帰還
勢いよく駆け出して行った政子だったが、その途中で走る速度を減退させていた。
竜巻の大本へと近づくにつれ体の自由が利かなくなってくるのだろう。
顔に当たる風を手で遮り、サスキアの元へ綱でも渡るかのように一歩一歩ゆっくり近づいている。
俺のほうも状況としては変わらないが、まだ政子よりは幾分体の自由が利く。
確実に政子との距離が縮まってきた。
「サスキア!貴女、大丈夫なの!?」
「政…‥」
「マサコ!そこにいるのはマサコ・クロサカなのですか!?私の敬愛するお姉様がおられるのですか!?」
俺が政子へ声を掛けるより先に、暴風の中心から狂騒の様な甲高い声が聞こえてきた。
誰の声と聞くまでも無い、先ほどさんざん聞いたサスキアの声である。
だが、その声は俺と尾花に向けた様な刺々しいヒステリーの様な物では無く、何処か憧れの異性を見た様な黄色さがあった。
そして、それまでサスキアの周囲を覆っていた渦巻いた大気の層が引き裂かれ、サスキアの姿が露わとなった。
「あぁ!"偉大なる御身グレイト・オブ・ドゥ”は私めになんという試練をお与えになったのでしょうか!?どうして私が愛しい人を前に地に膝を屈する醜態を晒す事が出来るのです!?御身はそれを知っておいでになりお姉様をここへと遣わされた!?どのような艱難辛苦に見舞われようとも決して折れることなかれと仰るのですか!?であれば、お姉様がこの場にいらっしゃるのは御身からの激励!?あぁ!あぁ!!そうならば、私は御身を前になんという凡愚たる姿を晒したのでしょう!?御身の深遠たる慈悲を見抜けぬ浅学菲才!!いえ、むしろ凡愚たるからこそ御身の慈悲を見抜け無かった!!!御身はその事すら汲み取っておいでになり、なお私の様な卑賤の身にすら寵愛の眼差しを向けて頂いている!!!!!」
……頭が痛くなりそうだ。
恍惚とした表情のサスキア。
!"偉大なる御身グレイト・オブ・ドゥ”ってのはサスキアの信仰の対象だからわかるとして、政子に対しても熱烈かつ狂信的な言葉を投げかけてるのは何故だろう。
政子とサスキアの間には同性の友情を越えた先の何かがあるのだろうか……。
もし元いた世界に帰還出来たとして、政子の両親に俺は何と説明したら言いのだろう。
帰りの遅い娘がようやく帰って来たと思ったら色んな意味で大人になっていたなんて、浦島太郎からも同情されそうな話である。
興奮しているサスキアによってハニカム構造の障壁はより広く厚くなって展開されている様に見える。
障壁によって強引に押し出された大気は周囲の物を道連れに周囲の物を道連れにするかのように、より強引にあらゆるものをその腕に抱きこんでうず高く巻き上がった。
そして大気の腕はまるでサスキアの意志が憑り移ったかのように政子の体を抱き抱えた。
政子の体が小さく飛び上がり、「ひゃっ!?」と政子が悲鳴を漏らしたのが聞こえた。
「お前、あのねーちゃんのなんなのさ!?」
間一髪だった。
政子の体が完全に浮き上がるより早く政子の腕を取り政子の体を引き寄せた。
そしてそのまま政子の頭を押さえ、一緒に地面に伏せ強風をやり過ごす。
風の強さはサスキアの異様な気合も相まってまともに目も開けていられない。
地面に伏せた所で、一瞬でも気を抜けばそのまま政子と一緒に竜巻の一部になってしまいそうである。
「なんなのってお兄こそなんなの!?こんなとこいたら危ないって!」
政子は自分の頭を押さえている俺の手を振りほどくと、鼻が当たりそうなほどに至近距離にある俺の顔に向かって大声を上げた。
政子にとっては自分があの竜巻の中の一部になる事よりも、俺がこの場にいる事の方が驚愕に値する事らしい。
「その言葉、お前が自分自身に言ってやりなよ」
「んぐ……」
言葉に詰まった政子は、再び地面へ顔を伏せてそのまま押し黙る。
「お前も事情があって慌ててんだろうけど、この状況じゃ何するにしたって尾花の助けが必要だろ?」
こっちとしては政子が突然サスキアへと走り出した事に驚いた。
なんせやっていることは自殺志願者と変わらないのだから。
普通に考えればそのくらい想像がつきそうなものだが、それが分からないくらいにどうやら政子は慌てている様だ。
おかげで俺は心臓が口から飛び出る思いでここまでやって来たのだ。
……下腹部の辺りが濡れているのは全てこの雨風のせいだと思いたい。
「ほら、立てるか?」
ゆっくりと慎重に上体を起こした俺は、そのまま政子を抱え上げようとした。
しかし、政子はこの状況の中で未だに何かを躊躇している様子である。
「文句や不満も含めて後で聞くからさ、ここで死んだら文句も不満も言えないし聞けなくなるぞ?」
「けど、サスキアが話を聞いてくれたら。」
俺は黙ってサスキアの方を指さした。
!"偉大なる御身グレイト・オブ・ドゥ”よ、そしてお姉様!このサスキア・フォン・レインを見ていてください!あの”異端的不可触階級ワイルドカード”めの業を撃ち伏せ、彼方への敬愛の御旗をその魂に立てんとする我が姿を!」
「あの様子じゃ100万人の署名の声だって聞こえはしないよ。けど逆に言えば、あんだけ元気ならしばらく看病も介護も必要ないって、それより必要なのは俺たちへの救援と救助だ」
今のサスキアはアドレナリンの大売出し状態だ、ほっといても勝手に精神が肉体を凌駕して限界を超えてくれるに違いない。
そのような状態なら素直に尾花の魔術を食らい後は自力で何とかしてもらいたい。
だが今サスキアの状態を度外視しても、話を素直に聞き入れてくれるか尾花への敵愾心を鑑みれば甚だ疑問である。
であれば、やはり魔術は俺が食らうより他ない。
そして、問題なのは俺の命の去就だが……。
「あのねーちゃんを助けつつ俺の命も助かる方法だけどさ」
「え……ひょっとして」
「多分見つけた……というか最初からあったというか、とりあえず全部ここから離れた後の話だ」
俺は尾花に渡された札に視線を落とす。
恐らく政子と俺の救援措置なのだろう。
しかし、政子を見つけたら合図しろという事だが手でも振ればいいのだろうか?
