1-1話▶Flash back

「うち、お前のこと嫌いだったんだよね」


 親友が感情の伺えない顔をして言った。

 ──優芽ゆめ…?

 私は突然親友の口から発せられた言葉の意味をすぐには理解出来ずに、ただ親友の名を呼んだ。

 優芽の後ろには、忌々しいクラスの女子どものにやけ顔が並んでいる。

「いつもいつも、うちに付きまとって来て……正直くそウザかった」

 そう言う優芽の右手には大きなカッターナイフが握られていた。優芽が右手に力を込めると、ジャキッ、と鈍い音を出してカッターナイフがを剥いた。

 優芽はその刃をゆっくりと私の鼻先に向けた。

「お前なんか…いなく、なっちゃえって……ずっと前から、思ってた…!」

 優芽の声とカッターナイフを握る手が細かく震え出す。それまで無表情だった優芽の顔がぐにゃりと、歪む。


 その表情は、憎悪だと、私には見えた。


 優芽の後ろにいる女子達の楽しそうに煽るような声が聞こえてくる。

 この親友が何を考えてるのか、私には全く理解できなかった。

 ──優芽、やめて…っ。

 何をされるのか分からなくて、怖くて、私は親友から1歩後ずさる。

「とっとと──」

 優芽の持つカッターナイフが振り上げられる。その時、一瞬だけ、憎悪に引きつっていた優芽の顔が緩み、今にも泣きだしそうな顔をしたように見えた。

 私は迫り来るであろうカッターナイフを恐れて目をきつく瞑った。

「──うちの前から…っ消えてよぉおおおっ!!!」

 優芽の絶叫と共に、左耳のすぐ側で制服が切り裂かれる音が聞こえた。

 鋭い痛みが、左肩から手の甲にかけて一気に走った。見れば、切り裂かれた制服の間から赤黒い血がどくどくと流れ出て、白いセーラー服をどんどん赤く染め上げていた。

 急な出血のせいか──もしくは親友に切りつけられたショックのせいか、意識が急激に遠のいていき、後ろに倒れる。

 薄れゆく意識の中で見たのは、親友が血の滴るカッターナイフを構えたままボロボロと目から大粒の涙を流している姿と──


「腕じゃなくて、顔を切れって言ったよね?」


 そう親友に問い詰めるクラスメイトの、愉悦に歪んだ醜い笑顔だった。





 ―――





「──ッ!」

 ガバッ、と叶夢は被っていた薄いタオルケットを蹴りあげて飛び起きた。

 呼気が激しく乱れ、額はじっとりと汗に濡れ前髪が張り付いている。それは夏の暑さか、それともフラッシュバックした悪夢のせいか。

 右手で左腕に触れる。薄手とはいえ、服の上からでも優芽に切りつけられた傷跡がはっきりと確認出来る。

 ──また、この夢か。

 と、叶夢は思った。


 凰稀優芽おうきゆめは、高校1年生から付き合いのある叶夢の親友

 高校2年生になり、叶夢がクラスの女子からいじめられても優芽だけは叶夢の味方でいてくれた。

 うちも一緒にいじめられてやる、とまで言って優芽はずっと叶夢のそばにいてくれた。

 しかし、あの日──高校2年生として最後の日。


 無意識に右手に力が入る。ギリッ、と左腕の傷跡に爪が食い込む音がした。

 心から信頼していた親友に──亡くなった父と母の次に信頼していた親友に裏切られた時から叶夢は人間不信に陥り学校へ行かずとも、こうしてほぼ毎日、あの時の光景がフラッシュバックするのだ。

