1ー2話▶Мemories

 意識が、まどろみの中から急激に浮上するのが分かる。

「…ん」

 太陽の強い光が目蓋まぶた越しに目に入り視界が真っ赤に染まった。

眩しさに叶夢は顔をしかめる。

 体がやけに重くてだるい。寝すぎた、と叶夢は思った。

 太陽の炙るような熱と光から逃れるべく、叶夢は寝返りを打とうとした──が、

「うぁっ?!」

 寝返りを打った先に柔らかいベッドはなく、ガクンと叶夢は寝床から転げ落ち、頭を打った。

 頭を打ったおかげか眠気はすっかり吹き飛び、ややあって叶夢は目蓋を開く。そこで、自分が寝てたのはベッドではなくソファーであったことに気付いた。

「二段ベッドから落ちてたら死んでたな…」

 フローリングの床に強かに打ち付けた後頭部を押さえながら、叶夢は時計を見る。

 アナログ時計の針が示していたのは──

「──ろく…じ?」

 はて、寝る前の記憶が正しければ、自分が寝たのは早朝の5時過ぎだったはずだ、と叶夢は思う。

「叶夢様、おようございます。」

 首を傾げていると、呆れたような顔をしたモラルが、叶夢のもとへ歩いてきた。

 モラルは、昨日のダサTではなく、自前のワイシャツと、下にはスーツのズボンを身にまとっていた。

「あの…私って何時間寝てた?」

 叶夢は、恐る恐るといった風に尋ねると、モラルは盛大にため息をついた。

「昨日の午前5時から今日の午前6時まで。だいたい25時間です…」

 人間ってこんなに長い時間、連続で寝れるもんなんですね、とモラルは頭を抱える。

「にじゅうご…だって…?!」

 叶夢は今まで──それこそ、いじめを受けて精神的に不安定になり不眠症に陥る前も、ここまで長い間眠っていたのは初めてだった。

「寝不足で死ぬ事ってありますからね。それこそ、眠ったままぽっくり逝くらしいですから、叶夢様もそんな風に死んだのかと…」

 まぁ、とりあえず朝ごはん食べて下さい、とモラルは背中を向け、キッチンの方へ歩いていった。

 モラルに言われた通り朝食を取ろうと、叶夢はおもむろに立ち上がった。ほぼ、丸1日、何も食べていなかった為か、空腹で若干気分が悪かった。寝すぎたせいで、頭も若干痛い。

「あれ…」

 立ち上がってみて、叶夢は違和感に気づいた。

 いつもは、歩く度にカップラーメンなどのゴミや脱ぎっぱなしの服、漫画にラノベに同人誌が散らかり放題の汚部屋なのだが、今はそれらが

 周りを見渡してみれば、散らかっていた物は綺麗に片付けられ、汚部屋だったという事はちらとも感じさせられない。

「モラル?この部屋どうしたの?!」

 机の上に積まれている、本棚に入り切らなかったのであろう薄い本──同人誌の束を、先程までの緩慢な動きからは想像出来ないほど俊敏な動きで抱えると、叶夢はモラルに問いかけた。

 モラルは、ひょこりと壁から顔を覗かせると、あぁ、と短く首肯した。

「いや、あまりにも汚すぎたので…えぇ、そりゃあもう汚すぎたので、勝手ながら掃除させて頂きました」

 その本は棚に入り切りませんでしたので…それと、散らかってた服は洗濯機に突っ込んどきました、とモラルは説明する。

「それは有難いんだけど…。読んだ?」

「はい?」

 話の流れに合わない、叶夢の唐突な質問に、モラルは首を傾げる。

「よよよ、読んだの?!この薄っぺらい本を!!!」

 叶夢は額に冷や汗を浮かべながら、胸に抱えている同人誌を掌で叩く。

 その、鬼気迫る叶夢の形相に、モラルは1歩後ずさり、いやいや、と言わんばかりに両手を胸の前で振った。

「読んでないですよ!そんなの気にする暇もなかったですから!!」

 そう言うと、叶夢は一瞬、安堵したような表情を見せたかと思いきや、すぐに眉を吊り上げてモラルを指差す。

「いい?!この、薄い本…は……えっと。…とにかく!すっっっ…ごく教育によろしくない本なの!!」

 絶対読んじゃいけないからね! と叶夢は同人誌を机の上に置くと、近くにある本棚の1番上の段の本をごっそりと抜き取り、代わりに机の上に置いておいた同人誌を詰め込んだ。

