黒坂政子

尾花が部屋から出ていく。

すると入れ替わりで政子が入ってきた。

両手に湯気の立った土鍋を持ち、先程と同じように臀部でドアを開ける。


その様子を俺は茫然と見ていた。


「お待たせ」


政子は尾花が使っていたサイドテーブルの上に土鍋を置いた。


「麦粥、なんかの乳ちちでも入れてオートミールにした方が栄養があるけど、クセがあって好き嫌いあるから。」


乳と言う言葉を聞いて、反射的に政子の胸元に視線が移ってしまう。

コルセットの付いた紺色のロングスカートと白いブレザーというシンプルな出で立ち。

だが、コルセットによって細く締められた腰と服装のシンプルさが相対的にブレザー越しの大きな膨らみを強調する。


……しつこいようだが本当にこの人は政子なのか?


俺の知っている政子はもっとこじんまりとしててちんちくりんでたわいない感じで……。


「食べないの?」


政子がまつ毛の長い目を訝しむように細めて見返してくる。


「あ、はい、いただきます。」


視線に押されるように俺は土鍋の蓋を開けた。


土鍋は生暖かい湯気を俺の顔全体に吹きかけ、俺の視線を遮る。

俺は匙を手に取ると、曇った視線の先にある暖かく麦の香り立つ粥を口に運んだ。

腹が減っていたのだろうか、麦の優しい甘みが口いっぱいに広がって行くのが分かる。


「美味しい?」


「……うん。」


「体に良い物を美味しい不味い関係無く一緒に煮たからどうなるか分からなかったけど、良かった美味しいって言って貰えて。」


そう屈託なく笑う政子を余所に俺は無心で粥を口に運ぶ。


それからしばらくは無言の時間が続いた。


時折、土鍋の底を匙が叩く音がするのみ。

何処となく互いにけん制するような空気が部屋の中を漂う。


「……お母さん、心配してた?」


会話の火口ほくちを切ったのは、政子からであった。

俺はそこで匙を口に運ぶのを止めた。


「帰りがあんまり遅いから警察呼ぶって言ってたらしい。俺の母ちゃんがそれ聞いて俺も探しに行けって言うくらいだったし。」


そしてまた、俺は口に匙を運ぶ。


……認めよう、俺は政子が話しかけてくるのを待っていた。


確かに腹も減っていた、だから食う事に必死になった。

しかし、久々に話す幼馴染とどんな会話をすれば良いか分からなかった。

しかも見た目が全然違っており、なんとなく緊張する。


それと腹立たしさもあった。

政子にあたった所で今の状況が好転するわけでもなく、直接の原因が政子ではない事も尾花から説明を受けているのに感情だけが先走ってしまう。


そうやって複雑に絡まった自身の感情を一つ一つ処理していくのが億劫にも思えた。

だから、なんとなく政子を見ずに俺は粥にだけ意識を集中していた。


相手が話しかけてこざる得ない状況を作る自身の姑息さが嫌になる。


「そうだよね……ごめん、お兄にも迷惑かけて。」


「いいよ、別に」


本当は全然良くないのだ。

しかしこの状況で政子に大声で当り散らせばその分だけ自分が惨めになることも分かっている。


「私ね、マスターの屋敷に良く出入りしてたの。私が小っちゃかったころ逆上がりの練習するって言ったことが有るじゃない?あの頃から」



政子は手の平を見ながら懐かしそうに話を始めた。

俺は既に粥の入っていない土鍋を匙で軽く叩きながら話を聞いていた。


「あの頃、早くお兄たちの仲間に入りたいって毎日ずっと逆上がりの練習しててさ。まさかお兄達がそのあと屋敷に興味失くしてたことも知らずに。」


政子は可笑しそうにクスクスと笑う。

もっと言えば、俺だって勝手に周りが興味を無くしていたのだ。

そんなことを思いつつ、俺は黙って政子の話を聞いていた。


「それである日ね、いつものように逆上がりの練習しにあの公園行ったら屋敷の窓に人影が見えて、屋敷に住んでる人かどんな人かお兄たちに言えば私も仲間に入れて貰えるって慌てて屋敷に走ったんだ。」


