したりしてたからさ……心配で」

 今カエさんが何をしているのか調べられないか? と叶夢は言った。

 が、叶夢が突き出していたスマホを、モラルは無情にも押し返した。

「めんどくさいので嫌です」

 にっこり、とモラルは形だけ笑って見せると、すぐに踵を返して歩きだそうとする。

 ほんとに寝起きは機嫌が悪いようだ。

「ま、待ってってば!!」

 それでも叶夢は、モラルの服の裾を掴んだまま離さない。

「お、お願い!ほんとに心配なの…。私の友達…どこにいるのか調べてよ……。お願い…」

 後半はほとんど泣きそうになりながら、叶夢はモラルに懇願した。

 その様子を見たモラルは、わたわたとしながら叶夢に向き合い、彼女の手に握られていたスマホを受け取った。

「わ、分かりましたから!まさか泣くとは……。とりあえず、泣かないで下さいよ…。ね?」

 よしよし、と叶夢の頭に手が届かない代わりに、モラルは叶夢の手をさすった。

 すると、叶夢は笑顔を見せながら小さく

「うん…!」

 と、頷いた。

 その様子を見たモラルは、ほっと胸を撫で下ろすと、キッチンの方を軽く指さしながら、

「とりあえず、食パンが残ってると思うので、適当にそれ食べといてください。ちゃんとカエさんの件は調べておきますんで、叶夢様はSNCに行く準備をしといてください」

 とだけ言うと、モラルは身支度を整えるべく早足に、自分の部屋へと歩いていった。



「ごちそーさまー!」

 食パンを食べ終えた叶夢が両手を合わせて言いながら、自分が使った食器をおもむろにかき集めていると、ガチャリと廊下へ続くドアが開いた。

「叶夢様。カエさんの今の状況が分かりましたよ」

 と、叶夢のスマホを掲げながら、着替え終わり、スーツ姿になったモラルがリビングに入ってきた。

 モラルの報告を聞いて叶夢は、

「ほんと?!」

 と、顔を上げると、食器を片付けようとしてたのも忘れて、嬉しそうにモラルの元へ駆け寄って行った。

「それで、カエさんはどうしてるの?」

 叶夢の問いにモラルは、スマホは必要無かったです、と言いながら叶夢にスマホを手渡しながら言う。

「もしかしてと思って、カエさんのついったーIDをSNCのユーザー検索にかけてみたら──ビンゴでした」

「それって、つまり?」

 叶夢が首を傾げると、モラルは右耳の光輪をなぞりホログラムを映す。

 そこには──

「叶夢様のご友人様は、SNC内にいますよ」

 ──『SNCログインユーザー欄』のひとつに、カエの名前と詳細が表示されていた。

 それを見て叶夢は胸をなで下ろした。

「っはぁ〜!良かったぁ」

 その様子を見ながら、モラルは叶夢の膝をぽむぽむと叩いて、

「いやぁ、良かったですね。叶夢様の唯一のご友人様、ちゃんと無事でしたね」

 と、悪戯に笑った。

「別に唯一って訳じゃないし?特別仲良かったのがカエさんなだけだしぃ?もっと友達いるし?」

 と、口を尖らせて言う叶夢に、モラルは鼻で笑う。

「たかが、ネットだけでの関係…ですけどね」

「むぅ…。分かってるわよそんなの。でも、だからって友達じゃないってのも違うと思うの。それに──」

 叶夢はモラルの方を見る。それに気づいたモラルも叶夢の方を見上げた。

「──今の私にはモラルがいるから、ネットが無くてもさみしくもなんともなくなったのよ!」

 にひーっと、叶夢は歯を見せて笑った。

 それを聞いた当のモラルは、まるで何か恐ろしいものを目の当たりにした時のように、目を見開いた。その瞳の奥は小さく揺れているように見える。

「モ、モラル…?」

 叶夢が声をかけると、モラルはさっと俯いた。

「…ッ。すいません…」

 モラルはぎゅっと胸をおさえる。ネクタイとワイシャツが掴まれ、くしゃくしゃになる。

 モラルはどこか心苦しそうに、

「……叶夢様…。これだけは言っておきたいのですが、俺の事は…あまり信用……っ過信しすぎないでくださいね…」

 と、俯いたまま言った。

「それってどういう──」

 ──ピンポーン

 どういう意味なの、と問いかけようとした叶夢の声を遮るように、来客を知らせるインターホンが鳴り響いた。

 モラルが顔を上げる。叶夢の肩がびくっと震えた。