 モラルは、そんな様子の叶夢を見ながら本棚の前まで近づき、

「教育によろしくない、とは?」

 と、叶夢を訝しげな表情で見上げた。

「俺、別に子供じゃないんで」

 その本、なんなんですか? とモラルは叶夢に問う。

 同人誌、と一言で言っても、それには数多くの種類がある。

 例えば、ある作品の二次創作だったり、一次創作だったり。漫画だったり、小説だったり…。同人誌自体がなんなのか分からない人はGoogle先生にでも聞けば良い。

 そして、叶夢が持ってる同人誌は、ほとんどが成人向け同人誌──エロ漫画本である。

 教育に悪いなんてもんじゃない。その内容は、成人していても読みたくないと言う人が8割以上いるであろう、過激な内容のものばかりであった。

 そんな事を、モラルは露知らず、

「見せてください、それ」

 ビシッ、と本棚の上段を指差す。

 叶夢は顔を青くしながら、首をイヤイヤと横に振る。

「きょ、きょきょきょきょーいくに、わるいからぁ…」

 見せる訳にはいかない、と言わんばかりに、本棚を庇うように両腕を広げモラルの前に立ち塞がる。

「見せてください」

「だめです…」

「教育に悪いとは?」

「悪いもんは悪いです」

「…叶夢様?」

 にっこり、といった様子でモラルは叶夢に笑いかけるも、その目は全く笑っていない。

「それ、見せないと…?」

「あああああ゙あ゙ああああぁぁぁアアアああァッッ?!?!」

 叶夢は絶叫しながら、バァンッ、と同人誌を本棚から抜き取り机の上に叩きつけた。

「ふ、ふへ…。この本を開いたら最後、新しい地平線がお前の前に切り開かれるであろう…」

 ふふふ、と叶夢は虚空を見つめながら力なく座り込む。

 何言ってるんだ、とモラルは吐き捨てながら、机の上に置かれた同人誌の束の中から無造作に一冊選んで、手に持つ。

 モラルは座椅子にのっそりと座ると、手にしたエロ同人誌のページを1枚1枚、真顔でぱらぱらとゆっくりめくっていった。

 その様子を、叶夢は顔を真っ青にして見つめている。

 ──隠してたグラビア本が親にバレた男子高校生の気持ちが、今なら痛いほど分かるぞ。

「──あの…」

 突然モラルに話しかけられ、ビックゥッ、と叶夢が跳ね上がる。

「ななななな、なんでございましょぉうか???」

 叶夢が言うと、モラルはくるりと、ページを開いたまま本を裏返し、

「ここ。なんで女の子に…男性器?が、ついてるんです?」

 とんとん、と立派な肉棒を生やした美少女のイラストを指の先でつついて見せるモラル。

「そ…それはぁあ!?」

 バッと物凄い勢いで、叶夢はモラルから同人誌を奪い取った。

 ひっくり返して表紙を確認してみれば、そこにはやはり、の2次元美少女がえがかれていた。

 モラルは、じっとりと──それこそ、軽蔑するような視線を叶夢に向ける。

「確かに、教育に悪いですね。──

「ち、違うの!これだけだから!!ヤバいのこれだけだからぁ!!!」

 このままでは同人誌を処分されると思った叶夢は、他のは普通の(?)エロ漫画なんだ、と必死に弁解した。

「ふぅん?」

 モラルは、ゴミを見るかのような冷たい眼差しで叶夢を見上げると、また無造作に同人誌を手に取った。

 同じように、真顔でぱらりぱらりとページをめくる。

 ──どうか、普通の(??)エロ漫画であってくれっ。処分される訳にはいかない。

 叶夢は祈るように手を合わせ、天を仰いだ。

「──あのですね、何ですか?これ」

「今度は何?!」

 バッと同人誌を奪いあげて、叶夢は固まった。

「こ、これはッ──」

 ──ショタケモエロ漫画…だと?!