 ──憎い。

 ずっと、ずっと優芽は助けを求める私を心の中で笑っていたのだろう。

 ふ、と叶夢は、苦笑ともため息ともとれない音を口から出した。

 右手を左腕から離し、胸に手を当てる。乱れていた呼吸は、随分落ち着いた。


 額の汗を拭い、時計を見る。時刻は、夜中──いや早朝だろうか? とにかく、4時だった。

 顔を上げ、いつも夜中に起きてしまった時のようにコンビニへ行こうと思い、なんとなしにぐるりと部屋を見渡す。

 叶夢が住むマンションの部屋は、控えめに言って。ただこれに尽きる。

 机の上には、カップラーメンやコンビニ弁当の空箱が散らかっていて、叶夢が自炊をしないのは一目瞭然である。

 パソコンの周りには、アニメのフィギュアやアクリルスタンドが所狭しと並べられている。

 そこらじゅうに服や下着、漫画やライトノベルなどが投げ出されていて、足の踏み場も無い。

 その割に、ベッドだけはやけに立派な二段ベッドなのだ。

 兄弟姉妹がいた訳ではないが、ただ単に高いところで眠りたかったからという理由で父親に買って貰ったのだ。

 そんな事を考えながらぼうっと部屋を眺めていると、叶夢は部屋の異変に気づいた。

 ベランダへと続く大窓に取り付けられているカーテンレールに、ハンガーに掛けられて、シワひとつない綺麗なスーツが吊るされていたのだ。

「…ん?」

 ふと、枕元に目線を落とすと、

「ふごご…」

 と、うつ伏せで苦しそうな寝息をたてている、Tシャツを着た白い猫がいた。誰だっけこれ。

 叶夢は、ふごふごと、息のしづらさに苦しそうに悶えながらも仰向けになろうとしない猫を、しばらく見つめると、

「あっ、モラル…か」

 思い出した思い出した、と頷いた。

 昨日の夕方に駅から帰ってきた時、叶夢は久しぶりの外出に疲れきってしまい、モラルに人形用につくった小さめのTシャツを着替えとして投げつけた後、すぐに布団に入り寝てしまったのだ。