「モラル…!だ、誰か来た…」

 玄関を開けてきてくれと言わんばかりに、叶夢はモラルに飛びついて、玄関の方にモラルを押し出した。

「…あの、俺が出ると相手がびっくりすると思うんですけど」

「大丈夫よ!ロボットかなんかだと思ってくれるんじゃない?」

「……いや、俺はここにいますんで叶夢様が出てください」

 何かあったらすぐに対処します、とモラルは玄関から死角になっているところの壁に寄りかかった。

「……うぅ…」

 叶夢は恐る恐る、玄関のドアの取っ手に手をかけた。

 すると、

「──…なんて顔してお願いしたらいいの…?」

「あんた、なにいじめられっ子にビビってんの?」

の為だよ。頑張って!」

「…うん、そうだね」

 扉の向こうから、3人の女子の声が聞こえた。

 モラルもそれの正体に気づいたのか、耳をぴくりと動かすと、叶夢に声をかけるべく死角から顔を出した。

「…ッ叶夢様!」

 叶夢はモラルの方へちらと視線を向けると、こくりと頷いた。

「……分かってる」

 そう言う叶夢の声は落ちついてはいるものの、顔は青ざめ、手足は細かく震えている。

 その様子を見たモラルは首を小さく横に振った。

「出なくていいです。ほおっておきましょう」

 そう言うモラルの声が聞こえたのか否か、叶夢は前に向き直ると、扉をぐいと押し開けた。

「…ッ?!」

 モラルは慌てて、死角に隠れた。

 扉を開けた先には、予想通り──

 ──叶夢と同じクラスの女子が3人、そこに立っていた。

「……何の用?」

 叶夢は気丈に振舞ってみせるものの、叶夢が相当無理をしている事をモラルは知っている。モラルはハラハラと後ろから叶夢の様子をこっそりと伺っている。

 叶夢の問いかけに答えるべく、1番気の強そうな女子が1歩前に出る。

「あの、叶夢さん?単刀直入に言いますけど、いい加減引きこもるのはやめて、学校に来たらどうです?」

 それを聞き、叶夢は思わず顔を顰めた。

(お前らにお願いされたところで、学校に行くわけがないでしょ…!)

 無意識に左腕の傷に、右手の爪が食い込む。

 すると、後ろにいた比較的大人しそうな女子が、声を上げた。

「わ、私達、さんの友達で…。さんは今、すごく困ってて…。それで、助けるために…どうしてもあなたが必要なんです!」

 お願いします、とその女子は叶夢を見つめた。

 そして、叶夢は、

「たす、ける…?ゆめを…?」

 ──キレた。

 叶夢はぐらりと倒れ込むように、3人の女子に近づき、その瞳を睨みつける。

「…ぁ」

 流石にまずかったか、と女子達は狼狽える。

 そんな彼女等を無視して、叶夢は感情の伺えない表情と声で言う。

「知ってて言ってるんだよね?私と優芽に何があったのか」

 その途端、今まで声を発していなかったもう1人の女子が、叶夢の声を遮るように声を荒らげた。

「そっ、そんな事はどうでもいいんだ!引きニートのお前は知らねぇだろうけど、今なぁ、優芽は──」

「──私の前でそいつの名前を出さないで!!!!」

 先程の淡々とした口調からは想像出来ないほど、叶夢の悲痛な叫びがあたりに響き渡った。

「お願いだから!貴方達も、もう私の前に現れないで……っ!これ以上、貴方達と…っ関わりたくないの!!…忘れたいの…っ!!!」

 手足を大きく震わせながら、叶夢は彼女等を睨みつける。


「もう来ないでっ!!!!!!」


 バンッッ!!と叶夢は勢いよく玄関の扉を閉めると、すぐに鍵を厳重にかけた。

「叶夢様…!」

 トタタッ、と軽い音をたてながら、モラルはしゃがみ込んだ叶夢に駆け寄った。

「…っはぁ…はぁ……は、ぁ…っ」

 モラルは、激しく呼吸が乱れている叶夢の背中を「大丈夫ですよ」と繰り返し言いながらさすった。


 女子3人組を追い出してから数分後、ようやく叶夢の呼吸が整ってきた。

「…叶夢様、具合の方は…」

 心配そうに尋ねるモラルに、叶夢は短く「平気」と答えた…が。

 その顔色は青白く、とても“平気”といったふうではない。

 モラルは、叶夢のぐったりした様子を見れば見るほど、あの女子達への憎悪の念が込み上げてくるのを感じた。

(彼女達は、叶夢様がほんとに優芽とかの為に協力してくれると思っていたのか…?)