 スっ、とモラルは立ち上がると、叶夢から半歩後ずさった。

 その様子を見た叶夢も、バッ、と立ち上がり、

「ち、違うから!!別に、ケモナーとかじゃないから!!!多分!!!」

「多分ってところが怖いですし…。というか、そうじゃなくて」

 いや、それもあるんですけど、とモラルは続ける。

「その、ショタケモ? とやらの股間についてるピンク色のグロい物体は…一体なんなんですか?」

 気持ち悪い! とモラルは身震いする。

 叶夢は、同人誌の表紙のショタケモの股間をまじまじと見つめる。そこからは、ぴょっこりとピンク色の小さい出っ張りが描かれている。

 いわゆる──ケモチ〇ポである。

「なにって…ち〇こよ。ちん〇」

「はぁ!?ど、動物のちん──男性器って、こんな形なんですか?!」

 グロい! と言うモラルに、叶夢は呆れたように首を振る。

「グロいって、あんたねぇ…。あんたもショタケm…じゃなくて……ケモノ──動物っぽいんだから、同じような感じでしょ?」

「え?」

「…え?」

 しばし、2人のあいだに沈黙が走る。

「………ちょっと失礼!」

 ガシッ、と叶夢が素早くモラルのズボンのベルトに手をかけ、

「え!?ちょっ…待って──」

「失礼しまぁああす!!!」

 ズボッ、と躊躇なく、叶夢はモラルのズボンの中に己の手を突っ込んだ。

「うぁ!?ちょ、どこ触って──ひぅ?!触り方っ、きもち悪ぅ…っ」

 じたばたと暴れるモラルを押さえつけながら、叶夢はモラルの股ぐらをまさぐった。仮にも女子高生のする事ではない。カオス極まりない。

「な、ない?!ち〇こがどこにもないぞぉ!?!!?」

 穴は?!ま〇こもないのかぁ?! と叶夢はさらに奥に手を突っ込んだ。これがもし好奇心からの行動ではなかったら、叶夢はモブおじさんと変わらないであろう。ほんとにカオスである。

「ぁぁああっ!!??!ほ、ほんとに!やめろぉおおおおお──」

「──あった」

「ゔ」

 あんた、メスだったのね! と花がほころぶような笑顔で叶夢は、モラルを見上げた。

 が、当のモラルは、憎悪に満ちた顔をして、

「それは──後ろの穴だよぉおおおおおおおおおおっっ!!!!」

 俺の貞操が危うい! と激昴しつつ半狂乱になりながら、モラルは叶夢の手を振りほどきリビングから逃げていった。

 リビングから出ていくモラルを見送りながら、叶夢はにこりと笑う。

「いやでも、穴はあるじゃん。受けなら出来るね」

 ドンッ、とリビングの隣の部屋から壁を殴る音が聞こえた。どうやらモラルは、リビングの隣の自分の部屋に逃げてったようだ。





 ―――





「怒ってる?」

 叶夢は、口に含んでた食パンを飲み込むと、同じソファーの隣に座っているモラルに声をかけた。

 モラルは、ちらりとも叶夢の方を見ずに、

「別に」

 と、素っ気なく返事をした。

 あの後、割とすぐにモラルはリビングに帰ってきた。が、ツンとそっぽを向いたままで、叶夢と目を合わせようとしない。

 叶夢は、へらへらと笑いながら頭を下げる。

「怒ってるよね? いや、まじでごめんごめん」

「別に怒ってないですし?」

 と、モラルは言うものの、やはり若干怒っているような気もする。

 そんな不貞腐れた様子のモラルに、叶夢は苦笑いをする。

「えと…あ、そうだ」

 叶夢は、何かを思いついたように声をあげると、食パンを右手に持ったままおもむろに立ち上がり、キッチンの方へ歩いていった。

「確かここに…。ほら、あったあった!」

 モラルー、と叶夢に声をかけられると、モラルは叶夢の方に顔を向ける。

「なんです?」

「ほれ、これあげるから許して」

 そう言って、叶夢が差し出してきたのはマカロンだった。

「む…」

「好きでしょ?これ」

 ほれほれ、と叶夢はマカロンの入った袋を揺らしながら、モラルの座るソファーに近づいて来た。

「これあげるからさ、機嫌直してよ」

「…………許します」

 そう言いモラルは、パシッ、と叶夢の手からマカロンを奪い取った。

 ──許す…ってことは怒ってたんじゃん。

 と、叶夢は思いながら、ソファーに腰を下ろすと、残っていた食パンを全部一口に頬張った。隣では、モラルがマカロンの袋を開けたところであった。

 叶夢は、口に含んでた食パンを咀嚼しながら、なんとなしにテレビのリモコンの電源ボタンを押す。

 しばしの間があってから、テレビ画面にニュース番組が映る。画面の左上には、6時半を示す表示が出ている。

 唐突に、叶夢は「あのさ」と話を切り出した。

「あんたって…性別あるの?」

 モラルがマカロンを吹き出した。

「な……突然、なにをおっしゃって…?」

 けほけほと咳き込むモラルを横目に叶夢は天井を見つめる。

「だってさ…どっちも付いてなかったんだよ?」

 真顔で聞いてくる叶夢を、モラルは軽蔑するように見る。

「そ、そんなに気になります?」

「気になるね」

 いたって真剣に、叶夢はモラルの目を見る。

 モラルは咳払いし、口を開く。

「えっ…とですね…。前にも言いましたが、我々AIは人工知能を搭載した機械ではなく、人工生命体──つまり、普通に生き物なんですよね」

 モラルは、マカロンをもてあそびながら説明する。

「でも我々AIは、繁殖する必要もないですし、その…なんて言うんです? ……そういう行為をする必要もないので、どのAIも生殖機能は持っていません」

 なので、我々AIに性別も無ければ生殖器官も必要ないのです、とモラルは言う。

 それを聞いた叶夢は、

「でもさ、外見は性別なくてもさ、中の人格には性別あるでしょ?」

 と、問う。

 それを聞いたモラルは、そうですね、と首肯する。

「一応ありますね」

「どっちなの?」

「はい?」

「あんたはどっちなのか聞いてるのよ」

 叶夢の疑問の声に、モラルは顔を引き攣らせる。

 ──こいつ、ほんとに分からないのか?!