 ちなみにTシャツというのはこれだ、と言うかの如く、叶夢はうつ伏せで寝ているモラルをひっくり返す。よほど苦しかったのか、眉間にシワが寄っていた。

 そしてTシャツには「いそうろう」の文字。我ながらセンスがあると叶夢は首肯した。

 せっかくだからモラルもコンビニへ連れていこうと思い、叶夢はそっとモラルの首に腕をまわすと、そのまま力任せに締め付けた。ヘッドロックである。

「ぅぐッ…?!」

 突然のヘッドロックにモラルが苦しさに喘ぎ、目を覚ましたところで叶夢は腕の力を弱めた。

「おはよぅ」

 いたずらに笑いながら、よっ、と言わんばかりに叶夢は片手を軽く上げた。

 モラルは首を抑えながら、じっとりと眉をひそめて叶夢の事を軽蔑するような視線を送る。要訳すると、寝起きにヘッドロック?え?嘘でしょこの人、って感じだろう。

 モラルはちらりと時計を確認すると、盛大にため息をついた。

「おはようじゃないれす…」

 と、寝起きのせいか、どこか呂律の回ってない掠れた声で悪態をつきながら、モラルはそそくさとタオルケットの下に潜り込んだ。

 叶夢はムスッとして、タオルケットをバサッと奪い取った。

「ちょっと、モラル!昨日、あんたは睡眠いらないとかほざいてなかった?!」

 がっつり寝てるじゃないの! と叶夢が言う。

 すると、丸くなっていたモラルがカッと覚醒し、立ち上がった。

「確かに…ッ」

「確かに!じゃねーわよ」

 言われて初めて気づいたと言わんばかりの様子のモラルにツッコミを入れる叶夢。

 寝癖がついて跳ね回ってる毛を撫でながら、モラルは首を傾げた。

「現実世界では…SNCとは違って睡眠をとる必要があるのでしょうか?」

 その時、ぐぅ、と腹の虫がなく音も聞こえた。

「…あと、食事も」

 必要なんですかねぇ?と、また首を傾げるモラルに、

「そんなの私に聞くんじゃねーわよ…。分かるわけないでしょ」

 なんだこいつ、と叶夢は己のもさっとした髪の毛に手を突っ込み頭をぽりぽりと掻いた。

 とにかく、と叶夢は二段ベッドから飛び降り、ベッドの上で突っ立っているモラルの脇を両手で掴んで持ち上げてベッドから下ろしてやった。

 自分で下りれますよ、と言うモラルを無視して叶夢は財布を掴むと玄関へと向かった。

「パジャマでどこへ行くんです?…ふぁ、あ」

 眠り足りないとアピールするかのようにモラルは欠伸をしながら、叶夢に問いかける。

 叶夢は財布の中身を確認しながら、コンビニよ、とだけ答えた。

 玄関を押し開けて外に出ると、夏特有のムワッとした生ぬるい風が叶夢のボサボサの髪を撫でた。あと数十分で日が出るであろう、東の空が白み始めている。

「ん、んー!!!」

 ぐっと叶夢は伸びをして、エレベーターのある方へ歩き始める。すると、横──いや、足元でモラルが、

「え、鍵は?……というかここ、2階なんですけど…」

 階段の方が早くないですか?と叶夢の部屋の玄関の隣にある階段を指さすも、叶夢は聞く耳を持たない様子でずんずん進んでいく。仕方ないとばかりにモラルもスタスタとその後を追う。

 エレベーターに叶夢とモラルが乗り込み、1階へのボタンを押すと、ガタガタと揺れながらもゆっくりとエレベーターは高度を下げていった。

 マンションのフロントから出ると、背の高いコンビニの看板が住宅街の向こう側に見えた。距離はそう遠くない──というか、遠かったら行こうとなんてしない。

 叶夢は、サンダルをペタペタと鳴らしながらコンビニへ向かって歩き始める。

 モラルはと言うと、寝起きが悪いのか目を擦りながらムスッとした顔をしている。

 叶夢は、足元にいるモラルを見下ろしながら話しかける。

「ねぇ、モラ。あんたさ、さっき言ってたじゃん? 睡眠が必要ないとか。SNCでは寝なくても平気なの?」

 それを、モラルは耳だけをこちらへ傾けて、

「そうですね。睡眠どころか、食事や排泄もしなくても生きてけると思いますよ」

 ただ、SNCで怪我をしたりすると現実世界にも反映されちゃうんですよねぇ、めんどくさいんで説明はしないですけど、とモラルは所々曖昧に答えた。それでもお前はSNCの案内係なのか? と叶夢は思ったがモラルはそういう奴なんだろう、と勝手に思っておくことにした。

 睡眠がいらない。つまり──

「あ、今こう思ったでしょ?──SNCに行けば悪夢見ないで済むじゃん、って」

 ぎくり、と叶夢は無意識に足を止める。それに合わせてモラルも、足を止め、こちらを見上げてくる。

「ど、どうして分かったの?」

 叶夢が首を傾げて見せると、モラルは自らの右耳に掛かっている天使の光輪のようなものに右手でそっと触れる。

「これを見てみてください」

 そう言い、モラルは光輪をスワイプするように撫でると、光輪は淡い光を放った。そして、そのまま光輪に触れていた右手を流れるような動きで前にかざすと、パッ──とモラルのかざした右手の前にホログラムの画面が現れた。

 モラルは、そのホログラム画面に指を当て、スイスイとスワイプして画面を切り替えている。

「おぉ…!?すごい、どうやったの?」

 叶夢はしげしげとホログラム画面を観察する。

「これですか?ホログラムですよ。何も無い所に映像を映し出せて──」

「そのくらい分かるわよ」

 馬鹿にしてんの、と眉をひそめる叶夢。

「わ、た、し、が!聞きたいのは、それをどうやって映し出してんのかってことよ?!」

 そう、叶夢の言う通り、今の公表されてるホログラム技術では、専用の機械を買い、それをパソコンに繋いで初めてホログラムとして映像が見れるのである。しかしながら、今のホログラムを映すための機材はとても高価な上にサイズもかなり大きい箱型のため、所有している者はもの好きな金持ちだけだった。ちなみに言うと、空中に映し出されたホログラムに触れてタブレット端末のように操作することは、今のホログラム技術では、まだ不可能であるはずだ。

