忘れ草


(注釈)

 忘れ草とは、ユリ科の多年草で、葉は細長くて、夏に大きなユリに似た橙赤色の花を一日だけ咲かせる花のこと。




「え~忘れ草~~! 忘れ草はいらんかね~~~!!」


 江戸の町中に、花売りの威勢のいい声が響き渡る。その声を聞きとがめた、さる商家の店主が花売りを呼び止めた。


「これ、これ、お前さん。忘れ草とはいったい、どんなものかね」

「へい、こいつが忘れ草でごぜえやす」


 花売りが背負っていたかごを地面に降ろし、店主に見せた。

 籠の中身を見た、店主、顔をしかめながら、


「なんだいこれは。葉っぱばかりがしげっていて、面白味も何もない草じゃないか。なんで、こんなものが忘れ草と呼ばれているんだい?」

「へい。この忘れ草を干したものをキセルに詰め込んで、タバコとして吸えば、色んなことを忘れちまうから、忘れ草っていいますんで」

「へぇ? それが本当なら面白いものだけど、話を聞くだけじゃ、そいつはちょっと眉唾物まゆつばものだね」

「それじゃあ、こいつを吸ってみてつかあさい。このキセルの中に、件の忘れ草の干したものを入ってやすんで」


 そう言って、花売りが懐からキセルを一つ取り出して、店主に向かって差し出した。

 しかし店主は、そんな怪しげなモノなんか吸えるものかと、花売りに言った。


「わかりやした、それじゃあ、あっしが一服つけてみせてさしあげやしょう」


 そう言って、花売りはキセルをくわえて、キセルに火打石を使って火をつけ、うまそうに紫煙をくゆらせはじめた。

 キセルからただよう紫煙から、なんともいえぬ甘い香りが漂い始める。その匂いをかぎ、店主は思った。

 ふむ。これはいい。忘れ草の効力の真偽はどうか知らんが、タバコの香草としては上等そうだ。

 店主はうなずき、花売りに言った。


「よし、それじゃあその忘れ草ってのをもらうとしようか」

「へぇ~いっ! まいどありぃ!」


 花売りは嬉しそうな声をあげ、口にくわえていたキセルを地面に放って、籠の中の忘れ草を束ね始めたが、すぐにその手を止めて困惑の表情を浮かべた。


「どうしたね、おまえさん?」


 店主が気づかわしげに花売りに聞くと、花売りは頭をかきながらこう言った。


「なんてこった。忘れ草のせいで、忘れ草の値段を忘れちまいやした」

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