「男、ですけど」

「え」

「え?」

 ほ、ほんとに分からなかったんですか?! と言いながらモラルは叶夢に掴みかかる。

 が、叶夢はおどけるように両手を広げると、冗談冗談、と笑った。

「や、やめてくださいよ…」

 モラルは、叶夢から手を離すと、ソファーの上に落ちたマカロンを拾って口に入れた。

 すると叶夢は顎に手を当て、何かを思案しているような素振りをする。それを見たモラルは、眉をひそめて言う。

「何か嫌な予感もするんですけど……何を考えてるんです?」

「いや、思ったんだけどさ………」

 と、叶夢はモラルの方を見る。

「後からでも、つけられるんじゃない?」

「え゙………あの…何を……?」

 モラルは、聞かない方が良いかもしれないと思いつつも、首を傾げる。

「何って…ち〇こと、ま〇この事よ。人工生命体なんだから、後から付けることも出来そうじゃない?」

 あぁ、予想してた通りだ、とモラルは頭を抱える。

 そんなモラルを気にせず、叶夢は問いかける。

「どうなの?出来るの?」

 モラルは、苦虫を噛み潰したような顔をしながら答える。

「出来なくは…ないです…。というか、出来ます。…実際、何人かやってた──いや、AIもいますし…」

 そんな事をして何に使ったかなんて、考えたくもない、とモラルは呻く。

 叶夢は驚きに目を見張る。

「やっぱ出来るのね………リアルエロ漫画じゃん──ってそんな事より、ってどういう事よ。無理やり付けられたってこと?」

 叶夢の問いに、モラルは頷く。

「だいたい女性の人格を持ったAIですけどね。主従契約をしたら、だいたいあるじに服従しなくてはいけませんからね。絶対って訳でもないですけど、なんかしら理由があって断れなかったんでしょうね」

 ケモナーかなんかでしょうか?とんだ変態もいたもんですね、とモラルは嘆息する。

「へぇ〜、でも、私変態だからなぁ」

 女の子だったらヤっちゃうかもしれない、と言う叶夢を、モラルは汚物を見るかのような目で見る。

 それを見た叶夢は、慌てて手を振る。

「いや!違う!!ちゃんと合意の上で…ね」

「合意うんぬんの前に、やっぱりケモナーなんじゃないですか」

 あんまり近づかないで下さい、とモラルは両腕で自分の体を抱く。

「俺が女じゃ無くて良かった…」

 そうモラルが言うと、叶夢はビッと親指を立てて見せる。

「モラルならOKです☆」

 ただしあんたが下、とにっこり笑って言う叶夢の事を、この時はまじで引いたと後にモラルは語る。



「暇だ」

 しばらく、ぼーっとテレビ画面に映るニュース番組を眺めていた叶夢は、唐突に声をあげた。

「…そうですか」

 と、言いながら、モラルはマカロンが入っていた空袋を目の前のテーブルの上に投げた。

「うぅーー…暇だよぉおお、モラルぅうううう!!!」

 構ってくれと言わんばかりに、叶夢は倒れるようにしてモラルの膝の上に頭を乗せる。

「く、来るな変態ケモナー!!てか…お、重いですよ!………ん?え、くさっ…」

「は?」

 今なんつった? とモラルの膝の上に頭を乗せたまま、モラルを睨んだ。

「あ、いや…思わず…。じゃなくて、まじでくさいですよ?!昨日、風呂に入ってないからですよ!」

 こんな真夏に風呂に入ってないとか、くさいに決まってるじゃないですか! と言いながら、モラルは自分の膝の上に乗っている叶夢の頭をペチペチと叩いた。

「むぅ…」

「分かったなら、とっとと風呂に入ってください。あと重いしキモイからはやくどいて」

 モラルが言うと、叶夢は不服そうにのっそりと体を起こした。

「でもさぁ、別にどこも行かないんだよ〜?」

 臭くても良くない? と叶夢が口を尖らせて言った。

 それを聞いたモラルは、叶夢の頬の辺りに顔を近づけ、スンスンと鼻を鳴らすと、途端に顔を顰めた。

「…女子高校生からはっされてちゃいけない匂いですよコレ……俺が嫌ですから風呂に入ってください」

「そ、そんなに言わなくても良くない?! こちとら難しいお年頃なんじゃい!」

「言われたくないんだったら、とっとと風呂に入ってください!」

 ほらほら、とモラルは手をヒラヒラさせて叶夢に風呂に入るよう促すと、すぐに右耳に掛かっている光輪──メインコンピュータから、空間にホログラム画面を出現させ、その画面を指でスワイプし始めた。

