劣等星
次に目を覚ました時、俺は固いベッドの上に寝かされていた。
見れば辺りは薄暗く、目を凝らして何とか周囲を見渡すと硬い石の壁に覆われた部屋だと分かった。
ただ、部屋の一辺、ちょうどベッドの対面がプライベート皆無の格子状のそれになっているのを見て、この部屋が牢屋だという事も分かった。
ベッドは牢の隅に無造作に置かれているらしい。
意識を失う前の数時間のことを思い起こせば、他人に迷惑と損害ばかりかけているのだ。
この対応は当然とも思える、むしろこの対応ならば良かった方かも知れない。
だが、囚人に与えられた生活環境に文化的様式など求めるべくも無く、洞窟に毛が生えた程度のこの場所で幾月ほど過ごせばよいのか。
そんな事を考えれば、途端に暗澹たる気分が喉に痞え、黴と湿気の混じった臭いもあってか少しばかりむせ返りそうになる。
もう少し前向きに今後のことを考えようとも努めた。
しかし、このような先の見えない薄暗い空間で先のことを考えたところで、ここからは何時出られるかも分からず、だからと言って脱走する手立ても無く、あったところで脱走した後のことを考えるくらいなら、まずは脱走する手立てを考えるべきだが、結局はそんな手立てなど無いと思考は元に戻ってを繰り返す。
それはまるで羊が野原を順繰りと駆け回っているようでもあり、終わることのない間延びした競争はいつしか退屈という名の睡魔を呼び起こして……。
「君は生きていても、死んでいてもほとんど変わりがないな。」
鼻のあたりに感じた息苦しさで目を開けると、そこには小さな子鬼が立っていた。
部屋は先ほどよりも明るくなっているようだったが、明かりと俺の間に子鬼が立っているため、その姿は逆光でぼんやりとしたシルエットしか見えない。
子鬼は俺の鼻を摘んで、俺を見下ろしている。
「子鬼に呼び起こされたってことはここは地獄かい?」
「天国で無い事は保証できるぞ。」
尾花は被っていた角の様な三角帽子を取ると、頭を軽く叩いた。
牢の外にある壁掛けの燭台と尾花が点けたランプの明かりで、部屋が先ほどよりも賑やかになっていた。
部屋の隅にはそこはかとなく香り立つ壷と、ベッドの横には煤けて傷の目立つ木製のサイドテーブル、それだけしかない。
本当に洞窟に毛が生えた、いや出入りの自由がある分だけ洞窟のほうがマシだろう。
「まずは生きていて何より、お互い大変だったな。」
尾花はそう言うとベッドに腰掛けた。
「ほら、早く服を脱げ。」
「なんで?」
「怪我をしてないか見てやるからに決まっているだろう。他に理由などあるか、馬鹿。」
「じゃあ、それを最初に言ってくれよ……。」
出会い頭に服を脱げと言われて疑うことが馬鹿ならば、俺は馬鹿のままで良い。
そう思いながらも尾花に言われたとおりに上半身の衣服を脱いだ。
ベッドに仰向けに寝かされ、尾花の触診が始まる。
尾花の小さく冷たい手が身体に触れるたびに、聴診器を当てられたようなこそばゆさで身体が小さく震えた。
「ここが痛むか?」
「いや、アンタの手が冷たいんだよ。」
「紛らわしい。自分でどこか気が付くところは無いか?」
「…全身くまなく痛い感じもするけど、あー、脇とかあのあたりかな?」
「ここは?」
「まぁまぁ痛いかも」
「じゃあ、ここ」
「あー!そこはまずいッ!ちょうやばいッ!」
”痛い”という単語を出さずとも、尾花にはそれが通じたらしくすぐに俺の身体から手を放した。
「肋骨を数本やっている、面倒なことだ。だいぶ大声を上げたから痛むだろ?」
「俺は押された時の痛みだと思うけど、違ったかい?」
俺は尾花に押された左脇辺りを擦りながら、涙目で尾花を睨む。
加減とか事前申告とかもっとやりようがあるだろう。
「そう、怒るな。一度はずっと一緒にいてくれと言った側、言われた側の仲ではないか。」
「将来まで誓い合っていない過去の俺を褒めてやりたいよ、今の俺は。」
尾花は可笑しそう笑いながら、背嚢の中を漁って何かを取り出そうとしている。
背嚢は、あの馬鹿みたいにでかい物ではなく、幾分小ぶりになっていた。
どうやらあの背嚢は、人間竜巻と一緒にどこかへ行ったらしい。
隙間があればあるだけ詰め込もうとするこの人には、それでちょうど良かったのだろう。
目を覚ます前の出来事、あの嵐に商館からの脱出劇。
果たしてあれは夢だったのだろうかと思うほどに、現実味離れし過ぎている。
しかし、身体を走る痛みは、それが現実だったことを暗に告げている。
そう、あれは一切合財の全てが現実だったのだ。
「……この後、どうなんのかな」
俺は思っていたことを口に出していた。
俺は死ぬべき時に死なず、政子と尾花はそれを助けた。
この街の権力たるバートの意思に、俺も尾花もここにはいない政子も逆らった。
そういえば政子はどうなったのだろう、それも気になる。
俺が未だ死んでいないという事は、そのことについては許されたのか。
別に誰から許可を貰って生きているわけでもないのに、許されたというのもおかしな話だが。
だが、それなら俺は何故こんな牢の中に閉じ込められているのだろう?
