くだらないオチ
広間にあるほとんどの灯りは消されている中、護摩壇の上に一つある燭台だけが気紛れに影を作って遊んでいた。
そのたった一つの心もとない蝋の灯りは、しかし暗い広間の中において唯一の光源であることも相まって強い存在感を放っている。
広間には、壇を囲う様に幾人もの人がいるというのに、外の強い風音以外に喋り声一つ聞こえない。
その風音ですら、永遠を彷徨うような宙の暗さの中に吸収されているかのように、広間には緊張した空気と静寂が流れていた。
壇の前に設置された礼盤、そこに腰を据える尾花の白い顔と衣装が、ほおづきのように朱く染まっている。
その姿は暗い宙に漂う恒星の様でもあり、はたまた恒星に照らされ光を帯びる衛星の様でもあった。
尾花は何か小さく呟きながら指を様々な形に組み、重ね、時折壇の上に置いてある器を手に取ると何事かを唱えて再び壇の上に置く。
その様子だけを切り取って見れば、女児のママゴトか指遊びにしか見えぬだろう。
だが、現実感の無い面妖で荘厳な雰囲気に充てられた人々はその様子を黙って見つめていた。
"迦楼羅天かるらてん止雨法"はすでに始まっている。
尾花は、脇机から割り箸程度の乳木を11本手に取ると、護摩壇の釜へ格子状に積んでいく。
そして、再び白木を一本取り、燭台から火を取るとそれを格子の間へと入れた。
火は格子に組んだ乳木へと燃え移り、尾花がそれを扇ぐことによって愛嬌を感じさせる爆ぜた音を出しながら次第に勢いを強くしていく。
尾花はその様子を神妙な面持ちで眺め、房華ぼうけの樒を投げ入れた。
次に、杓を手に取ると据えてある数種類の供物の器からそれらを掬っては釜の中へと投げ入れていく。
辺りは護摩の釜から充てられる火によって、すっかり朱に染まっていた。
そして、尾花は再び乳木を手に取る。
その数は先ほどの比ではなく、一つの丸太の様に束ねてあった乳木を解くと手に取れる量を持ち、それを順々に釜の中へと投げ入れていく。
火が炎となって勢いを強くしていくたびに尾花の額には汗が浮かぶ。
それは熱波を感じて滴る汗の他、極度の精神集中と緊張によって浮かんでくるもの、そして焦燥によって浮かぶ物もあった。
おかしい「観えて」こない。
護摩儀とはそもそも、降ろした仏閣を自己の内に「観る」行為である。
そして降ろした仏閣の持つ功徳を自身や周囲にフィードバックさせる。
今回の場合では、迦楼羅天かるらてんの姿が尾花の内に「観えて」くるはずなのだ。
既に、護摩儀は本尊段の段階に入っている。
明確な願望達成がある場合、この段階で仏閣の真言を唱えひたすらに成就を願う。
しかし、願うべき迦楼羅天かるらてんの姿が見えぬ段階で、一体何に成就を願えと言うのだ。
尾花はそれでも、護摩儀を続けた。
本来、護摩の炎と一緒に焼き払うべき煩悩と懊悩が絶えず頭の表層へと浮かぶ。
その度にそれを焼き払おうと必死になる。
だが、「観えぬ」ことへの焦りと周囲からの視線で、また頭の表層に要らぬ考えが頭を過った。
認識が甘かった?
自身が再構築した魔術とその論理に絶対の自信を持っていた尾花。
しかし、今日に限ってそれらが上手くいかないことに若干の焦りが無かったわけではない。
この護摩儀についても、諸々の器具やその形状などは数学の変数記号の様な物であり、xがyに変わろうともその公式に則ってさえいれば良いと、そう思っていた。
公式に何か不足があったのか?
そう思った矢先、国衛の存在が頭に浮かんだ。
そういえば、アレが魔術に関わるとどうも具合の悪い結果になる。
公式に不足があったのではなく、尾花の予測していなかった変数zという余剰、それが国衛である可能性は無いか?