しかし、政子が屋敷に着いた時には窓にはもう人影は無かった。

中に入ろうにも門に鍵が掛かって入れなず、政子は屋敷の前でしばらく途方に暮れていたらしい。

目の前に転がったチャンスをみすみす逃してしまったのだから、往生際悪くチャンスの痕跡に縋り付きたくなるのは分かる。


「そしたらその様子を見かねたんでしょうね、屋敷の中から出てきたのがマスターってわけ。」



「久住尾花さんだっけ……今の見た目から考えたらその時はハイハイしておむつ履いて無きゃおかしいよな。」


政子は俺が自分の話にようやくリアクションを取った事に一瞬顔をほころばせた様だった。


「出会ってから10年以上経つけどマスターはずっと変わってない。こっちの世界に来る前も来た後も見た目も中身も。あの見た目みたでしょ?女性なのにずぼら丸出しの格好、アレで性格も魔術や科学以外の事には無頓着でズボラなの。おかげでこっちきてから私がどんだけ苦労したか……」


政子は苦笑いする。


久住尾花、あの怪しい洋館の主がまさかの女性、いや少女だったことには驚いた。

しかも、見た目だけ見ればランドセルを背負っていてもおかしくない。

ボサボサの髪に、人相の悪い隈をこしらえた座った目付き、薄汚れたローブを纏っている。

その情報だけでなんとなく男性をイメージしていた。


「それから度々マスターの屋敷に行っては、占いのやり方とか良く分からない魔術や科学の話を聞いてたってわけ。聞いた?あの人、魔術師なんだよ?」


「本人は真理探究者なんて良く分からない事言ってたけどな。それにあの人の存在自体が魔法みたいで良く分からんね、見た目と発言が噛み合ってないつーか……」


俺の言葉に政子は笑っていたが、ふと自分の指をなぞると物悲しげな笑みを浮かべる。


「私は……大分変っちゃってるよね。」


政子はその笑みを俺に向けて問いかけてきた。


俺は返答に困った。

外見はだいぶ変わっている、最初見た時は正直、その、少しドキドキした。

無論、政子の前でそんな事は口が裂けても言えない。


内面については正直分からない。

何せまともに話をした記憶など向こうの世界にいた時ですら数年は前の話なのだ。

それからさらに5年、政子がどこまで変わったのか。


「まぁ、うん、割と。」


返答に窮したとはいえ、曖昧な返事しか出来ない自分が何とも情けない。


「そっかぁ、まだまだ子供っぽいとこあるのか。もう十八になるし自分ではだいぶ大人になったとおもうんだけどね。」


「知らない間に俺よか歳食ってんのかよ。」


政子は俺の言葉に驚いた顔を見せた。


「え?お兄、今いくつ?」


「十六。」


「うっそ!?え、じゃあこれからは私の事、お姉ねえって呼んでくれるの?」


「お前が気持ち悪いって思わなきゃいくらでも呼んでやるよ。」


俺がそういうと政子は腹を抱えて笑っていた。

それも目に涙を浮かべてるほどに。


……多分、笑い過ぎで出た涙ではないのだろう。

しばらく笑っていた政子だったが、その笑い声は段々と小さくなってゆき、しまいには顔を埋めて鼻をすする音だけが聞こえてくる。


こんな時、例えば年上の男だったら頭の一つでも撫でてやれば良いのだろう。

しかし今の俺にはそれが出来ない。

政子がいつの間にか自分よりも年上になっていたとかそんなことが理由では無い。


何せ俺も泣いていたからだ。


政子の話を聞いていると、今まで蓋をしていた感情が意識の表面へと登って来た。

政子の境遇への同情か、これからの生活への不安か、こちらに来て碌な目に合っていなかった処で知り合いに会えた安堵感か、ようやくまともな飯が食えた満腹感もあるかも知れない。


ともかく緊張していた感情の糸が切れ、涙が出てきてしまった。


俺が鼻をすする音に反応したのか、政子が顔を上げた。

政子の顔は目と鼻が赤く腫れており、その顔をさらに握った紙の様にしながら笑っている。


「なんでお兄も泣いてんのよ。」


俺も政子と同じような顔をしているのだろうか。

そう思うと少し恥ずかしくなって政子から顔を背ける。


「さっき食った粥さ、旨いって言ったけど、塩気が薄くてさ。」


俺は気恥ずかしさから話題を逸らした。


「え、じゃあひょっとして無理して食べてたの?」


「いや、その塩気が今頃出て来たんだよ。」


俺は泣き顔を見せまいと必死で取り繕う。

その様子を見て政子はまた腹を抱えて笑っていた。

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