 どうやらネットを見ているようだ。

 その様子を見ながら、叶夢はしぶしぶ立ち上がる。

 ──と、叶夢の視界の左端で、淡々と天気情報を流していたテレビの画面が、パッと青く光る。

 なんとなしに、叶夢はそちらに顔を向けた。

「──…海」

 そこには、目が痛くなるほどに鮮やかな青──空と海が、画面越しに広がっていた。

 叶夢のつぶやきに、モラルはホログラム画面をいじる手を止めずに、視線だけテレビへ向けると、

「海ですね」

 と、淡々と短く言った。

 モラルは視線を叶夢に移す。

「叶夢様は、今年は行く予定は無いんですか?」

「ひとりで行ってどうすんのよ…?」

 モラルの問いに、叶夢は呆れた様子で問い返すと、

「それもそうですね」

 と、モラルは苦笑した。

 すると、

「あ、そうだ」

 何かを思いついたように、叶夢は唐突に声を上げた。

「行かない?」

 叶夢は、くるりと首を回してモラルの方を見つめ返しながら言った。

 叶夢の問いかけに、モラルは首を傾げる。

「どこへです?」

「…海だよ」

「俺と?」

「残念ながら私には、あんた以外誘えるような人はいないんですけれど?」

 顔を引き攣らせながら叶夢は言う。

 モラルは頷くと、

「そうでしたね。──まぁ、俺は良いですけど…叶夢様は、海とかいうリア充スポットへ行っても平気なのですか?」

 と、叶夢に聞いた。

 叶夢は、フンっと鼻で笑う。

「私、そこまで引きこもりじゃないんで?一緒に行ってくれる人がいなかっただけですし?」

 リア充共とか気にしませんし? と叶夢は言う。

 絶対嘘だ、とモラルは思いつつも、首肯する。

「はいはい、分かりましたよ。じゃあとっとと風呂に入って来てください」

「はーい!」

 モラルに言われ、叶夢は素直に風呂場に走っていった──

 ──と思いきや、壁の間からひょっこり顔を出すと、

「おい!覗くなよ!!」

 ビシッとモラルを指さして、叶夢は言った。

「言われなくても覗きませんよ!!」

「ほんとか?!もし覗いたら襲ってやるからな!」

「分かったから、とっとと風呂に入ってください!」

 おう! と叶夢は、今度こそ風呂場へ駆けて行った。

 叶夢の後ろ姿を見送りながら、モラルはため息をつく。

「まさか、こんな変態だとは思わなかった…」





 ―――





「着いて…しまった……っ!」

 さらさらとした砂浜の上に立ちながら、叶夢は感動に声を震わせた。


 あの後急いで準備をして、電車を乗り継ぎ、約1時間程で海への最寄り駅へ着いた。その後、10分ほど歩けばそこはすぐにビーチである。

 叶夢の服装は、「ニート」という文字が入った薄手のダサTシャツに、普通のものよりも随分と薄く、風通しの良くなっているパーカーを、右腕の傷跡を隠すために羽織っている。

 風通しが良い服装だとはいえ、気温が高く、地面から陽炎が立ち上るコンクリートの上を歩けば、1分もせずに汗が吹き出てくる。

 徒歩でビーチに向かっている時、叶夢は隣を歩いているモラルをちらと見てみると、スーツのジャケットを脱いで、左脇に抱えて歩いていたモラルは、ワイシャツの襟の1番上にあるボタンを外し、ネクタイを緩めて、右手に持ったうちわで胸元を扇いでいた。

 スーツをカッチリと着ている姿は、見てて暑苦しかったので、今の格好の方がいくらかマシだと叶夢は思った。


 ビーチに着くと、潮の香りと砂浜の焼ける匂いを乗せた風が、叶夢の長いツインテールを揺らす。

 ──叶夢の目の前には、青く輝く大きな空と海が広がっていた。

 平日であるためか来ている人は少なく、家族連れやカップル、サーファーがちらほらといる程度である。叶夢のすぐ近くには、海の家が所狭しと並んでいて、そこからは客呼びの賑やかな声が聞こえてくる。