見せしめで大々的に処刑なんて言われたら、俺は処刑台の上で笑いかねない。
こないだまで政子がずいぶんと偉くなったもんだと思っていたが、どうやら俺も肩を並べるくらいにまでになったらしい、クソッタレ。
俺の呟きに、背嚢を漁る尾花の手が止まった。
「それは、君個人のことか?それとも、私たちを含めてのことか?」
「というか、いろいろな事全部がどうなんのかなって。」
尾花は再び背嚢の中を漁り始めた。
「……アンタにも分かるわけがないか。」
俺は痛む左脇が上になるように寝返りを打った。
すると、無防備になった左脇腹に、小さいながら確かな冷たさと衝撃が走る。
不意を付かれた痛みに、俺は声を出すのを忘れて頭を上げた。
脇腹には湿った布があてがわれており、尾花が不機嫌そうに俺のほうを見て手を拭いている。
「私と政子に対しては一切のお咎めは無しだった。だから、こうして君の見舞いに私が来ているのだ」
「”アンタと政子は”ってことは、俺には何らかのお咎めがあるってかい?」
理不尽で不公平なのは何処の世であっても変わらない。
結局、俺が貧乏くじを引かされることになったらしい。
今から笑う練習でもしておこうか。
「それが分からんのだ」
尾花が顔を顰めて俺を見た。
「なんで?」
「今回の件に関しては、全て”デビット・カッパーフィールド”という悪意ある第三者によって起こされたことになっている。」
その名前には聞き覚えがある。
俺自身が親から貰った名前を捨てて付けた俺自身の名前だからだ。
「つまり、全部が俺のせいって事かよ」
「違う、”デビット・カッパーフィールド”だ」
尾花の言っていることが理解出来ず、だがそれが冗談の類と言うわけでも無いことが尾花の真剣な表情から察することが出来た。
しばしの沈黙が流れた。
「つまり、存在しない誰かを仕立て上げ、そいつに全てを擦り付けたと」
尾花から事の経緯を聞いて、俺はようやく得心した。
経緯を説明している最中の尾花は大層不服そうであり、「魔術師ならば理性と知性を駆使して事態の解決を……」と文句を言っていた。
しかし、その理性と知性で今回の騒動が起こったことを鑑みれば、これこそ真に"理性と知性を駆使して事態の解決をした"結果だと俺は思う。
そして、何より市民にとって耳障りの良い既成事実を作り同調させてしまえば、バートも無下にすることは出来まい。
尾花め、なかなかやるじゃないか。
俺が満足げに笑っているのを、尾花はまるで皮肉るような笑みを浮かべて見ていた。
そして俺の顔を舐るように見ると、引きつったような笑みを浮かべた。
「その”デビット・カッパーフィールド”だが、昨日の夕刻、つまりあの騒動の後すぐに捕まって、今朝には聴衆の前で首を刎ねられたよ。」
再び理解が追いつかなかった。
弁を閉じられた心臓が、躍起になっているような強く苦しい鼓動が胸を打つ。
どうすれば、存在しない人間の首を大々的に刎ねる事が出来るのだ。
俺は頭の表層を過ぎる可能性を必死に具体化させまいしていた。
それを口に、いや意識に上らせれば途端に既成事実に成り代わる確信があった。
いつの間にかシーツを強く握っていた手が汗ばんでくる。
「ここの前の住人がな、昨夜急に出所することが決まったそうだ。人生を3回繰り返してもまだ足りぬほどの刑期があったそうだが……さて、何故だろうな?」
ランプの灯りに照らされた尾花の顔。
どう見たって年端もいかない少女なのに、揺らめく陰によって作られる百面相は、角の生えた鬼や悪魔のようにおぞましく見えた。
表情を強張らせ変えることが出来ない俺を見て、尾花はいくらか表情を和らげた。
それでも、未だに俺は緊張の余韻を引き摺っている。
「ともかく、諸悪の原因たる”デビット・カッパーフィールド”は正義の刃に倒れ、街の住民たちには再び安心して眠れる夜が来たわけだ。」
「……アンタも人が悪いよ」
そう言葉を吐き捨てることだけしか出来なかった。
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「"劣等星”って言葉、知ってるかい。」
黙って帰り支度をしている尾花を眺めながら、俺はほとんど独り言のように呟いた。
動揺が多少収まり、少しばかり冷えた頭は落ち着かない空気を連れてくる。
元から湿って淀んだ空気が漂う衛生的に良くない牢の中で、精神衛生的にもよくない空気が漂えば今に俺の気はおかしくなる。
その空気を払いたくて呟いた一言だった。
「君の様な奴のことじゃなくてか?」
俺の呟きに反応した尾花が首を傾げながらこちらを見た。
「……生きるって字を星に変えた言葉遊びだよ。ほらアンタ、何時ぞや星の話してたろ?」
この人は分かっていて言ってるんじゃないだろうか?