 もしそうなら、馬鹿かそれ以上だな、とモラルはため息をついた。

(自分を苦しめた相手を、理由も無しに助けると思うか?)

 そんな事をモラルは考えながら、叶夢の背中をモフモフとした手でさすっていると、

「ねぇ…、モラル?」

 ふいに、叶夢が声をかけた。

「…ん?」

 と、モラルは手を止め、叶夢の声に耳を傾けた。

 叶夢は俯きながら、淡々と話し始めた。

「私ね、死ぬのは最終手段だと思うの。死ぬことでしか今の苦痛から逃れられない人が、その苦痛から逃れる為になら、死んでもいい…。」

 そこまで聞いたモラルは、浮かんだ疑問を率直に投げかけた。

「…じゃあ、叶夢様は…あの時、どうして死のうとしたのですか…?」

 叶夢はその疑問には答えずに、ただ、

「…今はモラルがいるから、大丈夫」

 と、答えた。

 叶夢は話を続ける。

「私は…学校でのいじめが、死にたくなるほど嫌だったから、いじめから逃げる手段として学校を休んだ。……それでも!!」

 ばっ、と叶夢は顔を上げ、モラルの真っ黒い瞳を見つめた。

「それでも、あいつらは!私が逃げた先にこうも踏み入って来た!……もう、あいつらがいなくなればいいのに…っ」

 そう言う叶夢の顔は、悲しさと怒りと──なにより、悔しさに歪んでいた。

「……叶夢、様…っ」

 モラルは、叶夢にかける言葉を見つけられず、口を噤んだ。

「ねぇ、モラル」

 モラルが言葉に迷っていると、代わりに叶夢が声をかけた。

「もしも…もしもね──」


「──私が、、って言ったら…モラルは従うの…?」


「……っ」

 それを聞いたモラルは、1歩後ずさると、俯いた。

 少しの間、モラルは何を言おうか迷っているような様子を見せたが、まるで覚悟を決めたかのように顔を上げた。

「──叶夢様のお望みとあらば、俺はきっと、殺人も厭いません」

 完全な無表情でモラルは言った。

 瞳が暗く、感情が伺い知れない。

 それを聞いた叶夢は、

「冗談よ」

 と、小さく笑った。

 冗談とは違うだろう、と思ったがモラルは特に何も言わなかった。

 叶夢は真っ直ぐに玄関の扉を見つめたまま、独り言のように言う。

「私…逃げたい、この現実世界から」

 それを聞いたモラルは、叶夢がまた自殺を試みるのではないかと思い、忠告をしようと声をかける。

「叶夢様…。死ぬのは、無しですよ」

 叶夢がモラルの方を見る。

 モラルも真っ直ぐに叶夢の瞳を見る。

 その途端、叶夢は──

 ぎゅうッ

「…え?」

 ──モラルのことを抱きしめた。

「かっ、かなさま?!な、何をして…」

「ばか」

「…えぇ?!」

 叶夢からの突然の馬鹿呼ばわりに、モラルは困惑する。

「俺、なにか馬鹿って言われるようなこと…言いましたっけ?!」

「勘違いしているようだけど、私はもう“死ぬ”なんて考えは、これっっっ…ぽっちもないわよ!……あんたがいる限りはね」

 叶夢が笑いながら言った。

 が、モラルは自嘲気味に、苦笑する。

「俺がいる限りは…ですか」

「うん!」

 ギューっと、叶夢はモラルを抱きしめながら、無邪気に答えた。

 モラルは、困ったような顔をして言う。