 叶夢は、ワクワクといった様子で、海への期待に胸をふくらませた。

「ね!ねぇ!モラル!!いいよね?もう行っていいよね?!」

 はやくはやく、と今にも駆けて行きそうな叶夢を落ち着かせるように、モラルは言う。

「ちょっと待って下さい。 …洋服で泳ぐ気ですか?」

 モラルに指摘され、叶夢はアッ、と言うと自分の服の裾を摘む。

「忘れてた…。ちょっと着替えてくるから待ってて!」

 そう叶夢は言い残すと、荷物を持ってシャワールームの方へ走っていった。

 そんな叶夢の後ろ姿を、モラルは見送ると、

「……暇だし、なんか買ってこよ」

 と、踵を返して、うちわで胸元を扇ぎながら、ぽてぽてと海の家の方へ歩いて行った。



「おまたせ〜」

 しばらくすると、パタパタとビーチサンダルを鳴らしながら、叶夢がモラルの方へ駆けて行った。

モラルの右手には、海の家で買ってきた焼きそばの入ったビニール袋が握られていた。

「遅いですよ」

 そう言いながら、モラルは叶夢の方へ向き直った。

「…あれ?」

 途端に、モラルは顎に手を当て、叶夢の水着姿をまじまじと見た。

 その様子を見た叶夢は、自分の体に目を落として、

「え、どっか変かな?」

 と、首を傾げた。

 叶夢の問いに、モラルは焦ったように勢いよく首を降る。

「いえ!いえいえ、そんな事はないんですけど…。女子高生って…こう……もっと際どい水着を着るのかと思ってまして…」

 モラルの言う通り、叶夢はビキニのような露出の多い格好をしている訳ではなく、藍色のビキニの上に薄い水色のパーカーのようなラッシュガードを身につけていて、下には短いジーパンのような水着を履いていた。

