第24話
☆☆☆
意識の覚醒より先に、目が開いた。
僅かに開いた目蓋の先から見えるのは真っ青な空。
そして太陽。その光があまりに眩しくて、僕はすぐに目を背けた。
そこにはまだ寝ているナリアの姿。
ナリアは寝袋の中で小さく丸まって、気持ち良さそうに眠っている。
僕は寝袋から這い出すと、立ち上がって大きく伸びをした。
朝の空気は少しひんやりとしていて心地いい。
大きく息を吸い込んで、今日進む先へと視線を向ける。
地平線の先まで続いていく高速道路。
その地平線より手前に巨大な建造物は見えた。
もう
僕はもう一度ナリアを見る。
穏やかな寝顔をしていた。少しだけ笑っているようにも見える。
起こさないで、もう少し眠らせてあげようと思う。
僕は寝袋の上に座って思い出す。
ナリアとの出会い。そして僕が旅に出た日のこと。
人類が滅びた日のことを。
それは一年以上前のことだった。
そう……その日もこの星はいつもと変わることのない朝を迎えた。
でも僕はいつも起こしてくれるはずの目覚まし時計が鳴らなかったから、ぼんやりと目を覚ましたんだ……
その日、僕は夢と現実の狭間に揺れながら、ゆっくりと目を開いた。
瞳に映ったのは闇。
そこは目を開く前となんら変わりのない、暗い空間だった。
どこだろう……?
虚ろな意識でそんなことを考えながら、辺りを見回す。
意識が少しずつハッキリしていくのと共に、薄暗い世界は徐々に色づき、形をなしていく。
そして現れたのは見知った天井。今、自分が横になっているベッド。パソコン。犬小屋……
自分の部屋だった。
それを確認して僕は自嘲の笑みを浮かべる。
どこだろう……そんなふうに考えた自分が恥ずかしかった。
自分の部屋に決まっている。だって僕はこの部屋から、少なくともこの家から出ることなどないのだから。
時計を見る。いつも僕をそのうるさい音で起こしてくれる、心をつなぐ以前の物語に出てくるような、昔ながらのデザインの目覚まし時計。
壊れてしまったのだろうか。動いていなかった。
次は掛け時計に目をやる。それも動いていない。針が止まっていた。時計の針はちょうど十二時を指している。
僕は仕方なく、テレビで時間を確認しようとリモコンを手に取った。
僕の部屋の家具はレトロなものでそろえてあって一切音声入力に対応させていないから、電気製品は全部リモコンなどによって主動で起動させないといけない。
リモコンを押してもテレビはつかない。何度か押してみるがやっぱり電源は入らない。
リモコンかテレビが壊れてしまったのかもしれない。
諦めて、蛍光灯の紐を引っ張った。
カツンと電源を入れた音は響くのだが、部屋は明るくならない。
カツン、カツン、カツンと何度も引っ張るが蛍光灯は何も反応を示さない。少しつきそうになったりとか、豆電球だけついたりということもなかった。
家の受電機が壊れて、無線送電で送られてくる電気を受け取れなくなっているのかもしれない。そうなってはこの家の電気製品は全部使えない。
仕方がないので僕は久しぶりにカーテンを開いた。
窓から光が入ってくる。
眩しい。
正確な時間はわからないが、とりあえず日はすでに昇っている。
それを確認すると急にお腹が空いてきた。
僕は部屋を出て、一階のダイニングに向かう。
昨日は父も母も家にいたはずなので、テーブルには簡単な料理と書き置きあるはずだ。ちなみに書き置きには大抵、今日は何時くらいに帰ってくるとか、冷蔵庫の中に何々があるから食べてとかそんなことが書かれている。
テーブルにはおにぎりが三つあった。
後、やっぱり書き置きもあったが、いつもと少しだけ様子が違う。いつもは小さな電子パッドに書いて置いてあるのだが、今日はしっかりとした紙の封筒が置いてある。書き置きというよりは手紙みたいな感じだ。そしてとなりには小さな赤い箱がある。
でも僕は気にしない。
左手でおにぎりを食べながら、右手で封筒を握りつぶしてゴミ箱へと投げ入れる。
「よしっ」
小さくガッツポーズをする。
ゴミ箱は結構遠くにあったのだが、一発で入ったので少しうれしかった。
二つ目のおにぎりを手にとって食べる。一つ目もそうだったが、珍しく具が何も入っていない。ただそのぶん、塩を多めで味付けしてあるのか少ししょっぱい。
