”フィカ”の魔術

「死んでくれって……。」


これが本当の”一生のお願い”ってやつか。


そんな頼み、神様だって聞いちゃくれないだろう。

けれども、そんなふざけた頼みごとを俺が当然のごとく突っぱねたとしてもだ。


相手はそれを強制させるつもりなのだろう。

エルマが向ける鉤爪は、言葉で脅迫されるよりも現実的かつ確実な意思表示だ。


「あまり抵抗しないほうが良いと思うぞ。棺桶に入るにも綺麗な身体のほうが良いだろう?」


バートの言葉には余裕と、侮蔑と、憎悪が入りまじっている。


「それと、今すぐマスター・オバナの側から離れてくれまいか?衣装を君の血で汚したくはない。」


バートの言葉の意図を示すように、エルマが一歩一歩とこちらへ歩み寄ってくる。


「って事みたいだから尾花、アンタの側にずっと居て良いかい?」


尾花の着ている衣装と相まって、これじゃまるでプロポーズじゃないか。


「……ある意味、どんな言葉よりも真に迫るプロポーズだな。だが、あちらは強引にでも私から君を引き剥がすつもりらしい。」


歩幅にして、大股三歩分といったところまでエルマは近づいてきた。

強靭な体躯を持つ人間なら、前方へ大きく跳べば一歩で間合いを詰めることができそうな距離である。


それでもエルマが、こちらを鋭く睨みはするがそれ以上の行動に移らないのは、尾花が俺の前に立っているせいだろう。


「安心するなよ、国衛。いつまでも君の防波堤をやってやるわけにはいかないのでな。」


この人なりに俺のことを心配してくれているのだろうか。

自分よりも頭二つは小さい背中に自分の命を背負わせている、しかしそうしなければならないこの状況。


「……まるでヒモにでもなった気分だよ。情けない男にプロポーズされてアンタも不幸な人だな。」


「別にそこまででもないさ、受けねば良いだけの話だ。情けない男と分かっているならなおさら……。」


そこで尾花は俺を見上げて、得心したように頷いた。


「君、そういえば男だったな。」


「一々思い出さなきゃならない事か、それ。」


忘れようも間違えようもないことだろうに、そんな事。

しかもこの状況でそれが何になるというのだ。


しかし、俺の疑問も呆れもどうやら尾花にとってはどうでも良いらしい。

不敵に笑みを湛えた後に、エルマのほうを向きなおった。


「コレに別れの言葉を言いたいのだが、構わないか?」


おいおい、ここまで来てやっぱり見捨てるつもりか!?


