バート・フリーゲン・クライフ

商業ギルドの商館は中央広場の南側全体をその外壁で覆っており、天に挑むかのごとく高くそびえ立っている。


1階から3階は商業ギルドの受付や業務を行っており、職員も含め人が朝から晩まで絶えず出入りしており、大変に騒がしい。

そんな喧騒から離れた上階にはギルドの会合を行う大きな会議室や宴会用の大広間、貴人が宿泊するための部屋などなどの設備を備えている。

それら豪華絢爛を尽くした部屋を見送り少し日当たりの悪い角に据えられた1室が、商業ギルドの大元締めであるクライフ家当主バート・フリーゲン・クライフの書斎である。


ギルドの大元締めの書斎にしては些か地味な印象を受けるが、書斎の戸を開ければ人一人がすれ違えられるスペースを残して床から天井までを覆い隠すように本棚が憮然として均等に切り立っている。

その様はちょっとした図書館の様であり壁の際に至るまで本棚が並んでいるため、なるほど調度品や装飾品の類を飾っておくスペースも無いわけである。


人はこの部屋に来ると緊張すると言う。

無味乾燥とした部屋の中で、自身よりも上背のある物が並んで無機質に自分を見下ろされると何やら居心地の悪いらしい。


しかし、政子はここに来るたびに尾花が住んでいた屋敷を思い出し割と落ち着いた気持ちになる。

初めて尾花の屋敷の中に入った時こそかなり面を食らったが、人間の適応力とは凄まじい。

最初はおどろおどろしく視線にも入れたくなかった禍々しい魔術道具アーティファクトの類も、何時の間にやら勝手に整頓して尾花に怪訝な顔をされるほどになったのだから。


この世界についてもそうである。


改めて考えてみる事も無かったが、13歳の頃にこちらの世界にやって来てもう5年である。

この世界で暮らすことにすっかりなれてしまっており、5年と言う時の流れの早さに実感が持てないでいる。

と言うよりも、この世界で生きていくことに必死になっていていつの間にか時が過ぎ去った、もしくは置き去りにしてきた感じである。

青春を「生きる」事に費やしてしまった。

しかし政子の側に尾花が常にいてくれたことでそれはそれで楽しかったし、何より自身の置かれた状況を悲観し嘆いても腹が膨れる事は無いのだ。


しかし、国衛がこちらの世界にやってきたときからなんとなく自分の中で流れていった時間について考える時がある。

特に5年も経てば姿形も変わるはずで、国衛の当初の探るような態度も納得である。

何せ、年下の幼馴染がいつの間にか自分よりも歳を重ねていたのだから国衛もさぞ驚いただろう。


だが政子としても、幼馴染が記憶にあるそのままの姿形でこちらの世界に現れたのは驚きだった。

国衛が中学生に上がる頃にはまともに会話をすることもめっきり少なくなっていたので、正直小学生の頃より上の印象は薄い。

会話があったとしても、たまたま近所で姿を見かけた時に軽く挨拶を交わす程度だったはずだ。


それがまさかこの世界の同じ屋根の下で暮らすことになるとは……。

人の因果とは分からないものだ。


政子がバート・フリーゲン・クライフの書斎へとやって来たのはその幼馴染が理由である。

何時までもあの様に遊ばせておくわけにはいかないのだ、とにかく何でもいいから仕事をさせてこの世界に馴染ませねばならない。


……昔は、もう少し頼りがいがあった気がするんだけどなぁ。


「マサコ、どうした?」


そこで政子ははっと意識を現実に引き戻した。


政子はバートの書斎の一番上手、バートが座るデスクに対面して椅子に腰かけている。

そこでバートがやってくるまでの時間、手持無沙汰にぼんやりとしていたのだが、どうやら少々深いところまで意識が落ちていたらしい。


バート・ クライフは椅子に腰かける政子の顔を覗くように伺っていた。

白く染まった髪を後ろに撫でつけるように整え、皺の入った掘りの深い顔。

思慮深さと知性と経歴がその皺の一本ずつに刻まれている様であり、しかしそれらを覆い隠すように朗らかな笑顔を政子へと向けている。


政子は慌てて佇まいを正す。


「本来であれば自宅へ招くのが筋なのだが、商館でやることがあってな。わざわざこちらへ足を運ばせておきながらお前に退屈な時間を過ごさせてしまったようだ」


バート・クライフは顔に皺を寄せて笑うと自分のデスクへと腰かけた。


「あ、いえ、突然お呼び立てしたのは私の方ですから。こちらこそすいません、お忙しい最中せっかく時間を割いて頂いたのにとんだ失礼を……。」


政子は肩をすぼめて頭を下げた。