テーブルの上にある冷水筒から口をつけないように直接水を飲み、三つ目のおにぎりを口にほうりこんだ後、僕は二階の自分の部屋に戻った。
ベッドに座って考える。
何をしよう。
たぶん無理だとは思うのだが、もしかしたらということもあるのでパソコンの電源を押してみる。
想像していた通り、電源は入らなかった。
パソコンが使えないと研究も進められない。
こうなるともう本を読むくらいしかすることがなかった。
しかもデジタル化していない紙媒体に印刷された本。
そんな珍しい本はこの部屋には二冊しかない。両方とももう何十回と読んだ百年以上昔に書かれた物語。
でもそんな気分ではなかった。
だから受電機を直そうかと考える。
しかし僕自身では直すことはできない。もしかしたら受電機ではなくて、家の中の送電機のほうが壊れている可能性だってある。
どっちが壊れても、家の中では電気製品は使えない。
受電機が壊れていたら家に送られてくる電気を受け取ることができないし、送電機が壊れていたら受電機で受け取った電気を家の中にある電気製品に送ることができない。
まぁ、どっちが壊れていたにせよ僕には直せないのだから、それは大きな問題ではない。結局のところ直すには業者の人を呼ぶしかないのだ。きっと電力会社か電気屋さんに電話すればいいのだろうが、その電話も使えない。
電話機能の付いた携帯端末などは充電式なので使えるのだろうが、残念ながら僕は持っていなかった。
そうなると、家を出てどこかで電話を借りなくてはいけない。
でもそれは論外だ。
だって僕はこの家からは出たくない。
誰とも会いたくはないし、あんな目では見られたくはない。
僕という存在のせいでみんなの幸せを壊したくはない。
だから結局僕は、本を読むことにした。
あまり気は進まないが、他にすることがないのだから仕方ない。
電気は親が帰ってきてからどうにかするだろう。
そして――本を読み始めてからずいぶんと時間がたった。
時計が動いていないので正確な時間はわからないが、とりあえず二冊の本をゆっくりと一回ずつ読み終えた頃、部屋が暗くなってきた。
蛍光灯がつかないのでもう本を読むことすらできない。
両親もまだ帰ってはこない。
もしかしたら、今日はもう帰ってこないかもしれない。場合によっては一週間くらい研究室に缶詰になっている可能性もある。
そう考えると、今日の手紙にはそういったことが書かれていたのかもしれない。
そういうわけで、とりあえず手紙を読んでみようかと思い部屋を出て気がついた。
暗い……
普段なら僕が部屋を出れば廊下の電気がつく。しかし今日は廊下の電気もつかない。
もちろんダイニングの蛍光灯もつかなかった。
「ライト。オン」
音声入力も試してみるが、やっぱりつかない。何度か挑戦してみたが全く反応はなかった。
それでも暗くはあるが、辺りが見えないというほどでもない。無理をすれば手紙くらい読めるはずだ。
しかし無理する必要もない。
だから僕は完全に暗くなる前に、夕ご飯を食べることにした。
おにぎりはもう食べてしまったから、シリアルでも食べようと思う。
シリアルとお皿を戸棚から出して、お皿にシリアルを入れる。
スプーンも用意してから、冷蔵庫を開ける。
扉を開けても暗いままの冷蔵庫を前にしてようやく気がついた。冷蔵庫にだって電気がきていない。
いつからなのかはわからないが、牛乳はもうぬるくなってしまっているだろう。
でも幸いにして今は初春。まだ涼しいし、冷蔵庫だって一度も開けていなかったから駄目になっていることはないと思う。
だから僕は牛乳をシリアルにかけて夕食にした。
食べ終わる頃にはもうすっかり暗くなってしまっていて、手紙は読めそうにない。
結局その日は歯だけ磨いてそのまま寝てしまった。
そして次の朝――
カーテンが開いたままだったので、窓から差し込んだ朝日で目が覚めた。
いまだに電気はつかないし、両親も帰ってきている様子はない。
僕はゴミ箱から封筒を拾い出した。
今までも両親に泊り込みの仕事があることは何度もあった。それでもそんなときはそのことを僕に直接伝えてきた。手紙で伝えられたことなんて一度もなかった。