尾花は、頭に浮かんだ考えを無理やり振り払った。
このような下らぬことを考えている内は、「観える」物も「観えなく」なる。
焦りで震える手を何とか押しとどめ、迦楼羅天かるらてんへの供物である蛇の皮を火鋏でつかんだ時、尾花は思わずそれを取りこぼしてしまった。
その様子を見ていた周囲が俄かにざわつく。
「お仕舞か」と尾花は諦観し、天井を仰ぐ。
このような心持の時でまともに何かできようも……。
突然、視界一面を覆い隠す眩いまでの白。
そして、地面が空から降ってきたような轟音。
広間の空気は震え、人々が大いに騒ぎ始めた。
天地が急に引っくり返ったような場面の転換で、尾花の心臓は一瞬跳ね上がった。
状況の理解に頭が騒がしく動き始める。
少し落ち着いた頭の中で理解したのは、どうやら落雷が起こったということだった。
静寂を引き裂き、全てを照らす雷光など護摩儀を妨げるだけである。
ただでさえ上手くいっていなのに、本来この様な騒ぎなど言語道断のはずである。
だが、それでも尾花は笑わずにはいられない。
「北欧の神も、この大嵐に自らが怨敵を見出したか。」
THソーンのルーン。
妨害、理不尽な壁、転じて守護の意味を付与されたゲルマンの文字。
そして、THソーンのルーンにはそれらとは別にもう一つ、北欧のとあるルーツの意味を付与されている。
それは、雷神トールが持つ”粉砕する槌”、ミョルニル。
あらゆるものを粉砕し決して壊れぬ至高の武器にして、儀式の聖別を行う神器。
そのTHソーンの文字を刻んだタリスマンは、おそらく未だサスキアが起こしている竜巻の中を彷徨っている。
この稲妻は、おそらく街を覆い隠す積乱雲が作り上げた自然の必然なのだろう。
しかし、この悪天候に邪龍・毒蛇の姿を見出したならば、ましてや自らの仕事道具が邪龍に飲みこまれているならば奴が出てくるのも道理だと、尾花は思ってしまう。
であれば、この稲妻はさしずめ雷神トールの聖別か。
北欧の神より護摩儀のお墨付きを得るとは、まったくこの世界は面白い。
「迦楼羅天かるらてんよ、そなたがボヤボヤしておるから北欧の雷神が痺れを切らして出張って来たぞ?そなたも、千手観音が眷属二十八部衆の一柱ならば衆生の一つでも救ってみせよ!」
額にたまった汗を拭い頭を振った尾花。
その時、首回りに何やら違和感を感じた。
最初は普段着なれぬ衣類のせいだと思ったが、いくら首を回しても拭えぬ違和感。
尾花が違和感の正体を掴もうとうなじを擦ると、手に紐の様な物が当たった。
それを手に取って胸元辺りまで伝っていくと、そこにはクリームの混じった朱色と白が帯状にグラデーションの宝石があった。
その宝石に刻んである文字はOオセル。
政子から預かった物だった。
今紛失すれば、大量のエーテルが中央広場から一気に流れ拙い事になると、そのまま自分の胸へとぶら下げていたことを思い出した。
、
午前を過ぎ紅縞瑪瑙サードオニキスの効力も弱まったと油断していたが、護摩儀の熱波で再び効力を帯びていたか。
先ほどの焦燥と焦りは、このタリスマンの仕業だったらしい。
「好奇心は猫をも殺す」と国衛に言ったが、どうやら自分は好奇心で人を殺すところだった。
自分の内にある消せぬ煩悩に溜息を吐き、尾花は再び護摩儀に移った。
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空が癇癪を起したような轟音が東の空から聞こえてきた。
俺は中央広場からひたすら西に向かって走っている。
視界を遮るたびに拭っている水滴が、汗なのか雨なのかも判断できない。
長距離を走るなんて、中学校の校内マラソン大会以来である。
あの時も今ほど真面目に走っておらず、何なら友人数名とそのままコースを外れて適当な時間まで駄弁っていた記憶しかない。
そんなわけだからペース配分も減ったくれもない。
ただ、無暗矢鱈で我武者羅に走っているだけである。
息は切れ、まるで箍が外れたコンプレッサーの様に絶え間なく荒い呼吸を繰り返す。
競り上がる息の味には、どこか血の香りが混じっており気分も悪くなってきた。
焼けたように痛む器官が、呼吸の音をか細く鳴らしている。
満足に酸素の行き渡らなくなった足が、ついに解れてバランスを崩した。
