掛け軸


 むかし、山間部の人々は、海の魚を干物や加工品でしか見たことがなかったそうでして……これは、そんな時期の御話です。





 江戸の材木屋が、木曽の山奥へ材木の買い付けに出かけた。

 買い付けの交渉が予想以上にうまくいき、いくらかのあぶく銭が余った材木屋が、よし、ここはひとつ奮発して高い宿に泊まろうかということになり、木曽の中でも指折りの高級宿へと泊まることにした。

 こいつは上客だとニコニコ顔の女中から部屋へと通された材木屋は、その部屋の絢爛さに思わずため息をついた。

 こんなところに泊まってしまうと、自分の家の寝室で寝ることができなくなってしまうかもしれないな。

 材木屋が苦笑いをしながら部屋を見回していると、とあるものが目についた。


「……なんだ、あれは?」


 それは、掛け軸であった。ただ、描かれているものがなんとも奇妙なものだった。

 掛け軸に近づいていく材木屋。そして、掛け軸をしげしげと見つめていると、材木屋の背中から女中が声をかけてきた。


「さすがは、東京の材木問屋様です。その掛け軸に目をつけるとは、さすがのお目の高さっちゅうやつだ」


 中途半端に標準語と方言を混ぜながら喋ってくる女中に、背中を向けたまま材木屋は問いかけた。


「なあ、女中さん。この掛け軸に書かれてある絵は、いったいなんだい?」


 すると、女中は笑い声をあげはじめた。


「おやおや。おからかいになっちゃいけませんよ、旦那様。いくらあたすが田舎者だといっても、この掛け軸に描かれている絵くらいはわかります」

「ほう、そうかい。じゃあ、よかったらこの絵がなんの絵か、教えてくれないかい?」


 材木屋のこの言葉に、女中は目を丸くした。


「旦那様、まさか、本当にこの掛け軸の絵がわからないんでございますか?」

「う、ま、まあ、そ、その、なんだ…………」


 ここで素直にわからないと言うのもしゃくだと、材木屋はもう一度しげしげと掛け軸の絵を眺めてみた。

 迫力ある大波。その大波の中、一艘の船に乗った漁師が、今まさに網を海へと放り込まんとしている、臨場感のある絵だ。ここまでは、材木屋にもわかる。ただ、問題は、その漁師が狙っている獲物あった。

 大波の中に、ポツリと流木らしきモノが浮かんでいる。それを、漁師が網で狙っているという、なんとも奇妙な構図の絵なのだ。

 荒れた海の中、流木をとる漁師なぞ聞いたことがない。自分は材木屋だが、それでも命を懸けてでも流木をとろうとするなんて正気の沙汰とは思えないし、材木屋仲間にもそんなイカれた奴がいるとは思えなかった。

 とすれば、この流木らしきモノは流木ではないのか? だとすると、これはいったいなんなのだ?

 考えに考えてみたが、どうもわからぬ。仕方がない、ここは恥を承知で女中に聞いてみることにしよう。旅の恥は搔き捨てともいうではないか。


「う~む……どうにも私にはこの絵がわからない。いや、漁師が何かを網でつかまえようとしているのはわかるのだよ。だが、漁師がいったい何をつかまえようとしているかがわからない」

「わからないって――旦那様は、江戸からきなすったんでしょう?」

「ああ、そうだよ。私は江戸からきた」

「そうですたら、この掛け軸に何が描かれてるかは、一目瞭然でございましょう」


 中々絵のことに触れぬ女中に、材木屋はいささかイライラしてきた。自然と口調も荒くなる。


「おい、いい加減に教えてくれよ。この絵はいったい、何の絵だって聞いてるんだ」


 材木屋が醸し出す不穏な空気に、女中は少々慌てた口調になりながら、


「こ、これは、魚の絵でございます」

「はぁ? 魚ぁ?」

「へぇ。魚と言えば江戸。江戸と言えば魚って言われてるくらいでございますから、あたすはてっきり、旦那様はこの絵に描かれている魚のことをご存じかと早合点してしまいまして……どうぞ、御許しを」


 ヘコヘコと頭を下げる女中に、材木屋は最後の疑問を投げかけた。


「私は材木屋だから、魚は門外漢でね。これが魚だっていうんなら、これがなんの魚かってことを教えちゃくれないかい?」


 材木屋の疑問を受け、女中はかしこまった口調で言った。


「へぇ。この魚は、お出汁等によく使う、カツオブシっちゅう魚でございまして…………」

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