しかし今回は急な仕事だったのかもしれない。急に呼び出されたので伝える時間もなくて手紙に書いていったのだろう。
そんなことを考えながら僕はくしゃくしゃに丸まった封筒の中から手紙を取り出した。
便箋が三枚も入っていた。
手紙を平らに伸ばしながら、僕は読み始めた。
『おはよう、シン。
今日は目覚ましが鳴らなかったでしょうから、時間的にはこんにちはかもしれませんね。
でも目覚めの挨拶や、新しい一日の初めの挨拶はおはようが似合っているでしょうから、やっぱりおはようにしておきます。
この手紙は母さんが書いていますが、お父さんと二人で考えて書いています。だからこれは私たち二人からシンへの手紙です。』
違和感があった。
確かに母さんは元々丁寧な話し方をするし、いつもの書き置きでもおはようくらいは書いてある。
それにしたって違和感があった。
そう……これはいつもの伝言を記したメモじゃない。本当の手紙だ。
母さんと父さんからの僕への手紙。
ずっと一緒に暮らしてきたのだから手紙を貰うのなんて初めてだった。
何か嫌な感じがする。
それでも僕は読み進めるしかなかった。
『まず私たちに謝らせてください。
ごめんなさい。
本当は直接謝りたかった。直接会って伝えたかった。でも私たちにはできませんでした。
だから手紙に書きます。
心を落ち着かせて、ゆっくり読んでください。
あなたがこの手紙を読んでいるとき、あなた以外の全ての人間は、もうこの世界にはいません。もちろん私たち二人もです。
私たち人類はみんなナリアの種を飲んで、自ら望んで命を絶ちました。
世界を守るためです。
私たち人間の分のエーテルをこの星に還し、病んだ星を救うためです。
そのために私たちは望んで死を選びました。
人類のみんながつながった心で一緒に決めました。
でもシン、あなたは違います。あなたは特別です。
母さんと父さんが一番愛している、特別な人間です。だから他の全てとは違うのです。
あなたがそれに傷ついていることは知っています。私たちも私たちの失敗でシンをそんなふうにしてしまったことを悔いていました。
でもこの手紙を書いている今はよかったと思っています。
だってあなただけは生きることができるのですから。
母さんと父さんだけが、愛する子にこの世界を託せるのですから。
だからシン、あなたはこの世界のもと、自分一人で決めてください。
あなたがもし辛いのなら、私たちのように死を選んでもかまいません。
あなたがもし望むのなら、生きてくれればいいのです。
あなたが望むままにこの世界で、生きて死んでください。
あなたのぶんのナリアの種はこの手紙と一緒に封筒の中に入っています。
そして最後に一つだけあなたにプレゼントがあります。
封筒の横に小さな箱があるでしょう。
それは母さんと父さんと、そして全ての人たちみんなからのあなたへのプレゼントが入った宝箱です。
その宝箱の中には全てが入っています。
宝箱の鍵は宝箱の一番近くにあります。少し開けるのは面倒かもしれないけれど、頑張って開けてみてください。
喜んでくれるとうれしいです。
まだ書きたいこと、伝えたいことはいっぱいありますがこのくらいにしておきます。
さようなら。
そしてありがとう。
父さんと母さんはあなたが大好きでした。
うまく愛してあげられなかったけど、本当に本当に私たちはあなたが大好きでした。
だからありがとう。私たちの間に生まれてきてくれてありがとう。
さようなら。私たちの愛する息子、シン。』
不思議な感覚だった。
これは絶望ではない。
真っ白で空虚な感じだった。
何も感じないのではなくて、何も考えられない。
ただ虚脱感だけを感じて立ち尽くしていた。
どれくらいのときが過ぎただろう……何時間もそうしていたのか、それともほんの数分だったのか……それすらわからない。
わずかに残った意識で、封筒の中からナリアの種を取り出した。
ナリアの種は小さなビニールの袋の中に二つ入っていた。
冷水筒に手を伸ばす。
ナリアの種を飲むわけじゃない。
口の中がカラカラに乾いて息苦しかっただけだ。
水を飲んでから、大きく息を吸う。そしてゆっくりと息を吐く。
