禁断の化実

 化学実験、それは、およそこの世で考えうる最も残虐な行為だ。



 解析学の落単と少し前後する。このところ私は疲弊していた。

 それは中間試験であったり、あるいは時期的な理由もあっただろう。ゴールデンウィークが過ぎて、授業が本格化したあとの六月から七月というのは、休みもなく、ちょうど大学生が壊れてくる時期だ。さらに名治大学にはもう一つ、化学実験と呼ばれる悪習があった。

 それ・・は工学部の多くで必修であった。また理学部の志願者にも、行われるという。それは電気電子情報工学科においても、――化学など全くの専門外であっても――やはり必修であった。加えて落とせば実質留年であった。人々はそれを畏怖し、化実と呼んだ。


 化学実験はそれほど重くない、と五月ごろに言ったのを覚えている。あれは嘘だ。

 いや、嘘と言ってしまっては私の名誉に関わる。訂正しておこう。あれはまやかしだった。

 化学実験には三つの実験室が用意されている。学生はそれぞれに振り分けられてから、実験室をローテーションして一周する。そこでは有機合成・無機定性・光とその他、とそれぞれ異なる実験をすることになる。ここにタネがあった。

 私がはじめに割り振られたのは第三実験室だったか、忘れてしまったが、光学の実験であった。これがトリックの核心である。いまにして思えば、ここだけが異常に楽であった。

 実験室を移り有機合成をするようになってからというもの、化学実験は私の生活を蝕んだ。予習では実験のフローチャートを書くのだが、手順は煩雑になり、試薬の計算などもたくさん行う必要が生じた。

 加えて使う試薬はとかく臭い。無水酢酸などしょせん酢だろうとためしに扇いで嗅いでみたら、鼻をつくどころか、鼻が腐り落ちるかと思った。後で調べたら、食酢中の酢酸濃度はたったの4%らしい。アンモニアや硫化水素なんかは中学からの馴染みだったが、やはりこの世のものとは思えない臭いがした。

 レポートには丸一日かけるようになった。私の要領が悪いせいかもしれない。金曜日の二時四十五分から五時ごろまで実験をして、帰りに図書館で資料を借りる、というのがお決まりになった。金曜は家に帰ったら寝てしまい、土曜日はやはりだらだら過ごしてしまうから、レポートは日曜日にやることになる。すると、他のレポートが押してしまって、どれかがおざなりになる。


 このサイクルは私の生活を破壊していった。

 レポートを優先したかわりに、実験の予習が間に合わなくなった。それでは困るから、金曜日の一限を予習にあてることにした。それは習慣になり、やがて五回欠席した。

 金曜の一限というのは英語サバイバルだ。名治大学では、語学を五回欠席すると成績がつかなくなるという規定になっている。つまりこの時点で生存失敗、後期もサバイバーを続けることがきまった。


 金曜日が来た。消した一限の時間で予習をすることもせず、ふとんにくるまって過ごす。ただただ無気力になっていた。

 八時過ぎにだるい身体をむっくりと起こして、大学へ行くことにした。二限にはわざと遅刻して行った。

 昼、私は実験のやる気を完全に失っていた。もう嫌だった。実験もレポートもやりたくない。

 そもそも化学系でもないのに化学実験をやる意味が分からない。百歩譲ってもこの分量は馬鹿げている。専門外のことで他の授業を圧迫して、一体何の意味があるのか。その上課される大量のレポートにはフィードバックすらない。ばかばかしい。ただの苦行ではないか。

 四限前、廊下で友人と鉢合わせた。私は遠征にでも行くような心持ちになって、笑いながら言った。

「帰るわ」

「マ? 」

「マ」

「もう疲れた」

 彼は実験室へ、私は帰路についた。


 全学教育棟から駅までの七分ほどの道のりを、私は伏し目がちにふらふらと歩いた。視界の上側で名治大学駅の出口を捉える。少し胸が痛んだ。自分が何者でもなくなってしまうような気がした。一度振り返ってから、崩れるように階段を降りた。


 藤が丘で本地住宅行きのバスを待っていた。背の高いビルを左目の縁に捉えて、ああ、陸上生活部に入ってあのビルから走り身投げしたいと思った。少しして、ビル高跳びもいいだろうと思った。せっかくだ、人生やり投げも入れて三種目競技にしよう。




「前回休んだよね。レポートが欠けてると単位が出せないから……。」

 翌週、私は実験室に呼び出された。当たり前だ。化学実験は休んでいい授業ではない。イントロダクションでも、落単すれば実質留年だと再三注意された。

 結局、私は翌週にレポートを提出するだけでよくなった。実験結果が空白のまま考察が書いてある、歪なフローチャートを急いで書き上げた。

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