破瓜

勢いに任せて来てしまったものの、何か話す事がある訳では無かった。ドアの前には、『橘教員室』と書いてある。橘 侑羽、名前だけなら何度も聞いたことがあった。学生達から『ゆうちゃん』という渾名で親しまれている、評判の良い物理教員だ。とりあえず、死のうと思った原因でも話しておこうか。ドアを叩く。軽快なノックの音が響く。明快な返事が聞こえてくる。少女は、部屋のドアを開けた。


「早速来ましたか、早くないですか?」

「先生が来いっておっしゃったんですよ。」

「来ればいいとは言いましたが、来いとは言ってませんよ。それで、何を話しに来たんですか?」

「死のうと思った原因について、お話しようと思いまして。今まで誰にも話した事が無かったので、今日初めて話した人に言うのもおかしいとは思いますが。」

「ほう、何で私に話そうと思ったんですか?」

「何となくですよ。さあ、今から私が話すので黙っていてください。」



少女はその日、学校から家に帰るのが憂鬱だった。朝、いつものように支度をしていると、情緒不安定な彼女の祖母がヒステリーを起こしたからだ。

「お前!!!何で私がこんなに苦労してるのに!!!!帰ってきたら殺してやるからな!!!」

殺す、だなんて脅し文句を祖母から言われるのは、彼女にとって何度目だろうか。本当に殺すつもりなら、もうとっくに殺されているだろう。だが、帰るべき場所にいる家族にそんな事を言われるのは、まだ1人で生きていく術を持たない彼女には酷であった。

家に帰りたくなかった少女は、寄り道という選択肢を選んだ。学校の帰り道にあるゲーセンへ向かう。いつからか、学校帰りは門限を破らない程度に寄り道をするのが、習慣になっていた。

真夏日、クーラーが効いているはずなのに溶けそうなほど暑いのと、人が多くて蒸し暑いのとをソーダ水で誤魔化しながら音ゲーの待ち椅子で順番待ちをしていると、ふいに飴を差し出された。顔を上げると、見知らぬ男が少女をじっと見ている。

「あげる」

拍子抜けした。

「えっ、あっ、ありがとうございます」

「そんなにびっくりしないでよ。俺、別に変な人じゃないから。」

そう言って、男は少女の隣に座った。怪しい人のようにも感じたが、話し方からして、少女は彼を悪人のように思えなかった。

「いつも来てるよね、家の人とか心配しないの?」

「門限とかそういうの緩いので…」

反射的に嘘をついた。少女は大人を信用出来なかった。


彼女が中学生のとき、同じように祖母に殺害予告をされ、家に帰るのが憂鬱だった。誰も残っていない教室で、1人で掃除をして残っている彼女に、彼女の担任が声をかけた。やっと自分を救ってくれる人が現れたと思い少女は喜んで、全てを話した。すると、担任は職員室へ向かっていった。

「ちょっと待っててね。」

しばらくすると、担任が戻ってきた。

「さっきお家に電話かけたんだけど、おばあちゃんもう怒ってなかったよ。殺すって言ったのも冗談だって。はやく帰って仲直りしてね。」

そう言って微笑んだ。偽善者の笑顔をしていた。この人に話したのは間違いだった。死ね。はやく死ねばいい。下手に刺激したら本当に殺されるかもしれないのに。お前が私の代わりに帰って私の代わりに死ねよ。どす黒い何かが私の中を渦巻いた。

「ありがとうございました。帰って、祖母とちゃんと話してみようと思います。」

心の内を必死に掻き消した。

家に帰ると、早速祖母に怒鳴られた。家の外に締め出され、風邪を引いた。当然、学校を休ませてもらえるはずも無く、熱を出した重たい体を引きずって登校した。担任は何も言ってこなかった。

