2章 塗壁の噂

第7話 塗壁の噂・A

「まったく……今日は遅くなっちまった」

 学校の日直業務を済ませた龍五郎は、バイト先である喫茶店『イーリス』を目指して走っていた。

 同じ日直であった同じクラスの女の子は何も言わずにいつの間にかいなくなっていたために龍五郎が一人で日直業務をこなしていたため学校を出る時間が遅れたのだ。

「小虎のやつに手伝ってもらえばよかったか……いや、あいつのことだから貸しだとか言ってケーキをワンホールくらい要求してくる……!」

 今この場にはいない幼馴染に対し、本人がいないからこそ言える愚痴を漏らしながら急いでいた……のだが。

「……あれ、こんなところに壁なんてあったか?」

 見慣れた……だけでなく通い慣れた道で、それこそ幼馴染とたわいのない雑談を交わしながらでも事故を起こさずに歩く自信すらある道で、明らかに不自然な場所に壁があった。

「いや、ありえないよな、道路の真上にある感じだし……昨日までこんなのなかった」

 龍五郎は考えるより先に体が動いてしまう幼馴染と一緒にいたことで、障害物の回避のために無意識的に周囲の確認をする癖が付いているのだが、その記憶の中には昨日、今目の前にあるような壁はなかった。

 いやそもそも、道路を完全に遮るような形で広がっている壁なのだ、それこそもっと大きな騒ぎになっていないとおかしいのだが……。

「そういや、この時間帯ならそれなりに人通りがあるはずなのに……」

 龍五郎が周囲を見渡すが、通行人はおろか周囲の家からも人の気配を感じられない。

 スマホを取り出し時刻を確認するも午後五時が表示されており、学生は帰宅時間帯で、多くの家が夕飯の準備のための買い物をしているような時間である。

「やっぱり……こいつが原因か」

 そう思って、道路を遮断しているように存在する壁に向かって手を伸ばしたが。

「うぉっと!?」

 触ろうとした瞬間、壁が消えて何事もなかったかのように周囲に人が増え始めた。

「……なんだったんだよ」

 周囲の人が龍五郎を見て笑っているのを確認して、龍五郎は恥ずかしい思いになりつつもイーリスへと小走りで向かった。




「それは塗壁でしょうね」

「ぬりかべってあの大きくて平べったい?」

「あぁごめんごめん、そっちは漫画、創作のほうだよ。私の言う塗壁はれっきとした妖怪の一種で、人を道に迷わせるいたずらをするやつのことだ」

 龍五郎が遅れたことで、幼馴染の小虎からは色々言われたが、今話しているイーリスの常連であるルインは丁寧に龍五郎の言い訳に答えてくれた。

「あー可愛いわよね、塗壁」

「可愛いって……あれが?」

 イーリスの店主である八ヶ岳丁奈は話を聞いて可愛いなどと言い出して、龍五郎は先ほどの壁を思い出しながら不思議な顔を向ける。

「そうよー、つぶらな瞳が三つのわんちゃんみたいだし」

「いや丁奈、多分今の龍五郎君の反応からすると文字通りの土壁のほうだ。しかしおかしいな、塗壁は元々九州北部の妖怪だからそうそういるはずはないのだけれど」

「え、ぬりかべって九州だったんですか!」

「そうだよ小虎ちゃん、まぁ大半の人が思い浮かべるのは創作されたあのはんぺんだろうから仕方ないが、伝承の多くは九州に集中している……まぁ中には東南アジアで見たなんて記録もあるけど、他の地域はそれほど多くはないかな」

 ルインにサンドイッチを出しながら小虎が驚くと、丁寧にルインは答えたが……。

「海外は私も初耳。ルインちゃん、それはどこなの?」

「ラバウル。パプアニューギニアね。大戦中に見た兵士がいるっていう眉唾なお話があるだけだから、私だって確証は持たないし、お祖父様だって知らないと思うわよ。まぁ私が見たその記録と、今聞いた龍五郎君のそれは内容がかなり違っているから除外していい」