そうやって深呼吸を何度か繰り返した後、普通に呼吸をしようとしたのだがうまくいかなかった。
深呼吸のように意識さえすれば普通に呼吸はできる。
しかし……意識するのを止めると、呼吸が止まってしまうのだ。
今までは呼吸なんて、意識することなくできていたのに、今は意識しないと呼吸ができなかった。
だから意識して呼吸を続けながら考える。
「どうしよう……」
そう口に出しながら、これからのことを考える。
今まではずっとこの六年間、研究だけに全てを費やしてきた。
人間になるための研究だった。出来損ないの僕がみんなと心を通わせるための研究だった。
そう……僕は人間になりたかったんだ。
だって……
涙が溢れてきた。
気がついてしまった。今、やっと気がついた。
あぁ……意味がなかった。
僕の努力は報われることはなかった。
意味がなかった。
無駄だった。
無駄だった。
無駄だった。
無駄だった。
無駄だった。
無駄だった。
無駄だった。
「無駄だった。無駄だった。無駄だった。無駄だった。無駄だった。無駄だった。無駄だった。無駄だった」
つぶやく。
想いが言葉となって溢れ出してきた。
「無駄だった。無駄だった。無駄だった。無駄だった。全部……全部無駄だった!」
叫んでいた。
叫ばずにはいられなかった。
だって無駄だったんだ。
全部が……全部無駄だった。
意味がなかった。
この六年ずっと、そのためだけに生きてきたのに。
僕の願いは叶うことはなかった。
だから僕のこの六年間は、その間重ねた努力は……一つも報われることなく全部無駄に終わった。全く意味がなかった。
全てがただの徒労だった。
「うぅ……うあぁぁーーーー!」
叫ぶ。
悲しかった。
でも……
それは僕の努力が無駄に終わったからじゃない。
それは人類が滅びてしまったからじゃない。
その滅びた人類の中にはナリアもいたことに気がついてしまったからだ。
ナリアは僕の友達だった。たった一人だけの人間の友達だった。
僕は彼女と友達になって恋をした。そしてふられた。
そんなのは当たり前だ。だって僕は出来損ないなんだから。
だからせめてまた友達になってもらうために、人間になると決めたんだ。
そのために悲しむのを止めて、前だけを向いて研究を重ねた。エーテルを発見したときだって、それが人間になるためには関係なかったから切り捨てた。
僕はただ……またナリアと一緒に楽しい日々を過ごしたかった。
でも……もう無理だ。僕が夢見た未来は絶対に訪れない。
「ううっ……ああぁ……」
泣いた。しばらくの間、僕は子供みたいに泣き叫んだ。
どれだけ泣き叫んでも、喉が痛くて声が出なくなっても涙だけは途切れることなく溢れてきた。
それでもひとしきり泣くと、心は少し落ち着いてきた。
涙を手で拭いながら、プレゼントが入っているという宝箱を手にとって見る。
片手で持てる小さな箱だ。重さもとても軽い。形は正方形に近い長方形。全体が赤いシルクの布みたいなもので覆われていて、中心には鍵穴があった。
軽く振ってみるとカタカタカタと何かが入っている音がする。
開けてみようと辺りを見回すが、鍵は見当たらなかった。
少なくともテーブルの上にはない。
でも手紙には宝箱の一番近くにあると書いてあった。
宝箱をもとあった場所に戻してみる。
その一番近く……
テーブルの下にもぐって裏側を見てみるが、やっぱり鍵は見当たらない。
「一番近く……?」
つぶやきながら、もう一度宝箱を手に考える。
一生懸命考える。
他のことを考える隙を与えないくらい、真剣に考える。
シルクの布の中に隠れているんじゃないかと思い当たって、調べてみるが見つからない。
また宝箱をもとの場所に戻してみる。
そのときカタっと音がした。
何か仕掛けが起動したとかいうわけじゃなくて、宝箱の中にあるものが音を立てただけ。それでもその中身が気になって鍵穴から覗いてみる。
見つかった。
宝箱の中に鍵があった。
次の問題はどうやって開けるからだ。
たぶん内側から鍵を鍵穴にはめて、出てきた先を掴んで回せば開くのだろう。
鍵穴に鍵を通すため、鍵穴を下にして宝箱を振ってみる。
しかしなかなかうまくいかない。
