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 春の雨がしとしとと降って下ろしたての靴を濡らす。つま先だけが黒く擦れているスニーカーで水溜まりを避けて歩いた。

 本地住宅のバス停まではここから十分歩く。十五分くらいバスに揺られれば藤が丘駅に着いて、そこから地下鉄で大学まで二十分。乗り換えがあるから通学時間はだいたい一時間弱になって、八時四十五分の始業時間には二十分は遅れる。

 芽衣ははあ、とため息をついた。真っ黒な傘を回してみる。骨の先から水を飛ばしてしまって慌ててやめる。はあ、と浅くため息をつく。

 何かないかな、ぼんやりと望む。良いことないかな。

 探そうとはしない。目線はアスファルトに向けたまま歩く。良いことなんて探したって見つかりはしない、と芽衣は諦めている。仮に見つかったとしても自分が掴めるとは思えない。神様が用意してくれたイベントをただ消化するだけ。自分からなんてできない。幸せがもしあるんだったら話しかけてきてほしい。そうしないのは職務怠慢だと思うし、もし自分が天界の役人だったら幸せの野郎のサボりを神様にチクってやる。

 そんなことを考えながらバス停にさしかかった。

「ねえ、萱垣くんだよね」

 まだ声変わりしてない男の子の少し高めな声で、でも落ち着きをもって話しかけられた。萱垣は芽衣の苗字だ。誰だろう、と振り返ると寝癖のついたクマみたいな生物が芽衣を見つめていた。茶色の生物だった。茶色のクマだった。突然の出来事に頭が真っ白になり慌てて前を向きなおして歩く。何も見てない、何も聞いてない、クマはこの世に存在しない、と自分に言い聞かせるが、またすぐに声が聞こえてきた。

「え、萱垣くんでしょ! いま振りむいたじゃん! 止まってよ! 」

 無視しきれずに振り向くと、体長四十センチくらいのクマが宙に浮いていた。芽衣は訳が分からず苦笑いを浮かべたまま固まった。目をぱちくりさせている芽衣を、クマはバスへと促した。見ると乗客はみなもう乗り終えている。危うく乗りすごしてしまうところだった。



「ねえ、オタクくん」

「ねえ、オタクくんってば」

 萱垣だよ、と芽衣は二回目の呼びかけにつっこむ。初対面でなんちゅう呼びかけじゃ、ともらしかけたが、喉をならして止めた。

「ごめん、君なら許してくれると思って」

 クマはあはは、と笑う。

 話が通じないやつでは無さそうだ、と芽衣は安心して窓の外を眺めた。しばらくしてクマと話が通じる方がまずいことに気付いて慌てて質問した。

「っていうか君はだれ? なんで僕の名前を知ってるの? っていうかそもそも何? クマ? なんで浮いてるの? 」

「一気に聞かれても答えられないよ」クマは笑った。「そうだね、自己紹介しよっか。まずボクはクマ。見ての通りのクマだよ。名前はメイダイン。英語でMay Dying、そのうち死にそうな名前でボクは気に入ってるよ。浮いてる理由はアレね、企業秘密。死んでるわけじゃないよ」

「僕もメイ、、だ、同じだね」

「そうだね偶然! ボクのことはダインって呼んでね」

 芽衣は分かった、と頷く。

「じゃあなんで僕の名前を知ってたの? 」

「それも企業秘密。」

 納得できずに不満げな顔を浮かべていると、ダインは僕のことはいいから、と話し出した。

「ボクはキミの先輩なんだ、今日はキミにアドバイスをしにきたんだよ。だからボクのありがたいお言葉を聞いてね」

 それならばありがたい、と芽衣はおとなしく聞くことにした。

「まず今日はキミの記念すべき最初の講義があるよ。そしてこの時間は――遅刻だね。そう、わかるかい? 」

 芽衣が首をかしげたのを見てダインは続ける。

「絶起カウント、1――」

「? 」

「いいかい、大学生はいまの君の状態を絶望の起床、略して絶起というんだ。はじめての絶起だから絶起カウントは1。ちなみにカウントは今考えたから忘れていい。ともかく、分かったらツイッターを開いて『大学初講義絶起ンゴ!w』と呟くんだ。」

 ツイッターというのは「ツイート」と呼ばれる短い呟きを見たり送ったりできるサービスで、一部の若者に人気だ。芽衣も一応やっている。よく意味が分からなかったが、面白そうだったから呟いてみた。


 ──大学初講義絶起ンゴ!w

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