「あの、叶夢様?そろそろ離してもらえますかね」

 そう言われ、叶夢は素直にモラルを解放した。

 モラルは乱れた服をなおしながら、笑う。

「正直、いつものヘッドロックくらい苦しかったですけど」

 それ聞いて、なんだと!?と叶夢も笑う。

 すっかりいつもの調子を取り戻した叶夢の様子を見て、モラルも肩の荷が降りたようだった。

「それで、叶夢様。逃げたいなら逃げてもいいんですよ。ここ──現実世界から」

 にやりと不敵にモラルが笑うと、叶夢もにっこりと笑って立ち上がった。

「そうだね。すこしの間だけ息抜きしようかな。カエにも出来たら会いたいし〜」

 さっきまでのシリアスな雰囲気はどこへやら、叶夢はリビングに向かって歩き出しながら、やんわりと返事をした。後ろからモラルが、ぽてぽてと足音をたてながら着いてくる。

 叶夢が独り言のように呟く。

SNC、楽しみだなぁ」

 くるりとモラルの方に振り返ると、叶夢はにこりと微笑む。

「はやく連れてってよ」

 それを見たモラルもつられて笑う。

「──その前に朝ごはん食わさせてください」

 そういえば食べてなかったんだね、と叶夢は笑いながら頭を掻いた。



「ねぇモラル。朝ごはん、カップラーメンなんかでいいの?」

 ソファの上で、隣に座ってカップラーメンをすすっているモラルのことを見ながら、叶夢は話しかけた。

 モラルは麺を咀嚼し飲み込んでから、叶夢の問いに答える。

「別に、SNCに行ってしまえば空腹も感じませんし、今だけ腹減ってなければいいので」

「でもそれって、しばらく食事出来ないってことじゃない?」

 最後の食事がそんなんでいいのか、と叶夢は首を傾げた。

「あー、言ってませんでしたっけ」

「何が?」

 モラルの返答に、さらに首を傾げる叶夢。

 モラルはため息をつきながらも、説明を始める。

「SNCではなんです。睡眠と食事が必要ないという以外では」

「……うん、だから?」

 あ、分からないんですね、とモラルは天を仰いだ。

「えっと…つまり、現実世界と変わらない生活が出来るんです。食事も睡眠も、というだけであって、というわけではないんです。だから、寝ようと思えば寝れますし、食べようと思えば食べれます」

 そこまで聞いて、やっと叶夢は理解に及んだ。

「なるほど〜」

 呑気に相槌を打つ叶夢を後目で見ながら、モラルはため息をついた。

 しばらくして、モラルがカップラーメンを食べ終わると同時に、叶夢が先程まで観ていたテレビを消してソファから立ち上がった。

 モラルが片付けようとしていたカップラーメンのゴミを、叶夢は持ち上げると「私が片付けるよ」と言いキッチンにまで持って行った。

「珍しいな…」

 と、モラルは目を点にしながら関心した。

 叶夢がリビングに戻ってくると、ソファの上に座っているモラルの隣に、どっかりと座った。

 そして、ワクワクといった様子で叶夢はモラルの方を見る。

「それで、SNCに行くにはどうしたらいいの?」

 楽しみで仕方ないと言わんばかりに、叶夢は瞳を輝かせる。

(この人、現実が嫌だとかどうとかの前に、SNCがどんなとこか気になって仕方ないんだろうな)

