機密文書
埃とカビとが入り混じった臭いにむせ返りそうになるのを堪えて俺は人を待っていた。
いや、正確には人が来るまで慌てず待てと言われた。
ここはギルド商館の最上にある尖塔の中。
本来は物見目的で設置されたここも今はただの物置である。
天井近くに取り付けられた格子状の窓からは雨風が吹きすさび、屋内にいても外にいるかのように寒く冷たい。
尖塔の入口は外側から施錠されており外に出る事は敵わず、俺は乱雑に置かれた木箱の陰に隠れて寒さを凌いでいる。
大会議室の広間にいて嫌味な司教と話をしていたことまで記憶にあるが、それ以降が判然としない。
気が付いたらここに寝かされていた。
聞かされた話と状況を鑑みるに俺は身柄を拘束されているらしいのだ。
理由は、言わずとも分かる。
サスキアとの一件が尾花の責任も含めて俺にマルッとおっかぶさっているのだろう。
早く行動を起こさなければ恐らく俺は死ぬというのに不思議と焦燥や緊張は無い。
というのも、俺を脱出させる手筈を整えているらしいのだ。
そして俺自身がもはや駄目で元々なるようにしかならないと開き直りの境地にいる事も理由としては大きい。
今のこの状況においては俺自身が駄目になるかならないかという事よりも、早く誰とも知れぬ待ち人に来てもらいこの手持ち無沙汰から開放してもらいたい気持ちのほうが大きい。
そんな俺の思いが通じたのか外で何やら話し声が聞こえてきた。
一人は扉の外に立つ尖塔の見張り。
もっと良く会話を盗み聞くために扉に意識を集中させた。
「中にいる人物にこれを渡しに。えぇ、もちろん改めていただいて結構です。」
もう一人は……女性だろうか?尾花とも政子とも違うが若い女性の声が聞こえる。
「僕の体もですか?えぇ、まぁ、その、いいですが。」
……また、女か。
正直、今の俺は女性と関わって碌な目にあっていない。
尾花にサスキア、そこに政子も含めたって良い。
このお三方がそれぞれ三者三様アクとクセが強いのも碌な目にあっていない原因なのだろう。
しかし、逆を言えばそういう女性が俺の元に集まっていると言えなくもない。
だがそれも華に集う蝶なんて綺麗な物でもない。
まるで、便にたかる……やめておこう、
それ以上言うと三人はもちろん俺まで惨めになる。
「そろそろ気が済みましたか?え、あ、それは!それはその……。」
外にいる協力者と思しき女性は、言葉に詰まりしどろもどろになっている。
何か拙いものでも見つかったのだろうか?
尾花からの言付けとか、そのような類の何かを。
おいおい、頼むぞ、まだ見ぬ誰かさん!?
今の俺はアンタだけ頼りなんだ。
「あぁ!そ、そういえば父から貴方にとこれを、見張りも大変だろうからこれが労働に励みになればと。」
……無事に切り抜ける事が出来たのだろうか?
もっと良く声を聞こうと扉に近づいたときである。
不意に開いた扉に額を強かにぶつけてしまった。
呪い返しに耐える予行練習にしては随分とさびしいものだが、それでも目を回す程度に充分な痛みである。
「あ!す、すいません、人がいるとは思わず!」
入室してきた人物は尻餅をついた俺に慌てて駆け寄ると、腰を落として俺の背中を支えるように介抱してくれた。
「いやいや、ぶつけて困るものは頭の中に入ってないんで大丈夫ですよ。こちらこそすいません、驚かせるよう、な、ま……」
この小女の周りにだけ重力の働き方がおかしい。
それは時すら静止してしまうほどに強力な重力であり、俺の視線は彼女の放つ重力に引っ張られた。
歳は俺とそう変わらないだろうか?