 しかしながらモラルは、今現在ホログラムに触れ操作をしていた。

 モラルは、そっちか、と呟くとおもむろにホログラムについて説明をし始めた。

「正直言うと…俺もよく分かってないです」

 ──説明し始めなかった。

 叶夢が、はぁ?と声をあげると、モラルは右手を光輪のところまで持ち上げ、その光輪を尖った爪でツンツンとつついた。

「多分…ですけど、この光輪──メインコンピュータって言うただの機械なんですけど、これから、こう…パーって光を出して、る…のか?」

 確かにどうやってるんだろう? とモラルは光輪──メインコンピュータを手のひらで撫でながら、まじまじとホログラム画面を見つめた。

「えと……どうなってるんでしょう……ね…?」

「だから、知らねーわよぉおおおお!!」

 こ、こいつ…ほんとにSNCとか言うハイテク(…かどうかは知らんが)バーチャル都市で働いてる案内係なのか?!

 そんな叶夢の心中を察してか、無機的な笑みを常に浮かべてたモラルはぷくっと頬を膨らまして、

「どうなってるとか別にどうだっていいじゃないすか。これはこういうもんなんですよ」

 と、ひとりで納得した。

 ただの飾りかと思っていた光輪は、どうやらかなり凄い機械のようだ。

「そんな事より、これ、見てください」

 と、モラルはホログラム画面を反転させ、叶夢の方へ近づけた。

「あ」

 そこに映し出されていたのは、叶夢の「」だ。

 だが、これがどうしたのだろう? 叶夢は首を傾げる。

「実は、失礼ながらあなたの──あ、名前」

 ちら、とモラルがこちらの顔をホログラム画面越しに見上げた。

 あ、名前、言ってなかったっけ。

 叶夢は、「…叶夢です」と短く答えると、モラルは小さく頷いた。

「えと……失礼ながら叶夢様のSNSを昨夜、拝見させていただきました。調べたところ叶夢様は、高校2年生からいじめられ、高校3年生で親友による裏切りにより、不登校になった。そして、よくその時の事が夢としてフラッシュバックするらしいですね。それと──」

 その時、一瞬だけモラルの顔が苦しそうに歪んだ気もしたが、次に見た時にはいつもの無表情に戻っていた。

「…それと、中学3年生の時に両親は亡くなっていて、今はマンションに一人暮らししている…」

 合っていますよね、と言うモラルの問いかけは、確認というよりはしているような声色だった。

 叶夢はそれに、こくりと頷くと、

「それで、私が悪夢見てるって分かったのね…。ところで、その情報って、私の『ついーと』から特定したの?」

 と、驚きに目を見張った。

 モラルは光輪に触れ、ホログラムの電源を切ったのであろう。ヴンっと短い音を立てて、ホログラム画面が消失する。

「…叶夢様のような、自分の行動をいちいち『ついーと』するような方は──社会人か学生かどうか、友人関係や趣味、家族構成。さらに調べれば、住所やマンションの部屋番号まで正確に特定する事が可能です」

『ついーと』の内容や、『ついーと』した時間。

『ついーと』に添付される画像や、動画。

 これらの情報を駆使すれば、その人の事など丸わかりだ、とモラルは語る。

「例えば、叶夢様が平日の昼に部屋のベランダから写真を撮り、それを『ついったー』に投稿したらどうなりますか?」

 別にどうもしない、と言いかけたところで気づいた。

 モラルは、二ィっ、とどこか狂気的な笑みを浮かべた。

「そうです。写真を見れば、天気などで大体叶夢様がどこに住んでるのか検討がつくでしょう。おまけにマンションの周りの様子もばっちり写ってますから得意な方であれば、もう住所を特定できます。ついでにベランダからの写真なので、方角や地面からの角度などを計算すれば、部屋番号も特定出来ますねぇ」