俺が尾花に手を振る為、政子の身体から手を離した時だった。
「サスキア!もうちょっとの辛抱だから!今しばらくそのまま耐えてて!」
政子がサスキアに対してエールを送ったのだ。
「馬鹿!余計なこと言うと……!」
しまった!
あのトランス状態にその手のエールはまずい!
そういうのに限ってちゃんと聞こえてしまうのだ!
「お姉様!ご心配に及ばずとも御身に対する信仰が!そしてお姉様に対する仁愛が私に渺茫たる大海の如き活力を与えて下さる!……あぁ!そんな!まさか!お姉様、貴女の隣にいるのはあの卑しき”異端的不可触階級ワイルドカード”の手先ではありませんか!?彼奴めは私からお姉様という存在を奪い、柔弱した心の隙間へ土足で上がり込んだ挙句”御身”への信仰を捨てさせようとしているのですね!?」
サスキアの上空で渦を巻いていた大気が突如として火の衣を身に纏った。
螺旋を描き高く昇龍していく火柱。
緊急時でなければ、目を輝かせ心奪われる光景だろう。
「え?あ、あれ?え?」
政子は突然の事態に思考が追いついておらず、違う意味で心奪われている様である。
政子にとってのサスキアがどんな存在かは分からないが、サスキアにとっての政子がどのような存在なのかはその言動の一端からも伺え知れよう。
政子はもっと自分自身について色々と自覚するべきである。
「我が怒りは御身の怒りと心得なさい!その憤怒は我が血肉を滾らせ、皮膚を破り、やがては不埒なる者共をその業火をによって火煙へと変え、”御身”の元まで運ぶでしょう!」
火柱は煌々と燃え滾り、周囲を黄昏よりも苛烈に朱色へと染める。
その光景は世界の終末を見ているようだった。
「だから言ったろ!?あれだけ元気有り余ってんだ!腹減るまではずっとあの調子だっての!」
「あ、うん、ごめん。」
政子は状況を理解しようと必死なのが表情から伺える。
ともかく一刻も早くここから離れなくては。
俺は尾花のいる方へ札を掲げるとそのまま大きく腕を振った。
と、その時だった。
それは螺旋を描き炎を纏う昇龍の汗か涙かはたまた垢か。
炎の渦が散らす火の粉の一つが見事に札へと燃え移ったのだ。
「ちょ!やばいやばい!」
「え!?ひょっとしてそれが戻る手段なの!?」
燃え移った種火は札を蝕むように赤い熱の範囲を広げていく。
それを慌てて消そうと手で叩くがこれがまた熱く、札を濡れた地面に落としてしまった。
「火……ちゃんと消えたけど……」
政子の言葉に俺は首を傾げて返事とした。
「大丈夫なの?」と後に言葉を続けられたところで、「大丈夫だ」と言える自信が無い。
札の火は消えた、しかしおそらく希望も消えたのではないか。
濡れた地面に張り付いた札は、無理に剥ごうとして途中でちぎれ消しゴムのカスのように細く纏まる。
尾花に渡された札は最早札としての体裁を保っていない。
その状況を素早く察したかのように俺の体は暴風に掴って小さく浮くのを感じた。
咄嗟に何か掴まれる手ごろな物を探したが、都合よく転がってはいないらしい。
これは拙い……このままではあの巨大乾燥機の中にぶち込まれてしまう。
そうなれば最後、コインフリーの無制限の無間地獄、サスキアの気が済むまでこんがり乾燥させられてしまう。
宙で溺れるようにもがきながら必死に掴まれる物を探していると、逆に俺の腕を掴む物があった。
「ちょっとお兄!それはさすがに拙いって!」
「馬鹿!拙いのはお前の方だっての!早く俺の腕から手を離せって!」
政子は言葉を受けてなお俺の腕を胸元に抱き寄せて、俺を飛ばすまいと必死になってしゃがんでいる。
俺は政子を振り切る為に必死に手を引きはがそうとするが、いかんせん政子の必死の抵抗と乳圧はそれを困難なものにする。
男ならば至福とも思えるシチュエーションを自ら必死になって打ち切ろうとしているのだから人生とは分からない物だ。
しかし、そうでもせねば二人そろってこんがりきつね色どころの騒ぎでは無い。
痛い目を見るならば二人より一人、俺一人で充分である。
「お前一人でも尾花の元に行って貰わないと、俺もあのねーちゃんも助からないから!頼むから俺の手を離してって、あぁ……」
なんといことだ。