 そう思い至ると、モラルは苦笑しながらも、説明をするべく口を開く。

「まず絶対的に必要なのが、です」

「主従…契約…!」

 ごくりと叶夢が唾を飲み込む。

「はい。でもまあ、主従契約と言っても、さほど変わるような事はないので安心してください。──ただ、俺が叶夢様に従う義務……?権利かな?を得るだけなので」

「えっと、なんでそこ言い直した?」

 義務でええやん、と叶夢は悪態をつく。

 それを聞いてモラルは、腕を組んで悩むようなふりをする。

「ん〜、でも義務とは違うんですよね。契約をしたからと言っても、俺らは俺らの意思で行動出来るんですから」

 あくまで権利です、と屁理屈をこねるモラル。

「他に必要なことは?」

 と、叶夢が聞くと、モラルは腕を組んだまま「そうですねぇ…」と首を傾げる。

「あと必要なのは…──ゴミ捨てと部屋の掃除ですね!」

「は?」

「ほら、何日この部屋を空けるか分かんないんですから!」

 分かったらとっととやれ!と言わんばかりにモラルは叶夢の肩をぽむぽむと叩く。

「ひぃ……めんど…」

 気だるそうに、叶夢は渋々立ち上がった。



「はい!全部終わりましたね!」

 よく出来ました〜、とモラルはリビングの床に座っている叶夢の頭を撫でた。

「むぅ、子供扱いしなくていいから」

 というか馬鹿にしてるでしょ、と叶夢は口を尖らせながら、モラルの手を払い除けた。

 モラルはそんな事を気にも留めない様子で、

「さて、それじゃあ契約しないとですね」

 と、メインコンピュータに指を滑らせると、ホログラムの画面を現出させた。

 その画面の上部には『主従契約同意書』と書かれており、その下に契約内容らしきものが長々と綴られている。

 モラルはそのホログラム画面を、叶夢の目の前にまで持っていくと、叶夢の手にプラスチックで出来ているであろうペンを握らせた。

「えっとですね、この画面にはSNCでの規則なども記載されてるので、ちゃんと最後までスクロールして読んで下さいね」

「このペンは何?」

「そのペンはですね、ホログラム画面にだけ反応するペンですので、それで契約同意書の最後にサインする所があるので、サインしといてください」

 ふーん、と叶夢は空返事を返すと、ホログラム画面に指を当て、下へ思いっきりスクロールする。

 シャーっと画面が上から下へ流れて行き、1番下の画面でピタリと止まる。

 そのまま、叶夢は画面にある『契約者サイン欄(人間)』と書かれている欄に自らの名前を筆記体の英語でサインした。

 それを見ていたモラルは、きょとんとしながら叶夢に声をかける。

「えっ…と、叶夢様…」

 その声を聞いた叶夢は、得意げに胸をそらす。

「ふっふ〜ん!もしかして、私が英語──しかも、筆記体を書けるとは思わなかったんでしょう!?」

 ドヤる叶夢に呆れた様子で、モラルは盛大にため息をつく。

「あのですね、契約内容ちゃんと読みましたか?」

「……?…え、えぇ!!??あ、あんなのいちいち読んでるやついるの?!うっわぁ、真面目かよ!!!!」

 ひっくり返るほどのオーバーリアクションをとる叶夢に、モラルはわなわなと両肩を震わせながら反論する。

「いや…!SNCので!ちゃんと読んで下さいよ!!あっちで叶夢様がなんかやらかしたら、全部俺の責任になるんですよ!」

 頼みますから〜、とモラルは手を組んで叶夢にお願いをする。

「えぇ…めんどくさいから嫌だ〜」

 モラルの願いも虚しく、叶夢は生返事を返す。

「というか、モラルってSNCの案内をするのが仕事なんでしょ?ど〜して、私が規則を覚えないといけないの?」

「…む」

「なんか私がやらかしそうになったら、モラルが教えてよ」

 何か間違ってますかね、とニヤニヤして見せる叶夢に、モラルは閉口するしかなかった。

「とっ、とりあえず、これで契約書は書き終わりましたね。これをSNC中央管理塔に送信して、局の人間に承認してもらえれば主従契約完了です」

 モラルの説明に叶夢は表情を曇らせる。

「承認…って、それってどのくらいの時間がかかるの?」

 今日中にSNCに向かうことは出来ないのではないかと、叶夢は言う。

 その問を受け、モラルはにこりと笑う。

「心配いりませんよ。俺達が働いてるには、俺みたいな…猫?のようなAI以外に、沢山の人間が働いてます。送信してから数分もすれば、契約は承認されますよ」

 そう説明しながら、モラルは叶夢がサインした欄の下にある『契約者サイン欄(AI)』と書かれている欄に自らのサインを書き入れ、中央管理塔に向けて送信した。

「…これでよし、と」

 モラルはホログラム画面を閉じると、叶夢に向き直る。

「それで…叶夢様。SNCに行ったら絶対に気をつけて欲しいことがあるんですが…」

「ネットの中だからってはっちゃけすぎんなって事かしら?分かってる!たとえ、超絶美少女なコスプレイヤーさんがいても、絶対にセクハラしないわ!!」

 ふんすっ、と鼻息荒くする叶夢をモラルはペシりと叩く。

「違います!いや、それもやらないで欲しいんですけど──」

 その前に、コミュ障な叶夢が初対面の人にセクハラしない事くらいはモラルも分かっている。

「──そうじゃなくて、SNCは一応仮想現実なんです。現実世界からSNCに行く場合は、肉体をしてSNCに送り込みます。逆を言えば、SNCからこちらに戻って来る時は肉体のデジタル化を解除して──つまり、今の状態に戻るという事になります」