「本当、ルインちゃんは詳しいわねぇ」

「同質の存在は覚えておくだけ覚えておけ。お祖父様の言葉だもの」

 そう言ってからルインはサンドイッチを口に運んだ。

 ルインの祖父への絶対的な信頼感はさておいても、龍五郎の知る限りではルインだけなので自分の身に起きたあの不思議な出来事について頼れる唯一の人物なのだ。

「でもそうねぇ、個人的に少し気になるから調べては見るわ。あぁでも何か起きたとしても自衛以外では本気出すのをしばらく禁止されてしまったから、皆はできるだけ首を突っ込むのは控えてね」

 ルインがこう言うのも、先日、とある事件が起きた際に真犯人だった野衾のぶすまという妖怪と対峙して圧倒的な強さで解決した吸血鬼なのである。

 このことはイーリスの従業員と警察のごく一部くらいしか知らない事実であるが、その先日の事件で大立ち回り……というにはこじんまりとした暴れ方ではあったものの、丁奈とルインのことを知っている警察の小林さんという人からルインはこっぴどく絞られたらしく、しばらくは吸血鬼として本気を出すことは禁止されてしまったのだ。

「でも今回は……」

「わかってるわ龍五郎君。今回はこちらから能動的に動いていないのにも関わらず遭遇してしまった。また遭遇してしまった場合は回れ右をして戻ってみたりしてみて。それで抜けられるようなら、私も少々考えないといけないし」

「抜けれたら、考えるんですか?」

 ルインは龍五郎の疑問に対して首を縦に振った。

「塗壁は元々人に危害を加えるような妖怪じゃないからいいのだけれど、何度も遭遇するようなら私から塗壁に関しての対策は教える。そしてね、もし塗壁じゃないのならその回れ右で逃げられるから、そうなった場合小林さんに連絡しないといけないから」

「人命救助の致し方ない状況だったと思うのですが……それでもダメだったんですか」

 ルインが吸血鬼として力を振るった理由は、龍五郎と小虎が野衾にさらわれてしまい、その救助のためであった。

「禁止されていたものを、報告もなしに使ったのだから仕方ないわよ。でもまぁ、私は後悔してないから龍五郎君はそんなに気にしなくていい」

「あの時は頭がぼーっとしてたんですけど、ルインさん格好良かった……と思う」

「お前はちょっとは気にしとけ」

「小虎ちゃん、格好良かったは私としてはあまり嬉しくないかな。格好いい名乗りこそしたけど相手はただの害獣だったからね、お祖父様が持っていた騎士称号を借りてまでやる必要はこれっぽっちもなかったから恥ずかしいんだ」

 ルインは照れながらそう答えると、紅茶を口にする……が、その手は少し震えていて照れているのを隠しているのが龍五郎から見てもわかったのだが、どうやら小虎にはそれがわからなかったらしくシュンと落ち込んでいる。

「それよりも丁奈、二人はもう上がりじゃないかしら。そろそろ7時回るけど」

「え!?」

 ルインが指摘し、丁奈が驚きながら時計を確認すると短針が七の文字を差しているのを確認して。

「ごめんなさい!二人とももう上がって大丈夫よー、でもどうしましょう、着替えたら更に遅くなっちゃうから送っていきましょうか?」

「いいわ丁奈、私が送っていく。誰かのために力を振るうのは禁止されているけれど、自衛のためなら許可されているから」

「あールインちゃん悪い顔してるわー。でもそうね、お願いしようかしら」

「じゃあ着替えてきます」

「あ、龍五郎が先に着替えたら私が遅れるでしょ!」

 イーリスの更衣室は男女共用である。

 というのも丁奈がそういうことに無頓着だったこともそうだが、元々が丁奈の住居だったものをリフォームしたため、更衣室というスペース自体を準備するという考えがすっぽりと抜け落ちていたのであった。

