師走の一幕
師走も終わりを告げる大晦日。今まで未払いの支払いをするために、米屋には大勢の客たちが詰めかけていた。
やんややんやとざわつく人ごみを、御免! 御免! という小気味よい声でかき分けながら一人の浪人が進み出てきた。
この浪人、なんとも哀れ極まる人として江戸中の評判になっていた浪人であった。
身なりはボロボロで、腰に差した刀も本当にそれで斬れるのか? と疑いたくなるほどに柄が痛んでいる。
だが、この浪人の一番哀れなところはその身上だ。
使えていた主君が幕府からいちゃもんをつけられ、結果、仕えていた主君は切腹に追いやられ、藩は御取り潰しとなり身を落ちぶらせてしまったという身上の人であった。
「御主人! 御主人はいらっしゃるか!」
浪人の実直一途という性格をよく表している真っすぐな声に、米屋の主人が店の奥から顔を出す。
「はいはい。わたくしめに御用でございますかな」
出てきた主人、浪人の姿を認めて愛想の良い声をあげた。
「おや、あなたさまは。さては、溜まり溜まっていたお支払いをしてくれるというわけですな? これはこれはご苦労様です」
主人がそう言うと、浪人は突如として正座をし、その両の瞳に光る雫を浮かべ始めた。
「まこと、情けない話……!! 窮乏極まるとはまさにこのこと!! 御主人、
そう言うが否や、脇差を引き抜き、己の腹にあてがう浪人。こんなところで切腹などされちゃかなわぬと、慌てて主人が浪人へと駆け寄った。
「まっ、まあまあ! そんな物騒な物はお納めください」
「されど! 御主人に不義理を働いたままのうのうと世を闊歩するなど武士の名折れ!! やはりここは潔く腹かっさばくが武士の心意気――――」
息巻く浪人を、なんとか必死になだめすかそうとする主人。
浪人からすれば切腹するのが武士の意地かもしれぬが、主人からすれば浪人の切腹を引きとめ後に浪人から集金するのが商家の意地だ。
「たしかに、貴方様の心意気しかとこの眼で拝見させていただきました。ならば、私としましても心意気を出させていただきます。これ、証書をここにお持ちなさい」
主人が番頭に声をかけ、番頭は手に持っていた証書の束を主人へと手渡した。そして主人は、その証書の束の中から浪人の証書を取り出した。
「さて、これが貴方様の証書でございます。期限は――――」
そこまで言ったところで、主人は番頭台から筆を取り出した。そして今日までだった証書の期限を、ささっと二か月後へと書き換えた。
「おや? おかしなことですね。貴方様の支払期限はまだ先の御様子。となれば、そこまでして思い詰めることもないかと存じますが?」
微笑みながら言う主人に、浪人はいささか面食らった様子であったが、すぐに事態を察し、主人に向かって、
「なんと……なんという、商人の心意気……! ご主人にそこまでさせておきながら、ここで腹かっさばいてしまえば、それこそ不義理の極み……!!」
浪人は、己の目に浮かぶ涙を指ではじき、すっくと立ちあがって主人に深々と頭を下げた。
「必ずや……必ずや、主人の想いに応えてみせまする!!」
そのまま立ち去ろうとする浪人に向かって、主人が声をかけた。
「まあまあ、そんなにお急ぎになられても、今宵は大晦日。働き口などあるわけありませんし、もしよろしければ、どうです、うちで一献。
主人の言葉に、浪人はくるりと
「御主人のお優しさ、某の心にまっこと染み渡る思いでござる。ですが、某には今すぐにでも行かねばならぬところが多々あるのです」
「行かねばならぬところ?」
「然り。某、まっこと情けないことながら、支払いが他の御店でも滞っているしまつ。御主人の心意気に応えるには、他の店の御主人方にも支払いをお待ちしていただく他になし。それはかなりの難儀な事とは承知しておりますが、そこで御主人の心意気に応えることができぬとなれば、その時こそ某、見事に腹かっさばいて果てて御見せ申すが武士の心意気。それでは御主人、御免つかまつる!!」
ものすごい勢いで店から駆け去って行く浪人。事の顛末と駆け去って行く浪人の後ろ姿を見つめていた、支払いのために来ていた町人の一人が心配そうに主人に言った。
「止めなくて大丈夫かね、あの御浪人さん。あんな調子じゃあ、他の店で切腹しちまうんじゃねえかい?」
この言葉に、主人は少し考える素振りを見せたが、すぐに首を振ってこう言った。
「いや、大丈夫だろう。他の店の主人連中だって、大晦日の忙しい日に面倒ごとは避けたいだろうし、しかも切腹――血の流れる面倒ごととなればなおさらさ。それに、あの御浪人さんは、本気で申し訳ないと思って必死になってるのが、誰が見てもわかる。そんな良い人を無下にするような無粋な野郎が、江戸っ子にいるわけないからね。そう思うだろう、お前さんも?」
町人は、そりゃあちげえねえ! と笑い、主人に残った支払いの話をしはじめた。それを皮切りに、さっきのような大晦日ならではの喧騒が、また店の中へと戻ってきたのであった。
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