しかしこの際だ、"劣等星”であることは認めてやろう。
「何等星以下が"劣等星”で、何等星が"優等星"なのか考えててさ。俺がアンタの見立て通りの"劣等星"ならあんな大惨事を起こしておいて、ましてや誰かを殺してまで生きる価値があったのかって……」
「知らん、そんなもん。」
思春期の淡く純真な苦悩から起きた疑問が、このようなちり紙以下の扱いを受けた場合、果たして少年は平気でいられるのか?
我が事ながら、心配になる。
だが尾花は、まだ物言いたげな険しい顔で俺を未だに見ている。
「恒星の等級だがな。あれはあくまで我々が足を下ろしている星、つまりこの大地だったり元いた地球だったりから見た恒星の見かけの明るさのことを言っている。例えば地球から見える最も明るい太陽以外の恒星シリウスだが、地球から見れば自発的な光を持たない月よりも明るさは低い。」
尾花はサイドテーブルに置いたランプに指を近づけた。
「牢の外にある燭台の灯火よりも、この指の方が君からははっきりと見えるだろう?」
それは当たり前の話である。
なんせ牢の外とサイドテーブルでは距離が違う。
俺の怪訝な顔を見て、尾花は小さくクスリと笑った。
「だが、地球を恒星の32.6光年の距離に置いたものしたときの明るさ、絶対等級という単位で見ればシリウスは太陽よりも強い光を放つ恒星になる。」
そして、牢の外にある燭台を指差した。
それまでランプに照らされていた尾花の指は途端に光を失い、辛うじて牢の外にある燭台の灯りにぼんやりと照らされるだけになった。
「それはその他の恒星にも言える。例え我々のいる大地からは見えぬ5等級以下の星々も、遥か先の銀河では太陽よりも強く明るく多くの惑星を大きく照らす恒星なのかもしれん。」
尾花の言いたいことがなんとなく分かった。
何だかんだ、この人も世話焼きな人らしい。
「……遠い誰かにとっての"劣等生”は、近い誰かにとっての"優等生"って事かい?」
「その逆もまた然りだがな」
そこで尾花は皮肉っぽく鼻で笑った。
「誰かの命とは誰かにとって他の人間の命に代えても守る程の物であり、別の誰かの命は別の誰かにとって他の人間の命を守る程度の物。人の命は金で買えぬと言うが、人の命の価値など為替取引よりも相対的であやふやな物なのだろう。」
そして尾花は俺を指差す。
「つまり君の命も次に何かあった場合の生贄として、飼い殺しにされている可能性も無くは無い。」
尾花の顔が再び揺らめいて、再びあの時の様な影と光が入り混じったあやふやな物になっていた。
しかし、今度は怯えることなく指された指を握り返した。
「だったら、あのねーちゃんだってその可能性の中に入れてくれよ。どうせ、生きてんだろ?」
怯えることの無かった俺を見て、尾花は白けたように両手のひらを上に見せる。
「あの高慢ちきなら、教会の方で身柄を保護・隔離されている。彼女に関しては、教会が意地でも守り通すさ。存外、アレの言っていた”俊秀”の言葉は、単なる自惚れの類というわけでもないらしい。」
「つまり向こうは正真正銘"優等生”ってわけね」
現状では俺にとって分の悪い賭けになるらしい。
だからって俺はサスキアと釣り合うような挽回する名誉も無ければ、返上するだけの汚名も無いかも知れない。
そもそも、この街の住人が俺のことをどれほど認知しているのかすら怪しいのだ。
今のままでは結局は、体の良い人身御供である。
それを何とかしようにも、先ずはここから出ねばならない。
「まぁ、大人しく過ごしておけば数日で何らかの沙汰はでると思う。その間は、君も暇だろうから私や政子が顔を出してやるさ。」
すっかり帰り支度を終えた尾花がベッドから立つ。
「ランプは置いて帰るぞ。日がな一日寝ている君には不必要かも知れないが、それでも火とその灯りは文字通り文明の灯火だ。この様な穴倉にいても、これさえあれば毛が三本多い猿くらいの気持ちにはなれるだろう。」
牢から出た尾花の姿は徐々に暗闇に飲まれていき、やがて視認出来なくなった。
が、出来なくなったの視認のみで、人がもう一眠りしようと思った矢先、けたたましく何かに躓いた音が俺のいる牢まで響き渡ったのだった。
その後の3日間は尾花や政子が見舞いに来た。
その際に、尾花からはこの世界の魔術のこと、政子からは教会についての話を聞いたりした。
そして――――。
「クニエ様、バート様がお呼びでございます。」
ついに来たか。
俺はベッドから重い腰を上げた。
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