 ゾッ、と叶夢が身震いすると、モラルはそれに追い討ちをかけるように喋り続ける。

「そして、投稿時間や過去の『ついーと』から叶夢様が不登校の引きこもりである事は確定。そんでもって叶夢様は、毎朝──早朝にコンビニへ行くとご丁寧に『ついーと』してしまっている。」

 後は簡単です、とモラルは肩を竦める。

「隙を見計らって、部屋に侵入とかしちゃえますねぇ」

 ニヤニヤと、モラルは目を細めて邪悪に笑いかける。

「──ッ?!」

 形容しがたい不穏な雰囲気に、叶夢は思わず一歩後ずさる。

 途端に、パッ、とモラルがおどけるように表情を変え、両手を上げた。

 冗談冗談、と苦笑するモラルには先程までの雰囲気は全く感じられない。

「とにかく!叶夢様。ネットを通じて知り合った人間は、お互いを全く知らない──というのは、ほとんど嘘でして、逆にお互いの情報をさらけ出しあってるというのが正しい表現だと俺は思いますね」

 発信する情報の内容には気をつけろという事です、とモラルは叶夢の方を見上げながら、びしっ、と叶夢を指さした。

「はは、ネット怖っ…」

 まさか、そこまで恐ろしいもんとは思わなかった、と思いながら叶夢はコンビニへ行くという目的を思い出して歩き始めた。

 後ろで、ぐぅ、とモラルの腹の虫が鳴いた。



 少しの間歩くと、コンビニにふたりは着いた。

 日は出ているもののまだ辺りは薄暗いためか、やけにコンビニのLED照明が眩しかった。

「あの、モラル?」

 と、叶夢はコンビニの前に立ち止まった。

「はい?なんでしょうか?」

 叶夢の呼びかけに、モラルは叶夢の方を見上げて答える。

「特に気にせずここまで来たけどさ…。あんた、人に見られちゃまずいんじゃない?」

 二足歩行をする上に人の言葉を喋る猫などいないじゃないか、と叶夢はモラルの方を見下ろして問う。

 それを聞いたモラルは、そんな事ですか、と言い首を振った。

「大丈夫ですよ。もし、見られてまずい時は光学迷彩と高度なノイズキャンセリング機能を使って、叶夢様以外からは俺の姿と声を不可視化、非可聴化することが可能です」

 なんだそれは、と叶夢は首を傾げ、光学迷彩や、高度なノイズキャンセリング機能とやらについて聞こうと思い口を開こうとする。が、モラルがぺちんと叶夢の太ももを叩いて、それを制した。いや、やり方…。