 すると、叶夢は腹を抱えて笑い転げた。

「いや!そんな訳ないでしょ!女子高生でもなかなかビキニ単体では着ないってば!!…もしかして、そういうの期待してた?」

 モラルって意外とむっつりさん? と叶夢はにやにやとモラルをからかった。

 しかし、モラルは特に気にせずに、馬鹿にした風に鼻で笑う。

「や、別に叶夢様のビキニ姿なんて興味ありませんし?」

「あ、言いやがったぞこいつぅ〜♪」

 叶夢はにんまりと笑って見せるが、目の奥は全く笑っていない。

「まあ、とりあえず海の方、行きましょうか」

 そう話を切り替えて、モラルは自らのスーツのズボンを膝下までまくってから、海の方へ歩き始めた。



「私…泳げない」

「え」

 ふたりは人目を避けるために、岩場に挟まれた──いわゆるプライベートビーチのようになっている場所に、借りてきたレジャーシートとパラソルを設置した。

 そして、さあ泳ごう、となったところで叶夢は泳げない宣言をしたのだ。

 泳げないと言う叶夢を、モラルは見上げる。

「なんで海行きたいとか言ったんです?……はっ! もしかして自殺するおつもりで……?」

 やめてくださいよ! と言うモラルに叶夢は首を振ってみせる。

「いや、もう、自殺するつもりはまっっったく無いよ」

 そう言いながら、叶夢は視線を上げ、地平線の向こう側を眺める。

「──正直さ。私が死ぬ必要って…無かったよね」

 あの時の私、ちょっとおかしかったのかも、と言う叶夢を、モラルはちらと見た。

「そうですねぇ。叶夢様は…何も悪くありませんよ」

 と言うと、モラルは叶夢と同じように、海の向こうを眺める。

 叶夢はくるりと海に背を向けると、視線を落としてモラルを見て、照れくさそうに笑った。

「私、もう逃げないよ。 死んで逃げるなんておかしいもんね、立ち向かわなきゃ」

 もうこの話はおしまい! と言うと、叶夢はレジャーシートとパラソルのもとへ駆けて行った。

「…叶夢様は偉いですね。俺と違って」

 遠くにいる叶夢の顔を眺めながら、モラルはうわごとのように呟く。

「──自分の人生をめちゃくちゃにした奴らを、あなたは復讐してやろうとは思わないのですか…」

 途端に白い波が打ち寄せ、モラルの足が砂で黒く汚れた。



「ねぇモラル」

「んー?」

 パラソルの下で、叶夢とモラルは仲良く並んで、海の家で買ってきたかき氷を食べている。

 唐突に叶夢がモラルに話しかけた。かき氷をすくう手を休めずに、モラルは声だけで叶夢に応答した。

 叶夢はモラルの方を見ながら口を開く。

「あんたと会ってから…今日で3日目じゃない? 明日、ソーシャル…なんとかってところに連れてってくれるのよね?」

 叶夢の問いに、しゃく、とかき氷を口に運ばせながらモラルは言う。

「あぁ、SNCの事ですか? そういえば、そういう約束でしたねぇ」

 モラルの返答を聞いて、忘れてたのか、と叶夢は思った。

「じゃあ、明日の昼過ぎにはSNCに向かうとしますか」

「やったー!」

 ばんざーいとかき氷を掴んだまま、叶夢は両手を振り上げた。

「…」

「…」

 しばらく、ふたりがかき氷を食べる音と波が打ち寄せる音だけが響く。

「あのさ」

「ん」

 また、叶夢からモラルに声をかけた。

「どうしてあの時、私を助けてくれたの?」

 あの時──というのは、叶夢が電車に投身自殺をしようとしていた時の事であろう。

 モラルは空になったかき氷のカップを傍らに置くと、叶夢に視線も寄越さずに俯いて答える。

「……似てたんですよ」

「…誰に?」

 叶夢がきょとんとして聞くと、モラルは叶夢の方を見る。どことなく悲しいようなやるせないような表情をして、モラルは言う。

「さぁ…」

 そう答えるモラルの目は、叶夢ではなくどこか遠い人物を見つめているようだった。

「モラ──」

「──そろそろ帰りましょうか」

 叶夢の呼びかけに被せるようにしてモラルは言うと、よっこいしょと言わんばかりに立ち上がって、叶夢の方へ振り向いた。

「そろそろ昼になるでしょうし、帰りに何処かの駅でご飯でも食べて行きましょうか」

 そう言うモラルからは、さっきまでの哀愁漂う雰囲気は無くなっている。いつも通りに、にやにやと無機的な笑みをモラルは顔に貼り付けている。

 そんなモラルを見て、叶夢は拍子抜けしたように笑う。

「そうね。明日、SNCとやらに行くみたいだし、帰るかあ」

 叶夢もモラルにならって立ち上がると、パラソルを畳んで、背負って来た大きめなリュックの中に押し込んだ。それを見て、モラルも片付けを始めた。

 叶夢がスマホを確認してみれば、時刻は10時を回ったところだった。ここへ来てから2時間程度しか経っていない。

 が、普段から引きこもり生活をしている叶夢からしてみれば、良い気分転換になったと思った。

 そうこうしているうちに、片付けは終わった。

「叶夢様? 着替えはしないのですか?」

「ん、あぁ。まあ、濡れてないせいで大して汚れてないし…このまま帰ろうかな」

 そう言うと、ならラッシュガードの前のチャックだけでも閉めといてくださいね、とモラルが言った。叶夢の水着はラッシュガードのチャックを閉めてしまえば、普段着とほぼ変わらないように見える。

 叶夢は、分かった分かった、と言いながらリュックを背負うと、

「じゃー、帰るか!」

 と言い、駅に向かって歩き出した。その後ろをモラルがとことこと着いていく。

 叶夢はモラルの方をちらと見た。

「ねぇ。昼ごはん、マクド〇ルドでも良いよね?」

「俺はどこでもいいですよ」

「それ、一番困るやつー!」

 ふたりは、仲良く笑い合いながら、帰路に着いた。





 ―――





「あ゙ぁああ゙ーー!!ただいま、我が家ぁ!」

 マンションの自室に着いて早々、女子高生らしからぬダミ声を発しながら、叶夢はソファーに倒れ込んだ。

 リビングに入る手前の廊下で、叶夢が下ろしたリュックを引きずりながらその様子を見ていたモラルは、全身の白い毛をぶわっと逆立て、叱責する。

「叶夢様!? その砂だらけの体で、ソファーに横になんないで下さい! 掃除するのは俺なんですから!」

 分かったらとっととこっちに来てください、とモラルは勢いよく手招きする。

「はぁ〜い。…ふぁ…あ………。ん〜、眠…」

 叶夢はあくびをしながら、ソファから体を起こした。顔を上げて時計を確認してみれば、針は12時過ぎを示していた。帰る時、昼食を取るためにファストフード店がある駅に寄ったついでに、店が立ち並んでいる駅ビルの中を散策した為、帰ってくるのに時間がかかったのであろう。