最初からとんだ失態である。


商業ギルドの元締めであるクライフ家当主バート・フリーゲン・クライフとは言ってみればこの街の国家元首のような存在である。

建前としてはこの街の自治・運営は商業ギルドに所属している有力商人や職人の合意で決定している。

しかし、実際はこのバートがその方針のかじ取りを行っているのだ。

ただでさえそんな人物を前に粗相をすれば、それだけで冷や汗ものである。


「マサコ、頼むから私に対してそんなに恐縮しないでくれ。何時も言っているだろう?私の事は自分の父親だと思って接してくれと」


「あ、はい、その、恐縮です。」


そこで政子は自身の発言をすぐに取り消したい衝動に駆られた。

出だしからもうグダグダである。


この世界にも随分と慣れたと先ほどは思っていたが、しかしバートという人物には何時まで経っても慣れない。

それはバート個人の人格について何か政子が気に入らない部分があるとか、何か脅迫めいた事を言われているだとかそんな事が理由では無い。

むしろ、バートにはこの世界に来てから今日まで様々な事で面倒を見て貰っており、その事に対する恩義について語る言葉が思いつかない程である。

この世界での一番の幸運は、バートに目を掛けて貰えた事と言っても過言では無い。

多忙である日々の中、政子の相談の為にこうやって時間を割いてくれている事についても感謝の念は尽きないわけである。


「お前は私が手を差し出さなければ誰も頼ろうとせず一人で頑張ろうとする。そんな政子が今日は私を頼ってここまで足を運んでくれたのだから父としてこんなにうれしい事も無い、娘の為に何よりも真っ先に時間を割くのも当然だろう?」


デスクの向こうのバートは好々と笑顔で政子に話しかける。


「その様に言っていただけると私としても大変気安い気持ちになります。お心使い重ねてありがとうございます。」


政子は深く頭を下げつつ、心臓に冷や汗を拭うように小さく深呼吸した。

気安い気持ちと言っておきながら、ずいぶんとお堅い口調になってしまった。


しかしあの好々と笑顔を見せられた時、政子は一番緊張する。

もっと具体的に言えば、朗らかで陽気な笑顔の奥底に身を切るほどに冷たい顔をバートが持っていることが恐いのだ。


自身にとって不要な物や障害にも政子に向ける笑顔と同じ物を向けながら、腹の底ではいかにそれを排除するか常に策を巡らしている。

表と裏の顔をまるでコイントスでもするかのように使い分けるバートの底知れ無さは未だ慣れる事が無い。


政子の堅い態度にバートは苦笑しながら手を揉んでいる。


「それで……頼みと言うのはお前の新しい同居人についてか?」


バートの何とない一言に、政子は拭ったはずの心臓の汗が再び流れ落ちるのを感じた。

これだからこの人は恐ろしいのだ!

私を娘と思っているなら、恐縮するなと頼むなら、父と思えと願うならば、先ずは娘のプライバシーを尊重して欲しい物だ。


「そこまで事情をお察しとは……。」


最早返す言葉も無い。

政子は驚愕のあまり口が開いたまま塞がらない。


「いやいや政子よ、勘違いしないでくれ。ここ2週間前ほどに現れた怪しい黒服の浮浪者と、その居候の特徴が報告と似ていたからひょっとして思っただけだ。私だって年頃の娘の日常を監視するような下世話な趣味は持ち合わせていない。」


政子の表情が驚愕を通り越して狼狽の域に達しているのをバートは見て察したのか両手を振りながら慌てて釈明する。

だが、国衛は政子の家にやって来てから今日まで、まともに外出すらしていない。

そのような状況で、政子の家に転がり込んだ居候の事をどうやって知り得たのか怪しい物である。

しかし、そこまで察しているのであれば政子が何を頼みに来たのか大方予想もついているのだろう。


「あの、それでそのおに、じゃない!居候の事なんですが……。」


政子はバートの顔を伺いながら恐る恐る尋ねる。

バートは頷きながら表情を幾分真摯な物へと変える。


「私の幼馴染なんです……。」


政子の一言にバートは言葉を飲んだ。


「それでは随分と遠くからお前を訪ねてきたという事か、いやはや……。」


政子はバートに対して、自分は砂漠や山岳を越えて遙か東にある巨大な大陸のさらに南東に位置する弓状の島国からやって来たと答えている。

もちろんそれは日本の事であり、この世界に同様の島国があるのか、そもそもこの街から遙か東にタクラマカン砂漠の様な砂漠や中国の様な巨大な大陸や国家があるのかも怪しいのだが。