「すみませんが、『光学迷彩って何?』とか聞かれても答えられませんから」

 知りませんからね、そういうもんなんですよ、とモラルは苦笑した。

 こいつに機械系のことは何聞いても無駄だな、と叶夢は顔に手を当てため息をついた。めっちゃ気になるのに…。

 とにかく、と叶夢は気を取り直し、

「今からコンビニに入るんだから、店員にバレたらまずいでしょ。光学迷彩?とやらをちゃんと使いなさいよ。私、面倒事には巻き込まれたくないの」

 分かった? と叶夢はモラルの小さい鼻をツンとつついた。

 分かりました、とモラルは右耳の光輪に手を当てる。程なくして、ヴン、といかにも機械的な音が聞こえたものの叶夢から見る限り、モラルには一切の変化は見受けられない。

「それ、ほんとに出来てる?」

 と、叶夢は訝しげにモラルを凝視する。

 モラルは、めんどくさそうな表情を見せ、

「出来てますよ出来てますよ」

 と、早足に自動ドアの元へ行き、コンビニへと入った。その間、またもやモラルの腹から、ぐぅ、と音が鳴った。よほどお腹が空いていたのだろう。

 店内へ入ると、レジにいる若い男の店員がちらりと叶夢を見た。が、すぐに興味を無くしたように手にしていた雑誌に目を戻した。

 叶夢はカップラーメンの並ぶ棚の前に立つと、いくつかのカップラーメンとお菓子を手に取り買い物かごへと、それを放り込んだ。

 ふと視界の端に、2つの光輪が掛かっている白く長い尻尾が目に入った。

 叶夢がそちらヘ向かうと、案の定モラルがいた。しかし、そこは意外なことにスイーツが並んでいる棚だった。

 モラルはおもむろに棚の上段にあるマカロンへと手を伸ばすと、それを取った。

「はい」

 と、モラルが叶夢にマカロンを突き出した。

「えと…。これ何?」

「え゙、マカロンですけど…」

 叶夢の問いに、知らないんですか?! と言わんばかりにモラルが答える。

「いや、そういうのを聞いてるんじゃなくて…。これ誰が食べるの?」

「俺ですけど?」

 それ以外にいますか? とモラルはマカロンを持っていない方の手で自分の顔を指さした。

 モラルはきょとんと首を傾げる。

「だめですか?」

「いや、良いけど…」

 なんというか…意外ね、と叶夢はモラルの掴んでいたマカロンを手に取り、買い物かごへと放り込む。

 そのままレジへ向かおうとすると、さっきまで雑誌を読んでいた店員が恐ろしいものでも見たかのような顔でこちらを見ていた。

「なに、あの店員」

 と、叶夢がモラルに耳打ちするように言うと、モラルは呆れたように肩を落とした。

「あの……叶夢様。今、俺は光学迷彩とノイズキャンセリング機能を使っていて、あの店員からは俺の姿は見えませんし、声も聞こえません。つまるところ、あの店員からは叶夢様がひとりで喋っているかのように見えるわけでして…」

 と、モラルは哀れむかのような目で叶夢の方を見上げた。

「……っ!そ、それを早く言いなさいよぉ!?」

 叶夢が顔を青くしながら絶叫すると、「ひぃ?!」とレジから声が聞こえた。やばい、完全に危ない人かと思われてる。

「ふ…ふへ…っ」

 見れば、モラルが腕で口元を隠しながら必死に笑いを堪えてるのが分かる。

「──」

 叶夢は平然を装いながらも、会計するべくレジに向かった。店員は引き攣った顔で叶夢を見ている。

「え、えと…ななひゃくはちじゅーえんにナリマすすす…っ」

 明らかに怯えきった様子で会計をする店員を見たモラルが後ろで大爆笑しているのを尻目に、叶夢はお金を払うと、そそくさと出口へ向かおうとする。

 そんな叶夢に、モラルは、

「もう、ここのコンビニ来れませんね(笑)」

 ぶつっ──

「お・ま・え・の、せいだろうがぁぁああああアアアアアああああああッ!!!!」

 モラルに盛大にヘッドロックを決める叶夢を見た店員は、その場に崩れ落ちた。



「ふざけんな…まじ、ふざけんなよぉ…」

 もうこのコンビニ使えない、と叶夢はコンビニの前でうずくまっていた。

 光学迷彩を解いたのであろうモラルは、もそもそと買ったばかりのマカロンを頬張っている。

「まぁ…この時間にコンビニに来る学生なんて、まずいませんからねぇ。もうとっくのとうに変な人だとは思われていたでしょうに?」

 もぐもぐ、とマカロンを食べながらモラルは叶夢を慰めている(つもり)。

「ったく…それもそうね。お腹も空いたし帰りましょ」

 おもむろに叶夢が立ち上がると、

「あっれぇ〜?おねえちゃん?こんな時間に何してんのぉ?」

 にやにや、と下卑た笑みを浮かべる若者がこちらに近づいてきた。髪は金色に染められ、耳には大量のピアスが付けられている。服装もだらしなく、いかにも女遊びが好きそうなチャラい男だった。