そもそも鍵穴から見るに、鍵は長く鍵穴も小さい。開けるにはかなりの根気が必要そうだった。
それから一時間くらい僕は宝箱と格闘したが、結局うまくいかなかった。
だから僕は宝箱のことは一度諦めて、これからのことを考えることにした。
まずはナリアの種を以前頭痛薬入れに使っていたチタン製の薬入れがトップになっているペンダントの中に入れる。
そして考える……
「どうしよう……」
僕は一人だった。
そう……もともと一人だったんだ。みんながいなくなって一人取り残されたわけじゃない。はじめからずっと僕は一人だった。
ナナやナリアが一緒にいてくれたこともあった。それでもやっぱり僕は一人ぼっちだったんだと思う。そのときはそれを忘れられていただけだった。
だってどれだけ一緒にいても、僕らはつながってはいなかった。僕の悲しみは僕の悲しみでしかなかった。僕以外の誰かの幸せは僕以外のみんなの幸せでしかなかった。
だからこの世界に一人になったことを悲しむ必要はない。それは以前となんら変わらない。
それどころか僕はもう……人ごみの中、一人で在ることはなくなった。笑顔の溢れる中、一人うつむいている必要はなくなった。
この世界に僕はたった一人。それが特別なことではなくなった。それはとても自然なこととなった。
僕は人間の出来損ないではなく、ただの僕になった。
僕はそれを喜べるはずだった。
そのはずなのに……喜ぶことができない。
ナリアのせいだ。
ナリアのせいで僕は今、絶望することしかできない。
彼女もまた特別だった。
それでも彼女はみんなとつながっていた。
彼女は皆の思いだけを受け取り、自分の思いを伝えられなかった。
そう彼女は受け取ることはできるのだ。
皆が死を望んだのなら、彼女もまた望むことになる。
僕はまた失った。
やっぱり僕は損をした。
ナリアと出会って、幸せをもらって……会えなくなってからもまだ希望を持っていた。
ナナを失ったときはどうしようもなかった。
しかしナリアは違う。ふられて会えなくなっただけで、死に別れたわけじゃない。
また友達になることはできる。
可能性は低いかもしれない。とても難しいかもしれない。
それでもどんなに可能性が低くても、それはゼロではなかった。どれだけ難しくても不可能ではなかった。
だから再会を夢見ることができた。そのために僕は努力することができた。
僕は幸せな未来を思い描くことができた。
僕は希望を持つことができたんだ。
しかし今はもう……ナリアはいない。人類と共に死んでしまった。
もうナリアに会える可能性はなくなってしまった。
僕が夢見た未来に辿り着くことはなくなった。
結局、希望を持つこと自体が無駄だった。
そう……希望や、夢を持って幸せな未来を夢想するから悲しくなる。損をするんだ。
幸せに対価が伴うのはまだ理解できた。だけど希望を持ち幸せを夢見ることにすら対価が必要だった。
幸せを得れば、それを失ったとき悲劇となった。
幸せを夢見て望めば、それに届かず、希望が絶たれたとき絶望となった。
希望こそが絶望を生み出した。
僕は悲劇の闇の中、希望を抱き……より深い絶望の闇へと落されたんだ。
だからもう……受け入れてしまえばいい。願いも努力も必要ない。諦めるわけじゃない。ありのまま、一人の自分を受け入れればいい。僕の何かが変わったわけでも、変わるわけでもない。
僕はずっと一人だった。
それがこれからもずっと一人だと確定したに過ぎない。
いや、もともと確定していたんだ。僕は生まれたときからずっと、一人で生きていく運命にあった。
その運命にやっと気がつくことができた。
もう夢を見る必要はない。もう何も望むものなどない。
大丈夫……どんな悲劇も、絶望だって……それが続けば当たり前になる。何も感じなくなる。
悲劇でも絶望でもなく、それは変わらない日常となる。
だから考えよう。これからどうすればいいかを。
僕一人が残された世界でどうすればいいかを。
時間ならいくらでもある。
そのために僕は人であることを捨てたのだから……
そのために僕は一人であることを強いられたのだから……
そして――僕は旅に出た。
今まではずっと僕は家に閉じこもっていた。