エルマは返答を窺がうようにバートの方を見やる。

バートは軽く手を上げ、それを許可した。


バートの返答を無言で受け取った尾花は再び俺の方を向くと、しゃがむように合図する。

俺は不承不承と、尾花の合図に従った。


「これから人生を卒業する俺へどんな贈る言葉をくれんだよ?」


「馬鹿め、そう腐るな。すぐに出来る簡単な呪文がある。ちょっと、右手を貸してみろ」


「流石、大魔術師先生様だ。その一言に涙しそうだよ。」


尾花の視線が冷やかに細くなった気もしたが、気のせいだろう。

俺は言われるように右手を差し出した。


「”フィカ”の魔術といってな、中指と…人差し指をこうやって」


「うん」


「こうやって……その間に親指を」


「アンタ、これって……」


「出来たぞ」


俺は尾花のこしらえた右手の形をジッと見る。


「……冗談でもこれは無いよ」


「冗談なものか!この形の右手を払いたい障害や厄災に向ければその厄が払えるという立派なまじないだぞ!」


……そういうなら信用はするが、いくらなんでもこれは。

……これで命一つ買えるなら安い物なのか、これで買える俺の命がそもそも安いのか。


「ほら、ボヤボヤしてる暇はないぞ。」


尾花の一声に前を向くと、エルマは今にも駈け出すかのように体制を低く落としている。


こりゃあ……逃げ出そうとしたら最後、今すぐにでも追ってきそうだな。


……駄目で元も


「国衛、伏せろ!!」


次のと。を言うより前に、俺は反射的に手を出していた。

尾花の声が聞こえたのは、その後にすら感じる。

それは、放たれた脅威や迫りくる悲劇を振り払おうとする生物的な生存本能。


バートの意思を先鋭化させ純粋な殺意となったエルマが、既に矢の切っ先のように俺に向かって跳びだしてきていた。

そして、目で見るより早く、音で聴くより確実に、相手の殺意を読み取った俺の腕はエルマに向かって突き出される。


尾花の一声で咄嗟に腰を抜かし、目をつぶりながら顔を背け、やや斜め上に向かって突き出された手。



柔らかい。



一瞬遅れて事態を把握し始めた五感のうち、最初に反応したのは触覚だった。

何かがおぶさっているような重さを感じるが、不思議と不快感はなく、寧ろ柔らかく暖かな何かに包まれているような心地よさすらある。


次いで聴覚、あたりは静まりかえっている。


恐る恐る開けた目が視覚としてまず捉えたのは顔の横に突き刺さる先鋭化された殺意の化身。

エルマの鈎爪には少しばかり血液が付着している。

先ほどから、左頬がヒリヒリと痛んでいるからおそらく俺の物だろう。


そしてゆっくりと顔を上へと回した先には……。

エルマの無表情な褐色の顔……いや、若干赤くなっているようだ。

あの特徴的な片眼鏡が外れ、目元には小さく涙が浮かんでいる。


そして、視界の下端に捉えたエルマの胸に手が埋まっている。


これは誰の手だ?と考えているまでもなくそれは俺の右手だ。






ここで話題が逸れるが、尾花直伝の”フィカ”の魔術について少し説明しよう。


やり方は簡単である。

右手の人差し指と中指の間に親指が顔を出すように挟みながら握り拳を作る。

これだけだ。


この形、何処かで見覚えは無いだろうか。


現代日本では、夫婦の幸せな家族計画だったり、男女の愛のバロメーターだったり、恋のABCのCだったりを暗喩するハンドサイン。

放送コードに引っかかる程度には認知されている、アレの形だ。


俺の右手にこの卑猥なハンドサインを施しながら尾花が何かを言っていた。


「古代ギリシャでは男性器を戦士つまり戦う男の象徴としたり、厄を除け魔を払うものとして扱ってきた歴史がある。そして、”フィカ”の魔術のこの形は女性器に……。」


「あぁ、知ってるさ。これなら俺もよく知ってる!だから言わなくt」


「この形に握った拳を、こう!突き出すあたり、まさに男性t」


「だから、言わなくていい。」


大体こんな感じのことだった気がする。





その”フィカ”の魔術を施した俺の右手がエルマの乳房に埋もれていた。

……この人が涙目なのはこれが原因か。


「あの、ごめんなさい」


そもそも俺が謝る必要も無いのだろうが、敵味方や利害や好嫌を超えた男女間でのマナーだとかデリカシーだとかが、俺から謝罪の言葉を引き出させたのだろう。


俺に覆いかぶさっていたエルマは、地面に刺さった左手の鈎爪を手から外すと、羞恥の籠った目で俺を睨みながら後ろへ飛び退いた。

胸を腕で隠し俺に見られまいとする様子が、なんとも心に突き刺さる。


睨まれてもあんなの俺にだってどうしようもない、事故だってもうちょっと融通が利きそうなもんだ。

それなのにそんな睨まれても……。


身体に受けた傷は頬のかすり傷だけだったが、心の傷はなかなかに深い。


俺が重たい身体を持ち上げると、その側へ尾花が駆け寄ってきた。

その顔には満面の笑みが浮かんでいる。


「どうだ!やはり私の思った通りだ!エーテルが飽和したこの中央広場一帯では”フィカ”の魔術のような簡単なまじないまでもが効果を発揮する!”フィカ”の魔術が持つ戦士としての防衛本能が国衛、君を守ったのだ!」


尾花は、俺が生きていること以上に”フィカ”の魔術の効力が実証されたことについて、手を叩いて喜んでいる様子である。

あの時、脳のパルス信号よりも早く右腕が反応したことがそんなに嬉しいか?

あれは正直、危険を前にした戦士としての防衛本能というより、魅力的な女性を前にしたの男の悲しい性にしか思えない。


正に種としての生存本能万歳、泣けてくるよ。


あの鋭く凍った表情だったバートですら顔を弛緩させ呆れている。

部屋の張りつめていた空気がにわかに弛緩し始めていた。

そりゃそうだ、こんなハンドサイン一つで形勢が裏返るなんてとんだ喜劇、いや茶番である。


と、その時だった。


「止めて!留めて!停めて!泊めて!誰が何しても良いから早く私を止めて!!!!!!」


先ほど、司教が出て行った扉の向こうから騒がしい声が聞こえてきた。


これは聞き覚えのある……。


声の主が俺の記憶の表層へと浮かび上がる、その前に。


既に”フィカ”の魔術が発動していた!


俺の右手は広間へ高速の残滓を残しながら侵入してきた何某の身体を捉え……。

とらえ……。


身体を襲う強い衝撃。

それは政子をサスキアの元から逃す際に感じたものとは別種だった。

あれが引っ張る力であれば、これは押す力である。


何かに身体ごと全ての体重をぶつけられた衝撃が走る。


そのまま、後方へと突き飛ばされたことまで分かったが。


気が付けば俺の視界は真っ暗になっていた。












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