見れば政子の履いているロングスカートがふわりとかぼちゃの様に盛り上がっており、政子の体も風船のように宙に浮いているではないか。
終わった。
色々と文句も言いたいところだが、政子、申し訳ないけど話はまた来世だ。
あの炎の竜巻へと巻き込まれたとして、政子はこのままだとおそらく死ぬ。
そして俺は……死ぬ思いはするかも知れないが生きていられるかもしれない。
何故なら……俺は自分の首に掛かっている紅く耀く宝石を見た
俺には、尾花が言うところのTHソーンのルーンを刻んだパイロープガーネットのタリスマン、こいつがあるからである。
単なる装飾品に見えるコイツだが、その能力は既にサスキアとのひと悶着で実証済み。
そして、先程政子に話をしたサスキアに降りかかった呪いを解呪しつつ俺の命が助かる方法と言うのもコイツ有りきの話だ。
竜巻に巻き込まれてしまってもコイツがあれば案外無事で……。
「政子、必死に飛ばないようにしてもらってる身で言いたかないんだけどさ。お前の体も浮いてんぞ」
「えって……え!?え!?これ、私もやばいよね!?お兄、どうしよ……。」
どうしよって言われても今更の話だ、だから早くここから逃げようって言ったのに。
「ほれ、これ首にでもぶら下げとけよ。」
俺は首からタリスマンを外すと政子へと手渡した。
渡す手が震えているのは……雨風が冷たく寒いだけである。
そしてこうなれば後はもう吹きすさぶ風に身を任せるしかない。
運がよければ、改築途中の聖堂の足場にでも体が引っかかってくれるかもしれない。
「オン、マキャラギャバゾロウシュニシャ、バサラ、サバト、ジャク、ウン、バン、コク」
唐突に耳元で尾花の声が聞こえたかと思うと、突然身体を強い衝撃が襲った。
背中を強力な磁石で引っ張られているような、あるいは大地が急速な加速運動を起こし周りの風景が高速で移動している中で俺と政子だけが取り残されたような感覚。
どちらにしても背中に耐え難い重力を背負い俺の身体は政子を伴って、ある一方へと急速に引き寄せられて行く。
それはサスキアを中心に渦巻く炎の螺旋、そこから安全な距離を取った対面にいる尾花の方向へとだった。
両手の指を複雑に立て合わせ、何事かを呟いている尾花が一瞬だけ目に入った。
と、その次の瞬間、俺と政子は持ち主に放置された屋台へと投げ込まれたように身体をぶつける。
覆いかぶさる硬いものは屋台の残骸、腹に蹲るやわらかい何か政子として、俺は今どの向きを向いて何処に頭があるのだろうか。
「国衛に政子、まずは無事に生きていて何より」
「……アンタの目には二人とも生きてるように見えるかい?」
「少なくとも死んではなさそうだぞ」
眼前に覆いかぶさり視界をふさぐ屋台の部材を払いのけると、笑みを浮かべる尾花の顔が目に入った。
「あそこまで派手な合図をせずとも良かったんだが、司祭殿も毎度毎度といちいちやることが派手だな。」
「多分、あれはあのねーちゃんの趣味なんだよ。」
尾花が何をやって俺達をここで引っ張ってきたのかは分からないが、寸でのところで助かったらしい。
俺は政子の肩を抱えて起き上がるとサスキアの方を見た。
高く上がる炎の渦は遠くから見るとより一層派手さがある。
元いた世界で同じ事をすれば大文字焼きに並ぶ名物行事になるだろう。
だが、それを悠長に眺めている時間は無い。
中央広場に石造りの建物が多いのと降雨のおかげで未だ火事は起きていないようだが、この先どうなるかも分からない。
「尾花、この後の対応の事なんだけどさ。」
「その前に、少し時間をいただいても宜しいかな。」
俺の言葉を遮って現れたのはバートだった。
整えた髪は乱れ着ている上等な衣類も濡れており、俺達が戻ってくるまでの間尾花と一緒にこの嵐の中で待っていたようである。
その表情はというと……。
「時間が無いのは重々承知だが、どうしても話しておきたい事があるのだ。」
バートは口角だけを上げて、視線を俺達の方へと、厳密にはある一点へと向けた。
「少し時間を貰うぞ?マサコ」
バートの表情は政子が俺達に見せたそれと同じだった。
肩を抱きかかえる俺に政子の震えが伝わってきた。
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