 叶夢は首を傾げる。

「…つまり?」

「つまりですね、こちらに肉体を置いて精神だけSNCに送るわけではなく、肉体も精神も全部がSNCに送られます。帰ってくる時も同様です。となると、もしもSNCで怪我等を負った場合、現実世界に帰ってくる時もその怪我は負ったままってことです」

 それを聞いて叶夢は納得した様に頷く。

「ふ〜ん、まぁでも、なら…」

「叶夢様…。もしかして、忘れてますね?」

 叶夢の呑気な返しを、モラルが真顔で遮る。

「SNCの仮想現実内では、人間──その他動物達の持っているは全く働きません。あちらで負った怪我は大なり小なり、SNC内にいる限りは治ることがありません」

「…え?!な、なんで…?」

 驚いた様子の叶夢に、モラルは腕を組んで難しい顔をしながら説明をする。

「SNC内で怪我をするという事は、デジタル化されたその肉体のデータが1部破損するという事です。破損したデータは放っておいても元に戻る事はありませんよね?そういう事です」

 それを聞いた叶夢は、顔をサッと青くする。

「じ、じゃあ…怪我をしたら…どうするの?」

 顔を青ざめさせている叶夢とは対照的に、モラルはぱっと笑ってみせる。

「その点はご安心を。ちょっとしたデータの破損であれば、我々AIが修復出来ます。もっとも、俺はその係じゃないんですけど。それに現実世界に戻れば自然治癒能力は戻ってきますしね」

 ホッと胸を撫で下ろす叶夢に、

「でーすーが!俺が言いたいのはそこじゃないですから!」

 モラルは笑みを消しビシッと指を突きつける。

「俺は前にも言ったはずなんですが、忘れてるようなのでもっかい言っときますね?叶夢様、もしもSNC?」

「…あ」

 叶夢はその答えに考え至ったのか、目を見開く。


「そうです。──SNC内での“死”である完全データ破損は、現実世界での“死”です」


 叶夢はごくりと唾を飲み込む。

「で、でも…死ななければいい話じゃない?!」

「まぁ、それが1番なんですけどねぇ〜」

 苦笑いをしながらモラルは言った。

「流石に、人間の肉体──データが完全に破壊されてしまっては、為す術がないんですよねぇ。かと言って、データが破損したまま現実世界に送り返しても、出てくるのは人間物…ですしね」

 現実世界での処理はめんどくさいので、SNC内で死亡した方のデータはSNC内でされます、とモラルは淡々と言った。

 …と、その途端、電子音がモラルのメインコンピュータから鳴り響いた。

「…どうやら、主従契約が承認されたみたいですね。じゃあ、叶夢様。そろそろ行くとしますか?」

 と、モラルが叶夢の方を見ると、

「──ッ」

 叶夢が真っ青になって震えていた。

「……あ〜、えっと。すみません。そんなに怖がるとは…」

 モラルは苦笑しながらも、申し訳なさそうに言った。

「一応言っておきますが、SNC内での死亡事故や肉体データの完全破損などは起きてませんので安心してください」

 それを聞いて叶夢は胸を撫で下ろす。

「──今はまだ…ですけど」

 モラルが意地悪く言うと、ぴくりと叶夢が震える。

「…いちいち、怖がらせようとしてんじゃないわよぉぉおおおおおおお!!!!!」

 叶夢は、久しぶり(?)のヘッドロックをかました。





 ―――





「す、すみませんでした……っ」

「ふん!分かればいいのよ!」

 やっとの事で叶夢から解放され、ぐったりとした様子のモラルを叶夢は腕を組んで見下ろしている。

「それで、SNC内で1番気をつけて欲しいことは分かったから、とっとと行こうよ」

 叶夢が腕を下ろしながら言うと、モラルが顔を上げる。

「…ほんとに行くんですか?」

「は?行くわよ!…てか、なんでちょっと嫌そうなの?!」

 嫌ではないんですけど、とモラルはきまりが悪そうに言う。

「あんまりこの仕事好きじゃないんですよね。いずれ、人類のほとんどがSNCに移住する事になるとしても、まだシステム的に不十分な事が多いですし……。局長もいい加減というか…なんと言うか………」