「小虎ちゃんは私の部屋で着替えてきていいわよー」

「いいんですか丁奈さん……じゃあお言葉に甘えて」

 そんな状態なので小虎は頻繁に丁奈の自室で着替えをすることが多かった。

 最も、その状況のおかげで小虎は丁奈の趣味なのについて色々と知ることができていることで姉妹のように仲が良くなってきている。

 知り合ってまだ二ヶ月程度のはずなのだが、丁奈と小虎の仲はかなり良好なのはいいのだが、龍五郎としては一人取り残されたような感じがして寂しくなる時もある。

「……まぁ、言えば丁奈のことだし一緒に着替えたりしてくれるかもよ」

「な、何言ってるんですか!」

「あら龍五郎君寂しかったの?」

「もういいですから!」

 二人にからかわれた龍五郎は恥ずかしさのあまり勢いよく扉を閉めた。

 その大きな音に対して二人は笑顔で丁奈に至っては舌を出していたが、それなりに大きな音だったために着替え途中の小虎が出てきて。

「今の音って何があったんです!?」

 小虎の姿は上だけ下着姿であったことからルインはイーリスの出入り口を、丁奈は更衣室の前に驚くほどの速さで移動して扉に鍵をかけた。

「なんでもないわよー。それよりも小虎ちゃん、女の子なんだからその格好で表に出てきちゃダメよー」

「え……あ!ご、ごめんなさい!」

 丁奈に指摘された小虎は自分の体を抱くような形で急いで下がっていった。

 そして残された二人は……。

「それで、ルインちゃんは今回本当に塗壁だと思う?」

「さぁ、確認しないとわからないわよ。一応私の中で思いついているのだけでもそれなりの数がいるから」

「そんなに塗壁の逸話ってあるの?」

「北九州だけでも五つくらいあるわね、北陸にも残っているし……それこそ逸話だけならニュージーランドにもあるわけだからね。聞いただけで特定できるようなものではない。ただ私としては今回の件は本物じゃない気はしてる」

「そう言うってことは根拠があるってことよね」

「そうね……ただ確証でないのは同じだから今は丁奈にも教えてあげない」

「えールインちゃんの意地悪!」

 そういうルインも実際のところこれだ。という確証がなく、塗壁と一言で言ってもそれに該当しそうな逸話が多すぎて特定できていないのだ。

「何が意地悪なんです?」

「あ、龍五郎君聞いてよールインちゃんが塗壁について教えてくれないのー」

 着替えを終えて制服を来た龍五郎が出てくると、二人のやり取りの最後の部分に対して質問をすると丁奈がそんなことを訴え始めた。

「心外な。私としては確証じゃなきゃ言いたくないってだけでしょうに」

「あぁそういうことですか。なんかすみません、俺が変な話題を始めちゃったばかりに」

「あぁいや龍五郎君は悪くない。丁奈が悪戯心を出しただけだから」

「うふふ、さっきのお返し。でもルインちゃん、わかったら教えてね」

「それはそのつもりだから安心しなさい」

「そういえば小虎の奴はまだです?」

 龍五郎の自然に出てきた疑問に対して二人は苦笑し、丁奈の部屋の方に視線を移した。

「まぁ、女の子だからね」

「女の子だからな」

「いやわからないんですが……」

 明らかに別の理由であることと、この場の唯一の男性として龍五郎は首を傾げた。

 おしゃれをするにしても既に夜と言って差し支えない時間であるし、幼馴染として長いあいだ一緒に居たが、自分の幼馴染はその辺に関して無頓着なのを知っているし、何より今朝登校する時に小虎の母親から少しは化粧でもしろと言われていたのを覚えているのだ。

「お待たせしましたー」

 龍五郎が頭をひねっているところに少し頬を赤らめた小虎が私服に着替えて出てきた。

「いやなんでお前私服なんだよ……」

「……今日スポーツテストだったから汗かいたのよ」

 普段ならそんなことを気にしないだろう。

 龍五郎がそれを口にする前に動いたのはルインだった。

「まぁ、揃ったのなら帰りましょうか」

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