「叶夢様ぁー?」

「あ、はいはーい!」

 風呂場の方から聞こえてくるモラルの声に、慌てて叶夢は立ち上がった。



「あんた…意地でも覗かないのね」

 シャワーを浴び終わったふたりは部屋着──ダサTに着替えると、仲良くソファーに並んで座りながら、大して面白くもない昼ドラを観ていた。

 ふと叶夢が口を開いて、モラルに話しかける。が、その問いかけの意味が分からずに、モラルはテレビ画面を見つめたまま問い返す。

「どういう意味です?」

 だって、と叶夢はモラルの方を見る。

「私、あんたの目の前でシャワー浴びてたのよ? あんたの中身が男なら、普通覗くわよね?」

「叶夢様の『普通』が、一体どこから来た情報なのかは分かりかねますが…──いや、漫画情報なんでしょうけどねぇ」

 心底、不思議そうに言う叶夢に、モラルは盛大にため息をついてみせる。

 えぇ〜? と叶夢は、モラルに抗議するような声を出す。

「いやいや、こんなおっぱい大きい女子高生なんていねーわよ? …あんたには、見るだけと言わず揉まれてもいい──」

「──あ、ちょっと黙って叶夢様。………ほらぁやっぱり、瀬賀、浮気してるじゃないですか」

 完全なる逆セクハラを仕掛けた叶夢を無視して、モラルはテレビ画面の中の役者を指さす。

 そんなモラルの様子を見て、叶夢はソファーに寝っ転がる。

「叶夢様。寝るならベッドで寝てください。ソファーで寝られると邪魔なんですよ」

「…はいはい」

 相変わらずテレビ画面を見つめたまま、モラルは言うと、叶夢はしぶしぶといった風に立ち上がり、ベッドの方へ歩いて行った。

 叶夢は二段ベッドについている梯子に足をかけて登り、二段目に横になる。

「明日、SNCに行きたいんでしたら、はやく起きて下さいよー?」

 モラルの声に、

「んぅ」

 と、短く返事をして、叶夢はすぐに目蓋を閉じた。





 ―――





 昼ドラも終わり、時計は1時過ぎを示している。

 叶夢が寝静まったのを確認すると、俺はソファーから立ち上がる。

 叶夢を起こさないよう、慎重にベッドの横を通り過ぎ、廊下の突き当たりまで行く。

 突き当たりには、左側には玄関。右側には、叶夢の両親の遺品が置かれている物置部屋がある。

ここには入らないと決めてはいたが、どうしても調べたいことがあり、とうとう部屋に入る決心をした。

 そっと、音を立てないように物置部屋の扉を開ける。そこには、色々な物が置かれていたが、俺は気になる物を見つけて立ち止まる。

 それは、額に入った小さめの集合写真だった。

 叶夢の学校の集合写真だろうかと思ったが、近づいてみて、違うと分かった。

 その写真は、叶夢の両親が働いていた会社の社員達との集合写真だった。

 その中のある人物に気づき、そこ一点を見つめる。

「………っ姉さん」

 そこにいるのは、快活に笑う、薄い灰色の髪をした女性だった。

 あぁ、なるほど。この写真がここにあるということは…つまりそういう事だ。

 自分の顔が悲痛に歪むのが分かる。

 ──俺は、ここにいる社員全員のことを、知っている。

 視線を少しばかり横にずらすと、そこには──叶夢によく似た女性と男性が、隣合って集合写真に写っていた。

 ドクン、と心臓が波打つ。やばいと思う間もなく血なまぐさい匂いが鼻をつく。

「う…」

 やっぱり……。やっぱり、姉さんと叶夢の両親は…っ。

 社員の集合写真から目が離せなくなる。写真の額を持つ手が震え、足元がおぼつかない。

 ふいに、写真の中の社員達の顔が歪む。

 いつの間にか、彼らの目は表面が乾ききり白濁とし、どこからともなく、でろり、と赤黒い血が溢れ出す。


 写真の中の人物達の姿は、完全に生きている人間のそれでは無くなっていた。


「うぁああああああああああああああああああああああああああッッ!!!???」

 たまらず写真を投げ捨てる。

 ガシャン、と音をたてて、写真の入ったがくが床に打ち付けられる。

 途端に、地面に落ちた写真からどくどくと血が湧き出て、赤黒い水たまりをつくりだす。

「ひ…ぃっ……!?」

 思わずしゃがみこむと、写真の方から確かに声が聞こえた。


 ──どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして


「どうして?」


 どこか聞き覚えのある声で、その何かは音をこぼす。

「う…ぐ……。ごめ、んなさい…っ。許して、お願い。許して許して許して──」

 わけも分からずに、床を見つめたままぼろぼろと目から涙が落ちる。

 白濁とした、あの無数の目がこちらを見ているような気がして、意志と関係なく体がどうしようもなく震える。

「…姉、さん」

 得体の知れない恐怖に、目蓋をきつく瞑る。

 ふいに、押しつぶされそうなほど重く、黒かった気配が無くなる。

 恐る恐る目蓋を開け、顔を上げてみると、先程まであったはずの赤黒い水たまりは綺麗に無くなっている。

 慌てて走り寄り写真を見てみれば、そこには変わらぬ笑顔の社員達が写っている。目は生き生きとして、赤い血なんて一滴たりとも付いていない。

 壁を背にしてその場に座り込む。自分の意志とは別に口元が弧を描く。喉の奥から掠れた笑い声が出る。

「はは……やっぱり、やっぱりか…」

 自分の姉と叶夢の両親は同じ会社で働いていたんだ。この写真で確信した。

 今なら分かる。姉さんは、きっとこんな事を望んでなんかいなかった。

 全部、自分の自己満足だ。


 全部──全部、自分のせいだ。


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