火の用心
とある長屋に、一人の貧乏浪人が住んでいた。
最近、江戸の町では不審火が続き、拍子木を持った夜回りが江戸の町の至る所で、
「火の用心――火の用心――」
と、拍子木を鳴らして、火の始末の注意を促していた。
もちろん、それは貧乏浪人の住んでいた長屋も例外ではなく、毎夜毎夜、夜回りの威勢の良い口上と拍子木の音が鳴っていた。
しかし、ここでどうしても貧乏浪人が我慢のできぬことがあった。
この夜回り、いったい何のつもりか、貧乏浪人の部屋の前へときたところで口上をやめてしまい、いつもさっさと引き返してしまうのだ。
当初は貧乏浪人も、まあ偶然であろうと思ってはいたのだが、それが毎夜繰り返されるとなれば、さすがに黙っているわけにはいかぬ。あの夜回りの野郎、意図的に引き返してやがるに違いない。ふざけた野郎だ、今は落ちぶれたとはいえ、仮にも武士の身である自分を馬鹿にしやがって、と己の身のみじめさも相まって、夜回りに対する怒りが日々募っていった。
そして今宵も、夜回りがやってきた。
「火の用心――火の用心――」
ちょ~んちょんと拍子木の音に合わせて声をあげる夜回り。さて、夜回りが貧乏浪人の部屋の前へとやってきた。
すると、やはりというべきか、夜回りは貧乏浪人の部屋の前へときたところで声をあげるのも拍子木を叩くこともやめ、さっさと引き返そうとしだしたではないか。
これはもう、許しておけん!!
ガラリと障子戸をあけ、夜回りへと怒鳴り声をむける貧乏浪人。
「おい、町人!! いつもいつも
物凄い剣幕の貧乏浪人とは対照的に、夜回りは涼しい顔をして、
「いいえ、馬鹿になんざしちゃおりやせん。あっしは、無駄を省いているだけでごぜえやす」
「何?! 無駄だと?!」
「へえ、あっしの見立てですと、お侍さまの部屋には、まったくもって火の気ってものがないようじゃありやせんか?」
「む、むう…………」
なんとも痛いところを突かれてしまった貧乏浪人。
そう、夜回りの言う通り、この貧乏浪人の貧乏はまさに困窮を極めるといったほどの筋金入りの貧乏で、行燈どころかロウソクのロの字もないほどの貧乏ぶり。
しかし、夜回りにド正論を突き付けられて、このまま黙って引き下がるというのは武士の矜持が許さぬものだ。
ぬう、なんとしたものか…………。
苦虫を嚙み潰したような渋面で必死に考える貧乏浪人。やがて、苦し紛れにこう言った。
「貴様、某の家に火の気がないとのたまうが、某の家は貴様も察しの通りの火の車。火の車というだけあって、車のように辺り構わず貧乏をまき散らすかもしれぬぞ。長屋というものは、燃え広がるのが早いゆえ、一度火の車が暴れだすと、それこそ手が付けられぬ。よいか、それが嫌なら、明日以降は必ず某の家の前でも火の用心の声を高々とあげるのだぞ。いや、むしろ、某の家の前では一番高い声で辺りに火の用心を喧伝せよ、よいな」
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