でも……人類が滅びた今、その必要はなくなった。
僕は別に外が恐かったわけじゃない。
誰とも会いたくなかっただけだ。
僕は欠陥品だったから……僕という存在が視界に存在するだけでみんなの心を傷つける。
欠陥品の僕が現れると、みんなは悲しそうに笑うんだ。
僕がかわいそうだから、僕を傷つけないように作り笑いを浮かべるんだ。
それで一生懸命僕に優しくしてくれる。
でも……みんなにはそれで僕が幸せを感じているかどうかがわからないから、ずっとそれが続く。
もし僕の欠陥が目が見えないことだったら何の問題もなかった。
きっとみんなが助けてくれる。
僕はそんなみんなに感謝して、幸せになればいい。
そうすればみんなも幸せになって、自然と上手に笑うことができるんだ。
でも僕は駄目だ。
もし僕が幸せを感じても、みんなにそれは伝わらない。
だから僕はずっとかわいそうなままで、みんなは心から笑えない。
世界は笑顔で溢れているのに、僕という存在がそれを奪ってしまう。
だから僕は閉じこもっていた。
しかし……もう誰もいなくなった。
この世界から笑顔は消えたんだ。
僕はもう奪わなくてすむ。
だから僕は外に出た。
死ぬことも考えた。
でも自殺ならいつだってできる。
そう急ぐこともない。
僕は見てやろうと思った。
人類のみんなが命を懸けて救った星の再生を……
目指す場所なんてない。足のおもむくまま、進んでいけばいい。
荷物は両親からの手紙と、僕のぶんのナリアの種が入ったペンダント。僕へのプレゼントが入っているという開かない宝箱。後は食料などの生活や旅に必要不可欠なものだけ。
それと後、ナナの首輪と二冊の本だけは持っていくことにした。
そうして僕は旅を始めた。
人類の去った後の世界はとても静かだった。
この世界には多くの生物が生息している。
滅びた人類なんかよりずっとずっと多くの生物がいる。
それなのに世界はまるで時が進むことを忘れてまったかのように静まり返っていた。
主の去った灰色の町はまるで終わりを絵に描いたような、冷たくて悲しくて、恐ろしい空間だった。
アスファルトの大地、聳えるビルの群れ……
仰ぐ空も狭かった。
空を見上げてみても、その鮮やかな青は四方を囲むビルに遮られ、切り取られてしまう。
そんな灰色に埋め尽くされた世界。
その中に時折通り過ぎる風の音だけが響いていた。
本で読んだことがある。人工物とは人の願いの結晶だと。
人は快適に日々を過ごすために家を作った。遠くへ行くために車を作った。空を飛ぶために飛行機を作った。
そうやって何かを願った心が人工物を生み出した。
だったらここは人の願いの墓場だ。願いだけが残された人類の残滓。
そう考えると立ち並ぶビルは、まるで人類の墓標のように見えた。
そんな世界を旅して一年……
たった一年で世界は大きくその姿を変えていった。
初めは世界から人類が消えただけだった。
しかし日を追うごとに世界は変容していった。人類から星に還されたエーテルによって、世界に命が溢れた。
ちょうど時期が春だったこともあって、世界はまず緑に染まっていった。
夏になる頃にはアスファルトはひびだらけになって、その間から植物が顔を見せた。ビルも蔦に覆われていった。
町に緑が溢れると、今度は動物たちも町に姿をみせるようになった。
そうやって世界は変わっていった。
そして出会いの日は訪れた。
その日も僕は住宅街のでこぼこのアスファルトの上を歩いていた。
すると、一つの家が目についた。
広い庭の一軒家。その家の入り口に骨が散乱していた。
一目でわかった。犬の骨だ。
よくあることだった。
これまでの旅でもこういう光景は何度となく巡り会った。
ガリガリに痩せ細り、町をさまよう首輪をした犬。家の前で死んでいる犬。
たぶん、人類が滅んで一番悲しんだのは僕ではなく、彼らだっただろう。
犬にとって、人間は本当の家族だったんだ。僕がナナをそう思っていたように、彼らもまたそう思ってくれていた。
だから彼らは、突然に消えてしまった家族をただひたすらに待ち続けた。それはきっと当たり前のことで、とても自然なことだったのだろう。
散乱していた骨を拾い集めて、庭に埋めながら僕は思う。
