3章 子供の噂
第14話 子供の噂・A
季節は梅雨の時期に移り、二度の比較的大きくなった妖怪事件の記憶が世間から薄れ始めた頃、イーリスではひとつの噂が持ち上がった。
「着物の女の子?」
丁奈の疑問に美樹が激しく首を縦に振った。
「そう、そうなんですよ、今時そんな子、居ますかね」
「いなくはないんじゃないかしらー?」
とは言え今は正月でも、ひな祭りでも、ましてや端午の節句もとうに終わって特に何もない六月という時期に、子供にそのような和装を施すような家庭があるのならばそれこそ日常的に見ていてもおかしくない。
しかし全くいないのかと言われるとこれも否定されてしまうもので、丁奈としてはこう答えるしかできない。
「そうですかねぇ……そんなもんなんですかねぇ」
「まぁ言いたいことはわかるけどねー、あ、おかわりいるかしら?」
「いえいえそこまで甘えるわけには……ただでさえ結構奢ってもらっちゃってますし」
美樹は先月の事件以降イーリスに通うようになり、この日は龍五郎と小虎は学校で部活動の活動報告会に参加しており、ルインは小林に呼び出されて先月の事件に関しての追跡調査について報告をしに行っていて、今この場には丁奈と美樹の二人だけである。
イーリスは繁盛していないわけではないのだが、この日は生憎強い雨が降っており客足が遠のいてしまったので店内は寂しい。
「うーん、今日の雨ってこんなに強くなる予報だったかしらねぇ、今日は食材を仕入れちゃってるから勿体無くなるわ」
「食材って仕入れる時と仕入れない時があるんです?」
「そうね、必ずこれを頼む!っていう常連さんが来るのがわかっている日は基本的に仕入れているけど、たまに新しいメニューを作りたくなって仕入れたりするのよ」
「それで皆に試食してもらおうとか思って仕入れたんですか?」
「そうなのよー、それがこの雨でしょ?」
そう言って丁奈はイーリスの外へと視線を移すと……。
「あら?」
着物を身につけた少女がまっすぐと丁奈を見ているのに気づき、目があったところで走っていってしまった。
「どうしたんです丁奈さん」
「んー……見間違いじゃなければ、美樹ちゃんが言ってた子が今そこに居たのよ」
「え!?」
慌てて美樹が振り返るが、イーリスの外は強い雨がガラスに打ち付けている光景しか見えない。
「うぉぉぉ……私も見たかったぁぁぁ」
「美樹ちゃん、先月風太郎に酷い目に合わされたのに首を突っ込むのね……まぁ流石に妖怪とかじゃないとは思うけど……心配ね、こんな雨の中であんな子が外で傘もささずにいるなんて」
「……いや丁奈さん、流石に傘はさしてないとおかしいんじゃ、こんな雨の中ですよ」
イーリスのガラスを叩きつけるような音を出している雨の音は更に強くなってきていて、この雨の中来店した美樹としてはその雨の強さは実感として意見の中に含まれている。
そんな美樹のなんとも言えない表情を見た丁奈は……。
「よし、ちょっと見てくるわね。あぁこれはおかわりよ、お店を見ててもらう私からのお礼で飲んでて頂戴」
「え、ちょっと丁奈さん!?」
美樹の驚く声を受けながらも丁奈は手早くレインコートを羽織り、傘を二本持ってイーリスの扉を開けて。
「それじゃあ行ってくるわねー」
軽い口調で外へと出ていった。
「さてあの子は……」
イーリスから勢いよく飛び出てきたのはいいものの、一瞬見ただけの女の子の行き先など皆目見当もつかない。
「うーん、あの格好だし目立つと思うのだけれど……」
しかしこの雨の中、少女をひとりにしておくこともできないので、仕方ないがイーリスの近辺だけ歩いて探すことにすると、丁奈は持っていた傘を一本さして歩道に足を出した時……。
「あら丁奈、今日普通に営業中じゃなかったのかしら」
雨に対しての完全防備体制なルインが今から向かおうとしていた方向から歩いてきたのだ。
「ルインちゃん、このくらいの着物の女の子見なかった?」
「見てないけど……じゃあその傘はその女の子?」
「えぇ、傘をさしていないように見えたから」
「見えた?」
「お店の中から見えたから」
ルインは丁奈の言葉を聞いて少し考えるような素振りをしたあと。
「この雨で子供が傘をささずに、ひとりで居たっていうこと?」
「確認したのは一瞬だったけど……心配でしょ?」
確かに心配だ。とルインは思ったが……。
「普通の人の子なら、ね」
ルインがそう言うと丁奈は。
「妖怪でもこの雨は、水関係の子じゃないと辛いでしょ」
「……まぁそうね、こんな雨だもの雨降らしや河童くらいなものかしら」
他にもいるけれど、丁奈から聞いた少女の風貌を想像してみてルインはそのどれとも該当しないことは理解していた。
とは言え雨は更に強さを増していて既に横殴りのものへと変貌しており、ルインの顔色もみるみるうちに悪くなっているのを見て丁奈は少し悩んでから。
「うーん、でもこのままだとルインちゃんが雨で倒れちゃうわね……一度お店に戻りましょうか」
「それで問題ないと思うわよ、本当に子供だったとしたら警察のお仕事、そうでなくても小林さんのお仕事だから。まぁ機会があれば私も関わることになるでしょうし、その時には丁奈にも話題を振らせてもらうわ」
体調がみるみる悪くなりながらもルインはそう言って丁奈の肩に手をおいてそう言った。
丁奈としても親友であるルインがこうまでして体調を崩してしまっている以上、心配を向ける相手が代わり、ルインの手を握って。
「えぇ、それを待つことにするわ……とにかく今はルインちゃんの体調が心配だもの」