バートとしてはそんな遠路からはるばる政子を訪ねてきた国衛に驚嘆しているのだろう。


「それで彼がこの街に来た目的は?ひょっとして……お前もしくはマスター・オバナを連れ戻しに来たとでも?」


バートの顔が少し険しくなったのを政子は見てとった。

今度は政子が慌てて釈明する。


「いえ、そのつもりだったんだけどそうじゃなくなったというか……そんなつもりじゃないのにここに来てしまったというか……ともかくしばらくはこちらにいる予定です。」


政子はそこで唾を飲んだ。

色々あったがようやく本題に入れる。


「ついては、仕事の斡旋をお願いしに来たのです。」


……。


しばらくの沈黙の後、険しかったバートの表情がふいに崩れたかと思うとそのまま大きく笑い始めた。


「そうかそうか!いや、お前が相談してくるとあって何か深刻な問題でも起こったと思ったが、そうか居候仕事の斡旋を頼みに来たとは!幼馴染と言うよりは息子の面倒を見ているようだな。」


「あ、あの、ひょっとしてこの様な些事に時間を割かせてしまった事に不愉快な思いを‥…。」


政子は突然笑い出したバートに当惑した。


バートは笑いながら手を振って否定する。


「いやいや、そうじゃない。」


バートはひとしきり笑った後、目元を拭きながらまたあの朗らかな笑顔で政子の方を見つめた。


「確かにお前の家の居候、それも幼馴染とあってはお前にとって深刻な問題であることは確かだ。仕事の斡旋については……」


そこでバートの書斎にノックの音が響き渡る。

話を遮られたバートの顔がまた、少し険しくなった。

不愉快そうにデスクに置いてある鈴を鳴らし、入室の許可を出す。


書斎の戸が開き入室してきたのは、バートの秘書官エルマ・コリングという女性だった。

異国風の褐色の肌を黒くタイトなパンツと白いブラウスで包み、その上から皮の黒いベストを着用し、黒く艶やか髪を後ろで纏めた男装の麗人である。

特に印象的なのが左目にかけた片眼鏡、これがいつも無表情でシリアスな彼女の雰囲気を一層強めている。


「この時間は大事な御客があると言っていたはずだが?」


バートは入室してきたエルマへ険しい表情のまま視線を移す。


「申し訳ございません、しかし火急の用件にて。」


エルマは政子を一瞥すると、そちらへ深く頭を下げバートのデスクへと近寄った。

バートも来客中にノックの音がしたという事は、それが火急の用件であると承知しているから入室を許可したのだろう。

それでもバートが不愉快そうに険しい表情をしているのは、つまり来客への配慮である。


「貴女との大事な話を突然の用件で遮られて大変不快な思いをしています」という態度を来客に示すことで、多少でも来客の気分を和らげようとしているのだ。

エルマはバートの傍に近寄ると何か耳打ちをしており、時折バートが頷く。


政子がその様子を伺っていると、バートと目が合った。

するとそれまで険しかったバートの表情が途端に笑顔になり、政子は引きつった笑顔を返す。


エルマの耳打ちが終わるとバートは席を立った。

そして、政子へ顔を向けると顔を顰めて頭を下げた。


「すまない政子、中央広場の方で何やらもめ事が起こっているらしくてな。いや、大した用件では無いのだが……どうにも私が出なければ話が纏まらないらしく……いや、大変迷惑な話なのだが……」


深々と心底申し訳無さそうに謝辞を告げるバート。


「いえいえ、とんでもないです!私事でお呼び立てしたのは私ですから!それに火急の件となればバート様こそ私に構わずお急ぎになられた方が。」


政子も慌てて言葉を返し、広場へ急ぐように促す。

政子の様子に苦笑しながら、バートはエルマが渡す上着を羽織り書斎の戸へと向かう。


「いや、本当ならこの後昼食でも一緒にと思って用意させていたのだが、お前だけでも先に食事をしてると良い。それと幼馴染の件は私に任せておけ。」


それだけ言うとバートは書斎から出て行った。

政子は書斎の戸へと視線を移し、誰もいない事を確認した後に肩の力を抜く。

すると、突然書斎の戸が開く音が後方から聞こえ、政子は反射的に席から立った。


「それと、”バート様”はよしてくれよ。」


それだけ言うとバートは再び書斎の戸を閉めた。

しばらく放心していた政子だったが、急に腰の力が抜けるのを感じその場へとへたり込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る