前期
怪盗マサシ①
教室はシャッターを下ろして真っ暗になっていた。照明はつけず、廊下へのドアには黒いカーテンがおろしてある。雲に覆われた新月の夜のように一つの星も見えない。
突如、闇夜に一点の数学的懐疑が煌めいた。それは証明を煌々と照らし出す。しばらくするとある文章が浮き上がった。――この定理を適用するには条件が足りない――
パチン、と指を鳴らす音が聞こえた。ウィーン、と音を立ててプロジェクターが起動し、青と黄色が混じったような光が一人の男性を照らす。きっとデスクトップの画面だ、と思った。眩しかったのだろう、男性はすぐにプロジェクターを消して照明をつけた。
彼、
怪盗マサシは黒板の文字をすべて消した。黒板の照明を落として、再びつけると関数f(x)=1/xが白く浮かび上がった。ふいに指を三本突き出して手首をひねる。「シャッフル」と言いながらパチン、と指を鳴らすと右極限と左極限が入れ替わり、もう一度パチン、と鳴らすと元に戻った。
今度は深い赤色のトランプを取り出した。五枚を引き抜いて、裏を向けたまま学生に選ばせる。選ばせながら、「それでいいの? ほんとにそれでいいの? 」と、子供っぽく煽った。やりにくそうにしながら学生が選ぶと、はい中間試験の日程が決まりましたー、と教室に大きく宣言した。どうやら、日程をトランプで選ばせていたらしい……。
中間試験は来週に決まった。数学的に厳密でない解答には部分点を与えない、と怪盗マサシが宣言する。部分点がないなんてそんな記述試験は聞いたことがなかったが、試験範囲の内容は数列と関数の極限がほとんどで、目新しいものなど逆三角関数くらいだったから、それほど気構えることはしなかった。
一週間後、同じく、火曜四限のことであった。
天井を見上げると中間試験があった。怪盗マサシがパチン、と指を鳴らして試験の合図をした。時計の針に呼応するように一点、二点と点数が降ってくる。手を皿にして受けようとするが、これが意外と難しい。
lim(n→∞) n^(1/n)がうねりをあげて近づいてくる。落ち着いて自然対数をかぶせ、nを無限大の極限にとばす。よし、とれた、と手を伸ばすが、数学的懐疑に目が眩んで取りこぼしてしまった。
次こそは、と問題に備える。見ると、lim(x→0) x/arctan(2x)があった。この手の問題のパターンは知っている。分母分子に2をかけてやると分子が2xとなり、arctanの2xと揃う。これを利用するのがセオリーだ。少しの置き換えを経て、私は二分の一と結論付けた。自信満々に両の手で掴む。しかし、lim(x→0) x/arctan(2x)はすり抜けていった。
――数学的に厳密でない解答には部分点を与えない
怪盗マサシの声が頭の中でこだまする。
Σ(-1)^n /nの交代級数が、木の葉のようにひらひらと舞い落ちてきた。私はしめしめと思い、必殺技〝ライプニッツの定理〟の詠唱を意気揚々とはじめた。ライプニッツの定理は、対交代級数特攻の定理だ。得点は余裕と思われたが、「lim(n->∞) a(n)→0」の詠唱部分をとばしてしまう痛恨のミスを犯してしまい、結果、交代級数は厳密でない解答をすり抜けて行った。
時間が経ち、しかし点数は一向に増えなかった。だんだんと焦りが募ってくるのを自分で感じた。焦りは思考力を鈍らせ、[0,pi]でarccos(cos(x))=xという、単純な事実さえも見落としてしまった。
首を左右に振って落ち着いて、よし、とよく狙いを定めた。しかし、問題は複雑化しているようだった。足が震えるばかりで、手が動かない。
長針が一周と三分の一回った。降ってくる点はもう無いようだった。かわりに目頭がぐっと熱くなって、単位が落ちそうになった。落ちないように、そっと指で拭った。
翌週のことであった。採点された解答用紙が返却された。私は目の前が真っ白になった。真っ白な視界に黒いインクで0点と印字された。
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