肩口で整えられた白く艶やかな髪とそれと同じく磁器のように白い肌。
青い瞳は作られた宝石のよう輝きしかして生気に満ち満ちている。
そして控えめでおしとやかな物腰と態度。
例の三人が彼女の爪の垢でどこまで大人しくなるか見てみたい。
これで白いワンピースなどでも着ていたのなら、無い筈の羽でも見えてファンタジーの妖精とでも見間違えただろう。
彼女の服装がバートの側にいた小麦色の肌をした麗人と同じだったことでようやく彼女が現実の人間だと認識できる。
少女はそれほどに浮世離れした美しさだった。
少女を見た、それでようやく俺は自分が異世界に来たと実感出来たのかも知れない。
例えば今ここでこれまで起こったこと全部ひっくるめて夢でしたと言われたら、俺は今この場においてのみ夢が覚めることに名残惜しさを覚える。
仮に夢だったとしてもただでさえ目覚めの悪い俺が彼女が放つ幸福な重力によって目覚める可能性がより低くなっているだろうが。
いや、ひょっとするとこれは夢なのかも知れない。
なぜなら夢であれば普段有り得ないこと想像してもいなかったことが時に理不尽に、時にシュールに、時に曖昧に起こりうるのだ。
そうそれは、例えばこの様な感じで。
「えをお聞きしても良いですか?」
なんとこの非常時でありながら俺は人生初のナンパを敢行したのである。
そのような行動を取った俺に俺だって驚いている。
だが、目の前にいる少女を見た驚きに比べれば無きに等しい、いや、むしろ少女を前に声の一つでも掛けなければそれこそ驚きである。
「名前?、あぁ、名前ですか、そうですよね。初対面ですし素性が分からない人間は信用できませんもんね。」
少女は一瞬驚いたように目を見開いたが、その利発そうな見た目通りの聡明な判断力を駆使し俺が名前を聞いたことを理解したらしい。
「僕はへリー・カルフ・クライフと申します、貴方がクニエさんですね?」
少女の問いに俺は黙って頷いた。
ヘリ―と名乗った少女はやはり件の待ち人だった。
しかし、気になるのは名字である。
今、クライフと言ったか?
であれば容姿から血筋に至るまで芍薬牡丹百合の華も揃って恥じらう高嶺の華と言うことになる。
こんな少女が待ち人とは俺のツキも巡って来たらしい。
……神様からの最後の御情けってわけじゃないよな。
「マスター・オバナからの預かりものがあってですね……まずは」
「その前に!さっきなんか身体を弄られてませんでした?その、扉の前にいた見張りに!」
先程の扉越しの会話から見張りとヘリ―の会話、あの様子から察するにヘリーーは見張りに身体を改められたはずである。
「あれなら大丈夫ですよ、見張りに見られたのは偽書……。」
いや、大丈夫では無い。
何故なら問題はそこでは無いのだから。
「あんにゃろう……ちょっと待ってて下さい。」
「へ?」
俺は義憤と思しき下半身から沸々と湧き上がる熱を抱え、勢いよく扉を開けようとした。
「あの!ホント大丈夫ですから!下手に外へ出ると逆に怪しまれます!」
ヘリーが俺を慌てて制止する。
腕を掴まれたことによって、義憤が思春期特有の狂熱へと変化するのが分かる。
このままではいかん。
「あの、どうかしましたか……?」
「どうかしそうなんで、少し落ち着く時間をください」
ヘリーが渡してきたのはローブが一着と、尾花からの預かり物である根付紐のような物。
見ようによってはミサンガにも見えなくはない。
「マスター・オバナいわく"足に巻けば、自慢できるくらいの俊足になれる”との事です。ローブは雨具用に用意しました。すいません、急々で用意した物なのでそこまで撥水性があるかは分かりませんが……」
「それなら着ずに一生保管して大事にします」
「あの、風邪をひかない為にも着ていただけるとありがたいのですが……」
俺は名残惜しみながらローブに袖を通した。
ローブの着心地は急々で用意した物にしては滑らかに腕を通っていく。
これほど上質な生地の衣類、元いた世界でだって着たことが無い。
これを雨で濡らすのはやはりもったいないな、そのようなことを思いながらも緩やかに体を包み込むローブの暖かさから再び脱ぐ気にもなれなかった。
「それでこれが一番重要なのですが……エルマ!」
ヘリーは小声で、しかしはっきりと誰かの名前を呼んだ。
すると部屋の陰から蒸気の様な靄が立ち込め、あのバートの傍にいた褐色の肌をした男装の麗人が現れた。
左目にかけた片眼鏡がシリアスな彼女の雰囲気を一層強めている。
彼女の登場で部屋の空気が張り詰め、体感温度が少し下がったような気さえした。
エルマはヘリーの元へ近づくと手紙をを取り出した。
それをヘリーへ渡すとその場で一礼した後、俺へと一瞥をくれる。
黙ったままのエルマとどうして良いか分からない俺。
無言のまま睨めっこが続いたがエルマの方が根負けしたのか、はたまた俺の顔を見ているのが馬鹿らしくなったのか、そもそも俺なんぞにかまっている暇など無いのか、そのまま一礼して部屋の陰まで足を運ぶと靄が掛かった様に姿を消した。
「先程見張りに見つかったのは偽書、マスター・オバナから預かった本来の手紙はこちらです。」
ヘリーはエルマから渡された手紙を俺に渡す。
書状などと言えば仰々しい言い方に聞こえるかも知れないが、渡された手紙は長三封筒程度の大きさの蛇腹に折った物である。
勧進帳で弁慶が読み上げるようなアレをイメージすれば分かりやすいか。
重要な書類だと内容を見ずとも分かる手紙も中々無い。
恐らく尾花の趣味なのだろう。
「助けて貰う身でこんな事言うのもおかしな話ですが……随分と回りくどい事をされたんですね。」
最初からエルマが手紙を渡す段取りになっているのであれば、ヘリーがこちらにやってくる必要も無かったのではないだろうか?