ルインには吸血鬼の血が流れており、先祖返りでその傾向がより強く出ているため吸血鬼としての弱点も何かしらの形で現れたりするのだが、ルインのそれは流水が苦手……というレベルではなく、雨に打たれた場合人以上に体力を消耗していくのだ。
そういうことで可能な限り雨天時は屋内に引き込もれるように色々と調整していたのだが、小林が書類を作るのを忘れていたために塗壁騒動の書類の期日である今日、関わった民間協力者として警察署に赴かなければならなくなったのだった。
「もう、小林さんも早く終わらせておいてくれればよかったのにね」
「あの人は書類仕事がギリギリなのはいつものことだから……でもまぁ、今日のは後日精算してもらおうとは思っているけどね」
唇から色が消えつつあるルインは冗談のようにそう言って丁奈に寄り添うように近づいて笑い、丁奈もそんなルインを抱くようにしてイーリスへと戻った。
そして強くなる雨の中、イーリスへと戻る二人を見つめる小さな瞳があったことを、この時の二人は気づくことはなかった。
「優しいね、いい人達」
その声は雨音に消え入る程度のもので二人には聞こえることはなかったが、その声の主は雨に紛れて現れた白いモヤと共に街の中へと消えたのだった。
「ただいまー……美樹ちゃんごめんなさいねー、もう少しお店のお留守番お願いするわー」
「おかえりなさってルインさんどうしたんですか!顔真っ青じゃないですか!あ、ルインさんの介抱ですね、分かりましたもう少しお店見ておきますね丁奈さん!」
今にも倒れ込みそうなルインとは違い、オレンジジュースを飲んでいた美樹は元気に返事をしたのを確認してから丁奈は自室にルインを運び込み、自分の服に着替えさせた。
「ごめんなさいね、ルインちゃんと私の体格は似ているとは言っても、あまりいいお洋服がなくて……」
「いや別にいいよ……というかまだジャージ持ってたのね、部屋着?」
「お洗濯ができない時の、ね。それよりも暖かいものを持ってくるから、おふとんに入っていてね」
本当ならお風呂、そうでなくても暖かいシャワーなどが適切な処置ではあるのだが、湯船に常にお湯を張っているはずもなく、シャワーに関してはルインにとって苦手な流水であるためにそちらの処置が取れなかっただけである。
そのことはルインも承知しているし、丁奈も、暖かい飲み物を用意するのと並行して湯船にお湯を張ろうとしているのだったが……。
「うーなんかこの雨ひどすぎますよー……」
丁奈が部屋から出ようとしたところで小虎が部屋に入ってきてしまった。
「あ、丁度良かったわ小虎ちゃん、お風呂入れてきてくれないかしら」
「え、なんでです?私なら……ってルインさん大丈夫ですか顔真っ青ですよ!」
どうやら小虎は裏口から入ってきたらしく、美樹とは会っていなかったらしい。
そしてルインの顔を見たことで理解したらしく。
「分かりました、お風呂入れてきます!」
そう叫ぶように答えて小虎はバスルームへと走っていった。
「走ったら危ないわよー」
小虎に子供に対して使うような言葉を言いながら、店の方に戻ると龍五郎と美樹が話しているところだったが、丁奈は軽い挨拶をしてコンロの電源を入れて水を入れたやかんをおいてから。
「龍五郎君、申し訳ないけどお風呂とかは後にしてもらっていいかしら、まずルインちゃんが入らないといけないから……」
「あ、はい別にいいですけど……ルインさん体調崩したんですか?」
「ルインちゃんは流水に弱いから」
「あー……」
龍五郎は今の丁奈の言葉で理解したようで、それ以上何も言わずにロッカールームへと入っていった。
「え、流水に弱いってなにそれ吸血鬼とかみたいじゃない」
一方美樹のほうはルインが吸血鬼の血が流れていることを知らないのでケラケラ笑いながらそう言うが、誰も同意しない流れに。
「……え、違うよね?」
「それはルインちゃんが元気になった時に本人に聞いてね。それにしても雨、強くなってるわねぇ……」
美樹の疑問を流しつつ、丁奈は外に視線を移すと叩きつけるような雨は強くなって行くように思え、消していたテレビの電源をいれると丁度夕方のニュースの天気予報が流れてきた。
『このところ続いている雨ですが、気象庁の発表では週末には一度晴れ間があり太陽が顔を見せますが、その後もすぐまた雨模様になると……』
「あ、週末晴れるんですね」
「晴れるのは嬉しいけど……ちょっと異常よねぇ、いくら梅雨とは言っても流石に降り過ぎよねぇ」
この雨のおかげでイーリスには閑古鳥が鳴いているし、ルインに至っては今まさに体調を大きく崩すこととなったわけなので、丁奈としてみれば今降っている雨は少し疎ましい感覚になっている。
そして強くなる雨をみながら先ほど諦めた女の子のことを思い出して再び心配になってきてしまい……。
「うーん、やっぱりあの子を探しに行こうかしら。これ以上雨が強くなったら命に関わるかもしれないし」
ルインから心配はないとは言われたが、異常気象にも思える外の様子を見ていると丁奈はどうしようもなく不安になってしまう。いくら世話焼きだと自他ともに認める丁奈だったが、ここまで執着する理由は丁奈本人にも違和感を感じるようなものではあった。
「いやいやいや、流石にこの雨とか無理ですって、それにルインさんはどうするんですか」
「……そうよね、まずはルインちゃんを看護してあげないとなのに……なんでかしら」
あの少女を見てから色々と感情などが制御できていないことに丁奈が不安を覚えたところで、やかんからお湯が沸いたことを示す音が店内に響き渡った。
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