「──っ」

 声を掛けられた叶夢は顔を引き攣らせて、ビクリと肩を震わせた。

 モラルは光学迷彩を起動させずに、その男をじっと警戒するように見つめている。もちろんマカロンは手放さない。

 男は叶夢の目の前まで来ると、そこでやっとモラルの存在に気づいたものの、特に動揺する素振りは見せなかった。

「お?お?この猫ちゃん何?セラピーロボットとか愛玩ロボットてきなやつ?かわいーね!!──そんな事よりおねえちゃんは何してんの?って…うっは、パジャマじゃん‪?」

「う…」

 一気に小汚い言葉を畳み掛ける男に、人間不信である叶夢は怯えているのか、手足を細かく震わせていた。

 そんな叶夢の様子を気にもせずに、男は話し続ける。

「このあとさぁ、カラオケいこーと思ってるんだよねぇ。おねえさんもどう?」

 そう言うと、男は叶夢の肩を抱いた。

「ひ、ぃ…?!」

 ビクッ、と叶夢は肩を震わせ、恐怖に目を見開いた。

 膝はガクガクと震え、やめてくれと言おうにも、口から出てくるのは呻き声だけだ。

 その瞬間、ガリィ──と、足元で音がした。

「いってぇ」

 足元を見ると、男の脛から血が流れ出ていた。さらに視線をずらせば、モラルが食べかけのマカロンを左手に、獲物を狙う野生動物のような目で男を睨みつけていた。

 おもむろに、モラルはポッケにマカロンを突っ込むと、マカロンを持ってなかった方の右手で男を指さした。

「その手、離してもらえませんかね?」

 モラルはにっこりと、どこか狂気じみた笑みを浮かべて言う。そのモラルの右手には、いつもは出していない鋭い爪が顕になっていて、そこには少しながら血が付着していた。モラルが男の脛を、爪で切りつけたのだ。