俺としては、嬉しい限りの話だが。
わざわざ偽書を用意して見つかるような真似までして何か目的があるのだろうか?
「エルマの使用する魔術の関係上僕がこの中に入る必要があるのです。それに敢えて偽書を見張りやその他の教会関係者に見つけさせれば、それを見つけた事に満足してそれ以上の追及が来る可能性も低くなると父は踏んだのでしょう。」
「なるほど……」
そこまでの注意を払って俺に届けられた尾花からの手紙。
俺は切り紐を外し、蛇腹に曲げられた用紙を解き解していく。
「えーっと……、国衛へ この手紙が君へと無事に届いた事、まずは行幸である。」
紙には細かな筆文字で日本語が均一かつ丁寧に綴られていた。
そう言えば日本語の文字自体を久々に見た気がするな。
これなら例え誰かに見つかっても、書かれている内容までは分からないだろう。
"遊蝶帰華呪”の札を見た時も思ったが、色々とズボラな面の目立つ尾花だがこういった仕事についてはかなり几帳面且つ丁寧である。
「わぁ……。」
感嘆する声に顔を上げると手紙を覗き見ていたヘリーと視線が合った。
「あ、その、すいません……。」
顔を明らめ伏せるヘリーがいじらしくそしてもどかしい。
「あの、よかったら一緒に見ます?」
「それは拙いですよ!って、覗き見ておいて言うのもおかしな話ですよね……。」
「見られたところで、読めなきゃ問題無いですよ。」
隣に来て一緒に見る様に促すと、ヘリーは恐縮しきった様子で俺の隣に座った。
しかし、尾花からの手紙を見るや、満面に笑顔を咲かせ瞳に好奇心を輝かせる。
尾花め、アンタもたまには良い仕事をするじゃないか。
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筆を執るが時間があまり無いので手短に説明する。
先ず、今回の様な大嵐についてだが、本来”エアリアル”程度の魔術器具アーティファクトで引き起せる物では無い。
確かにアレは動作テストなど一度もしていなかった。
しかし達人アデプトたる魔術師の矜持にかけて言うがあそこまで大きな計算違いなど私では有り得ない話だ。
それも6ポンプ推奨であるところを3ポンプ、半分以下の出力設定しか行っていないにも関わらずあの威力ともなれば、それは最早私以外の何かに諸原因を求める事に他ならないわけである。
そもそも、あの高慢ちきが今この時も防御魔術を展開出来ているという事がその事を暗に示す何よりの証拠だ。
この世界にいる魔術師の中でも、さらに指折りの部類に入る魔術師でもない限りあのような長時間の防御魔術の展開などありえない。
何故ならば。この世界の魔術は大気中に漂うエーテルを魔術師が自身の心包ソウル・バスケットに取り込み事物・事象が持つ第一質料プリマテリアと合わせて精製し、そしてそれを再び外へと放出する事である。
これはつまり個人が持つ魔術的素質に頼る事が極めて大きい魔術体系であり、私が使用する公式化、典礼化、簡素化、そして一般化させた物とは一線を画し……。
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そこで俺は手紙を読む手を一旦止めた。
「なげぇな……」
長いと言うのは、筆を執る時間が無い筈の尾花による自身の魔術についての釈明もとい言い訳についてである。
これだけで手紙が終わる事なんて無いよね。
「凄い……一つの文の中に様々な字画の文字が並んでいる。…画数の多い文字については東洋人イースタンが似たような文字を使用しているのを見たことがあるけど、この簡素な丸みのある文字は表音文字なのかな?それらを決まった文法に沿って必要に応じて使い分けているのか。随分と複雑な言語ですけど、国衛さんはこれ読めるんですか?」
「読めますけど、今の所意味まで理解する必要は無さそうですよ」
尾花の手紙にやたらと関心を示すヘリー。
だが、今のところ尾花の言い訳だけがひたすら綴られていることを告げたら
どんな顔をするだろうか。
ヘリーをがっかりさせないためにも、この後に綴られている事が俺にとって有益であることを祈りながら、俺は再び手紙に視線を落とした。
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