濡れた地面に膝を着いた俺は、その場で洗い呼吸の調子を一端整える。
だが、「立ち止まっていても良いのだろうか?」という不安はいつまでも俺の心臓を強く叩き続けている。
しかし、俺も立ち止まるつもりも無いし走り続けていたいのだ。
けれども、身体が思い通りに言うことを聞かない。
自分の生き死にすら自分ではどうにもならぬ、それはこの世界に来てから今日のこの時までで思い知った。
そして、俺は自分の身体だって自分じゃどうにもならぬ事を今思い知った。
そんな俺が、この世界で何がどうできるってんだ。
何時までも政子や尾花におんぶに抱っこをして貰いながら過ごすつもりか。
いっそこのまま……。
そう思って投げやりに空を見上げると、先ほどまで隙間なく広がり分厚く天を覆っていた雲に切れ間が走っていた。
西にはぽっかりと口をあけた雲から、青い空が顔を覗かせている。
気恥ずかしいほどに青々とした空からレースの様な薄明が大地を明るく照らし始めていた。
不安がさらに鼓動を強く打つ。
このまんま死んだら、政子が、尾花が黙っちゃいないだろう。
おちおちと安らかに墓の下で寝ることも出来そうにない。
ヘリーとは生きて合うと約束してしまったし、あのアルノルドとかいう人も借りを返せと煩そうだった。
この街の人間には、今日一日で迷惑を掛けた負い目もある。
俺が死んで喜ぶのはあのバートとかいうクソ爺くらいのものだ。
老い先あと幾つあるかもわからない爺一人を喜ばせるために、死ぬのもなんだか癪である。
なりより、身体の底から湧き上がってくる”死にたくない”という不安と焦燥が、動力機関の様に先ほどから繰り返し心臓を強く打っているのだ。
このままボヤボヤとしていたら、本当に死んでしまう。
俺は再び足を回し始めた。
西に浮かぶ雲の切れ間めがけて、走り始めの時よりも不格好で汚く走る。
せっかく整った呼吸もすぐに荒くなり、再び血の香りが口のあたりに広がった。
フォームもへったくれも無く走れば、すぐに躓きその度に踏ん張るため体力の消耗大きく、それに比例するように足も次第に重くなっていく。
それでも”死ぬよかマシだ”の一言が頭をよぎり、再び足を動かす。
そんなことを繰り返していると街の外へ出る大門が見えてきた。
意外にも俺は懸命に走り続けて来ていたらしい。
「あの、この辺りに退避できる場所ってありますか!?」
俺は、大門の下で雨をしのいでいた憲兵にほぼ勢いだけで問い詰めた。
一瞬驚いた顔をした憲兵だったが、空を一瞬見上げた後に可笑しそうに笑い始めた。
「先ほどの雷のことを心配しているなら、ほら、西に空が見えてきたからもう間もなくこの悪天候も収まるだろうさ。確かに突然の大風と大雨だったからな、いろいろと不安になるのもm」
「そうじゃなくて!えぇと、俺の言ってる退避できる場所ってのが、こう柔らかくて、フカフカしてて、そういうところに退避したいというか……。」
焦りから、うまく言葉が纏まらない。
呪い返しだとかを説明したところで憲兵が理解してくれるかも分からない為、余計に言葉に詰まり表現があやふやになっていく。
「退避、たいひ、柔らかい……君の思っていることがよく分からんが……君の言葉から察するに多分ジョーンズの家に行くといいかもしれん。あそこだ、ちょうど雲の切れ間から光が差している真下あたりに農場が見えるだろう。」
「ありがとうございます!」
俺はお礼も早々に駆け出す。
礼も詫びも生きていれば、後で幾らでもできるはずだ。
憲兵が指差した方向には、農場が確かにあった。
しかし、俺と農場の間にはまだ収穫の終えていない麦畑が広がっている。
先ほどの大風にも懸命に耐えた稲穂は、未だ実りの穂を垂らしている。
……すいません。
心の中でそう呟き、俺はわき目も振らずその麦畑を掻き分けて進む。
途中、何度も稲穂が顔を叩き目に当たった。
人の生きる糧を踏みにじりながら走っているのだ。
それくらい当たり前である。
本来なら、殺されたっておかしくはないだろう。
それでも、俺は一心不乱に走る。
ようやく稲穂のカーテンが開け、視界に農場が見えた。
「この野郎!てめぇ!人んちの畑で何してやがる!」
と、同時に怒鳴り声が聞こえてきた。
最後の最後でなんたってこう色々と起こるんだ!