「なんだ、この猫。警護ロボットだったのか?人間サマに逆らうなんていけねぇなぁ」

 と、男は叶夢から手を退き、モラルの前に立ちふさがると足を思い切り後ろに振り上げた。

「──?! モラル!」

 叶夢が叫ぶも、男はそれを気にもせず、足をモラルに向けて蹴りあげる。

 しかし、モラルを蹴ろうと振られた男の足を、当のモラルは姿勢を低くしスルリと避け、そのまま猫のような俊敏さで男の服を掴み、一息にかけ登った。

「え」

 男が驚きに目を見張るも、その時には肩車をしてもらっているかのようにモラルは男の肩にまたがっていた。

 そして、モラルはおもむろに男の頭部を抱えるかのように手を目の前に──それこそ、男の眼球の前に手を差し出すと。

 ──ぎゅむっ。

 爪を立てずに、男の目の中に指を突っ込んだのだ。いわゆる──

「め、目潰し…」

 もはや被害者であるはずの叶夢が、加害者を哀れむくらいに、綺麗に決まったのだ。目潰しが。

「うへぇ…きったなーい」

 と、モラルは男の肩から飛び退くと、まじまじと──それこそ汚物を見るかのような目で自分の指を見つめる。

 男はそっと自分の目を掌でおおった。

 次の瞬間、男は絶叫しながら崩れ落ち、顔をおおったまま、地面をのたうち回って逃げていった。



 コンビニから帰ってきた叶夢とモラルは、テーブルの前のソファにふたり仲良く横に並んで買ってきたカップラーメンをすすっていた。

 時計の針は、午前5時を回ったところだ。

「はぁ〜、まじビビった。なんなんあの男」

 まじで死ねよ、と叶夢はコンビニ前で絡まれた男の文句を垂れていた。

 モラルは口の中にある麺をもくもくと咀嚼している。

「てかさ、あいつ成人してるよね絶対。ナンパかどうか知らんけど、普通高校生に話しかける?!」

 叶夢が貧乏ゆすりをすると、小さいテーブルがカタカタと揺れる。

 モラルが口に含んでいた麺を、こくんと飲み込むと、おもむろに口を開いた。

「叶夢様。ああいうヤツらに常識は通用しませんので。とにかく、もしああいうヤツにまた絡まれたら、次からは俺が対処しますので」

 安心してください、と言いながら、モラルはティッシュで乱暴に自分の口元を拭った。

 叶夢はカップラーメンの麺を口に入れもくもくと咀嚼しながら、食べ終わったカップラーメンのゴミを立ち上がって片付けるモラルを見た。

 のそのそとしたその動きからは、コンビニ前の男を撃退した時の俊敏な面影は一切ない。

「あんたって、強いの?」

 なんとなしに発した叶夢の問いに、モラルはピクリと反応すると、ゴミを片付けていた手を止めこちらを振り返った。

「ど、どういう意味ですか?」

「いや、戦闘?とか得意なのカナ〜って思って…」

 それを聞いたモラルは、あぁ、と呟くと、ゴミをまとめて手に持った。

「確かに、俺はSNCの案内係AIとしては割と戦闘能力は高めです」

「ふ〜ん」

 そのままモラルはゴミを台所のゴミ箱に捨てに行こうと歩き出した。その背中に叶夢は問う。

「それって、モラルが戦闘用につくられたってこと?」

 ビクッ、とモラルの肩が震える。

「い…え。これは、元々で…。あくまで、SNC内の案内が仕事ですし…決して戦闘用につくられたという訳では…」

 今までのモラルとは明らかに違う焦りに震えた声を聞き、叶夢は首を傾げた。

「なんかごめん。──そっか、モラルって強かったんだあ」

 関心するように叶夢が言うと、モラルは俯き、

「正直…戦闘は、好きじゃないです。…血が、どうも苦手で……」

と、力なく自嘲気味に笑いながら早足に台所へ向かって行ったためすぐに死角に消えていった。

 コンビニの前で叶夢を助けた時、もしかしたらモラルは無理をしていたのかもしれないと叶夢は思い、若干申し訳ない気持ちになった。

 叶夢は汁だけになったカップラーメンを机の上に置くと、おもむろにソファに横になった。

 すると、悪夢のせいでよく眠れなかったからであろうか。すぐに叶夢の意識はまどろみの中へ沈んでいった。





 ―――





 駅から帰ってくるとツインテールの少女──叶夢は「疲れた」と言い、すぐにベッドに横になった。

 俺は散らかった部屋を掻き分けて、彼女が寝ている二段ベッドの下の段に潜り込んだ。

 窓の方をちらりと見ると、外は夕焼けで真っ赤に染っている。

 彼女──叶夢には、初めて見た時からどこか見覚えがあった。

 過去の記憶はハッキリあるため分かるが、過去に彼女と会ったことはない。だが、顔に覚えがあるのだ。

 俺はこのモヤモヤと引っかかる『何か』が気になり、彼女の『ついったー』から調べてみることにした。


 そして──後悔した。


 いや、調べるまでも無かった。会った時から確信していた。ただ、「どうか違っててくれ」と藁にすがる思いで調べてしまった。

 予想は的中した。

 いじめの話や、親友に裏切られる話などどうでもよかった。

 ただ、という内容のツイートで全身に悪寒が走った。

 彼女は──叶夢は──…

 突然、耳鳴りが俺を襲った。頭の中を直接かき混ぜられるようにして、記憶がフラッシュバックして蘇る。

 視界が真っ赤に染まり、無いはずの血なまぐさい臭いが鼻をつく。

「ゔ…ッ?!」

 食道から何かがせり上がってくる感覚がして、近くにあったゴミ箱にそれをぶちまけようとした。が、

「げほっ!げほっ──…ッ!」

 喉からは何も出てこなかった。ただただ酷い吐き気に襲われ、咳き込んだ。

 胃が犬の唸り声のような音を立てるも、体をくの字に丸めて吐き気が収まるのを待つしかなかった。



 数十分後、吐き気が収まり、ゆっくりと体を起こした。心臓はバクバクと不規則に脈打ってるのが分かる。

「はぁ…はぁ…っ──…ふう……」

 なんとか呼吸を整え、おもむろに立ち上がった。

 一瞬立ちくらみを覚えてふらついたが特に体に異常は見受けられない。


 フラッシュバックした過去の記憶の最後にうつっていたのは──


 ──顔を涙と血でぐちゃぐちゃにした、



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