 ぶつぶつと文句を垂れるモラルだが、その声はモラルの2倍はあるであろう背の高さの叶夢の耳には届いていなかった。

「…よく分からないけど、私は行くわよ。カエさんにも久しぶりに会いたいし、何より仮想現実やらバーチャル都市やらが、アニメや漫画の世界みたいで気になって仕方ないもの!」

「……まぁ、そう言うと思ってましたし、俺も今更行くのをやめるとは言いませんよ」

 ワクワクと目を輝かせる叶夢を見て、仕方ないと言わんばかりにモラルは言った。

「では、現実世界とSNCを繋ぐ出入口──『ゲート』を開きます!」

 そう言うと、モラルは右耳にかかっているメインコンピュータに右手で軽く触れ、その右手を叶夢とモラルの目の前──リビングの何も無い空間にかざす。

 刹那、ヴンッ──と鈍い電子音を響かせながら空間が歪み、崩れ、ポッカリとした穴が開いた。

「わ…ぁ…!」

 叶夢が感動に声をもらす。

「…っはい!これがゲートです」

 モラルが叶夢の方を振り返って言う。

 叶夢は待ちきれないと言わんばかりに、小走りで2、3歩ゲートに近づき、首だけを突っ込んだ。

「うぉ〜!!すげぇ…」

 ゲートの中は青白く、鼓動のようにゆっくりと明滅している。

 人間の神経系のように、壁面を白い筋が行ったり来たりを繰り返している、なんともサイバー感溢れる空間となっていた。

「…けどこれ、どこにも出口みたいなのがないけど?どうすればSNCに出られるの?」

 叶夢はゲートの中を見渡しながら、モラルに問う。

 モラルは当然と言うように答える。

 言われた通り、叶夢がゲート内の下を覗き込んで見ると、

「え、えぇ……?」

 そこには、下へ続く先の見えないがあった。まるでダム穴のようだ、と叶夢は思った。

「えっと……これ…どうすんの?」

「?? 飛び降りてください」

 それ以外に何があるの? と言うかの如く、モラルはきょとんとしながら答えた。

「あ〜、つまり、あんたは私に死ぬな死ぬなと言いながらも、飛び降り自殺の予行演習をさせるとでも??」

「ん?はい。そうしないとSNCに行けませんよ?」

 叶夢がため息をつきながら精一杯の悪態をつくが、モラルはそれを華麗にスルーした。

「じゃあ…はい。モラル先にどうぞ」

 叶夢はゲートから2歩ほど下がり、モラルに先に行くよう促した…が、

「いえ、何かあったら困りますので、後ろから叶夢様を確認しながら行きますんで。叶夢様が先に行ってください」

 モラルはそれを拒否する。

「あぁっ…もう!!ちゃんと着いてきてよね!!」

 良い?!行くわよ?! と叶夢は後ろにいるモラルを横目に、ゲートの前に立つ。

 モラルは手をゆっくりと振りながら、

「では、いってらっしゃ〜い」

 と、呑気にしている。

 馬鹿にしているのか、と叶夢は軽く殺意を覚えるも、目の前のゲートに目をやる。

 足に力を込め、一気に飛び上がる。


「いってきまぁぁぁぁあああああすッッ!!!」


 叶夢の姿がゲートの中に消えて行くのと同時に、声も遠く下へと消えていく。

「おーおー、行きましたねぇ。さて、俺も行かないと…」

 叶夢のあとを追うべく、モラルもゲートの中に飛び降りる。

 モラルの姿が完全に見えなくなったと同時に、ゲートが現れた時を逆再生するかのように、ゲートは消えていった。


 ──ただ、後にふたり…いや、仮想現実にいる全ユーザーとAIが、このSocialNetworkingCityに居たことを後悔する事になる事を、彼らは知らない…。

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