よりにもよって農場の主に麦畑を荒らしていたのが見つかったらしい。
恰幅の良い体躯と顎に黒々とした髭を蓄えた農場の主、この人がおそらくジョーンズさんだろう。
そのジョーンズは鍬を担いで肩を怒らせてこちらへ向かってきた。
まるで丘に上がった海賊、それも凶器持ちである。
殺されたって文句は言えないとは言ったが、せっかく街の外に出てきたのにここで殺されちゃ堪らない。
「すいません!ホント、すいません!でも、俺まだ生きていたいんです、とりあえずここは見逃してもらえませんか!?」
「生きていたいんなら人の畑を荒らしてんじゃねぇ、アンタ殺されたって文句は言えねぇぞ!?」
「それは承知してます!けど、今すぐ退避が必要なんです!俺の都合ばっか言って申し訳無いんですけど、ホント命が掛かってるんで!退避ができる場所を教えて下さい!」
ここで人に捉まっている時間は無いのだ。
上を見れば、雲の切れ間はどんどんと広がっており青空は街にまで届かんとしている。
「たいひ、たいひって……そりゃウチにゃそれ様の場所はあるけどもよ……」
切羽詰まった俺の様子にジョーンズは若干たじろいだ。
しかし、困惑した様子で頬を掻きながらも話を聞いてくれている。
状況を理解はしていないが、焦りは感じ取ってくれたのだろう。
「ありますか!?あの柔らかくて!?」
「そうじゃねぇと使えないからな」
「ふかふかで?」
「柔らかいんならそうだろうよ」
「どこにありますか!?」
ジョーンズが指差す方向にはこじんまりとした小屋があった。
あそこか!
「けど、たいひ欲しさに人の麦畑荒らすってのもわかんねぇな、ひょっとしたらアンタが荒らした麦の方が高くつくぜ?」
俺が駈け出そうとしたときに農場の主は呆れたようにつぶやいた。
「命に比べりゃなんでも安いもんですよ、ともかくありがとうございます」
それだけ言い残して、俺は小屋を目指し駆け出して行く。
これで助かった!
安堵した気持ち満たされた身体は、まるで浮き上がるようだった。
しかし、先走る気持ちに身体が追い付かない。
先ほどから足が空を掻く。
……おかしい。
本当に足が空を掻いている。
空中で足をじたばた動かしている俺の姿はなんと滑稽に映る事だろう。
だが、これは非常に拙いのだ。
不意に、サスキアのもとから政子を連れ出した時を思い出した。
この流れは……。
と、思った時には身体は放り投げられていた。
「アンタ!こんなことしやがってウチになんの恨みがあるってんだ!」
気が付いたときにはジョーンズかんかんに顔を怒らせ、俺を……これは見下ろしているのか、見上げているのかどっちだろう?
俺の視界にはジョーンズの形の良い腹が目線の高さにあり、ジョーンズの顔は視線の下にあった。
ジョーンズが逆さに宙吊りになっているように見えたが、視線を上げた時に彼の脚が地面についている事から俺が逆さになっていることを理解した。
「恨みなんてそんな……感謝したいくらいで。あの一つ聞いても?」
「なんだい?」
「俺、生きてますか?」
「死んでんなら無理やりにでも生き返らせるつもりだったさ。なんせ、そうしねぇと俺がアンタをぶっ殺す事ができねぇからな!」
ジョーンズが物騒な物言いで怒っている理由。
それは、俺がジョーンズの言っていた小屋に突撃して壊してしまったことだろう。
小屋に充満する香りと口に残る味は、オーガニックに過ぎるほどに有機的で大変植物に良さそうである。
これなら、確かに死んだ植物でも生き返りそうである。
だが、化学調味料とケミカルな味に慣れた現代人の俺には、この味と香りはもはや毒である。
口の中に残る胃袋が受け付けないであろう固形の何某をつばと一緒に吐き出し続ける。
その様子を見ていたジョーンズは、表情に同情の色を浮かべた。
「”堆肥たいひ”、”堆肥たいひ”ってうるせからって、何も小屋ぶっ壊してまで飛びつく必要ねぇじゃねぇか」
この人、口は悪いが根は良い人なのかもしれない。
それにしても、”退避”と”堆肥”のダジャレでこのオチかよ。
言葉の通じる異世界ってもの困ったもんだ。
ジョーンズの顔のはるか先を見下ろせば、そこには何事も無かったかのように青い空が海の様に広がっている。
また、一つこの世界の人に負い目を作っちまったな。
俺は気を失うまで青い空を見下ろしながら、能天気に笑っていた。
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