それ以来、元々信用していなかった身内の大人に加え、学校の先生、近所の住民も信用出来なくなった。中途半端に下手なお節介を焼かれて、大事な時には皆見捨てていく。救われたつもりになって裏切られて、そうやって心を壊していくくらいなら、もう誰も信用したくなかった。


「それ、嘘でしょ。」

「えっ…?」

見透かされたような気持ちになった。

「本当は家が大変とかなんじゃないの?暴力とか暴言とか。だから帰りたくないんじゃないの?違ってたらごめんね。」

図星だった。別に助けてもらわなくてもいい。ただ、誰かに心の内を明かしたかった。全部は話せないけど、少しでいいから聞いて欲しかった。少しでいいから、本当の自分を晒け出したかった。少女は少しずつ口を開いた。男はそれを、時たま相槌を打ちながら静かに聞いていた。気が付くと、少し前までは沈み始めだった夕日は落ち切ってしまっていた。

「結構暗くなっちゃったから車で駅まで送って行くよ。」

「いや、申し訳ないですよ。」

「いいの、俺が話しかけたから遅くなっちゃったんだし。暗い中1人で歩かせたくないよ。」

「…ありがとうございます。」

男に連れられて駐車場に向かった。シルバーの、大きい車だった。

「お願いします。」

助手席に座る。

「喉乾いてない?さっき買ったんだけど、これあげるよ。蓋が固いからちょっと開けるね。」

少し蓋の開けられたジュースを差し出される。

「ありがとうございます。」

たくさん話していて喉が渇いていたため、一気に飲み込んだ。変な味がした。お酒だ。それも、かなりアルコール度数の高いもの。そう気付いたとき、少女の視界は少しずつ霞んでいき、やがて、見えなくなった。


目を覚ます。頭がガンガンする。ここは、車の中だ。後部座席のシートが倒され、フラットになっている。8月だというのに肌寒いと感じたところで、自分が何も身に付けていないことに少女は気付いた。股からは、鮮血が溢れている。自分の身に何が起こったのかを悟った。

「起きた?」

怖かった。だが、少女にとっては家に帰って殺されるほうが恐ろしく感じられた。血の繋がった祖母に折檻されることより、名前も知らない男にされるがままにされることのほうが、ましだと思えた。

「可愛いねぇ、こっちおいで。」

そう言って自分に触れてくる汚い男の手を、彼女は振りほどきたくても振りほどくことが出来なかった。

「ねぇ、もう1回、いいかな?」

そう言って男は少女を押し倒し、覆い被さった。下腹部に異物感を覚えた。既にそれを挿入されてしまったからなのか、それとも恐怖でそれどころではないのか、破瓜の痛みを感じることはなかった。少女は、自分に覆い被さり、腰を振りながら自らの欲望を少女の奥深くまで打ち付けてくるそれが、この世で1番滑稽で憐れで醜い生き物のように思えた。

どのくらい経っただろう。車の窓を叩く音が聞こえた。男が慌てながら窓の外を見ると、警察だった。

「お兄さん、ちょっと車の中見せてもらってもいいですか?」

助かった。この後、さらに惨めな想いをすることも知らずに、少女はそう思った。


「なんでついて行ったの、そんなに帰るの嫌だったかぁ…」

「考えてみてくださいよ。他に頼れる人がいなくて、唯一自分の面倒見てくれる大人に殺すとか言われたらどうですか?」

「うーん、まあ気持ちは分からんでもないなぁ。でも、もう知らない人とかについて行っちゃ駄目ですよ。」

「そうですね、時と場合によりますけど。」

「いや、ついて行くなよ。でも、ちゃんと警察に保護されて良かったねぇ。」

「いや、そうでも無かったですよ。」

「そうなの?国家機関に任せておけば安心じゃないですか。」

「寧ろその後のほうがトラウマなんですが…」

「そうなんですか。まあ話してみてくださいよ。」

「はい。」

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彼と彼女は不幸自慢と手を繋ぐ 小袖 @kosode_

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