どうせこんなふうに死んでしまうのなら、一緒に殺してあげればよかったんだ。
そうすればこの犬は孤独と空腹に耐えることなく、愛する家族と幸せに死ねたのに……
ナナとの別れを思い出し、心からそう思った。
しっかりと骨を埋めて、缶詰めを一つお供えして手を合わせる。そしてこの犬が天国で家族と再会できますようにと願う。
そのとき、ふと視線を感じて振り返った。
家の塀の影から顔だけを出してこちらを窺っていたそれと一瞬目が合ったが、すぐにそれは顔を引っ込めてしまう。
意味がわからない……信じられなかった。
だってそれは、滅び去ってしまったはずの人間に見えたから。
一瞬のことではっきりとはわからなかったが、それは黒髪の女の子だったと思う。
どうしよう。その言葉で頭の中がいっぱいになる。
どんなに考えても、頭の中に浮かぶのはどうしようという言葉だけで、解決策は浮かび上がってこない。
そしてどうしようを百回くらい考えた結果、浮かんだ結論はもう考えるのは止めにしようだった。
だってほら……辺りを見回してみても彼女はもういない。
きっと見間違いだったのだろうし、もし本当に人間だったとしても、すでにどこかに行ってしまったんだから僕にはどうすることもできない。
そう……どうしよもないんだ。仕方がない。だからこれ以上気にすることはない。
もう犬の埋葬も済んでいたし、ここにとどまる必要もないので僕は道を進むことにした。
しかし歩き出すと、すぐにまた視線を感じた。
振り返ってみると、曲がり角の所からこちらを窺っている少女の姿が見える。
見間違いではなかった。
……本当にどうしよう。
そんなことを考えて少女を眺めていたら、顔を引込めてしまった。
いなくなってしまったので、また歩き出してみると、やっぱり少女は少し距離を置いてついてくる。
どうしよう……
再び、その言葉が頭の中を埋め尽くす。
どれだけ考えてみても答えはわからない。
だから僕は走った。
逃げたんだ。
少女から。そして考えることからも。
荷物がたくさんで、それに足下もボコボコしてうまくは走れなかったけど、それでも僕は走った。
走りながら、少女のほうへと振り返ってみる。少女も僕を追って走っていた。
でも僕が急に振り返ったせいか、少女は立ち止まろうとして転んでしまった。
「あ……あ、あの……」
僕も立ち止まって、少し離れたその場から少女に声を掛けた。
しかし……言葉が浮かばない。何を言えばいいのかがわからない。
すると少女は元気に飛び起き、その勢いのまままた物陰に隠れてしまった。
その後、僕は背後をつけてくる少女を気にしながらゆっくりと歩いて道を進んだ。
そして日が傾き始めて、僕が夕飯の準備を始めても少女は先ほどまでと変わらず物陰からこちらを窺っていた。
考える。
どうしようか……
三度、同じ問題のために思考を巡らせる。
どれだけ考えても答えは得られない。そのことはすでにわかっていた。
だから思い出す。
ナリアのこと、両親のこと、ナナのこと。
それは僕と同じ時を過ごしてくれた者たちのこと。
ナリアが会いに来てくれなくなった後、僕は決めたんだ。本物の人間になるまで友達は、特別は作らないと。
失わないためには手にしないことが一番の方法だった。悲しみを回避するには幸せにならなければよかった。
そうやってずっと生きてきた。
そして結局、僕は人類と共にナリアを失った。
希望まで奪われて、絶望した。
それでももう慣れた。どれだけ絶望に満ちていても、その日々が続けばそれもまた当たり前の日常となる。
この一年で、僕にとってナリアのいない世界は当たり前の世界になった。
それなのに……
「あっ……」
あまりの衝撃に声を漏らす。
突然、気づいてしまった。
そう……僕は一年前に絶望した。僕の望んだ幸せな未来は訪れないとわかったからだ。
手の中にない、夢見ただけの幸せを失って僕は絶望したんだ。
だったら……だったらだ。
あの少女は……
あの少女は一年前にどれほどのものを失ったんだろう……
きっと少女は僕には想像もできないほどの幸せの中にあったはずだ。悲しみとか、絶望という言葉の意味を知る必要なんてないくらい、温かな優しい日々を過ごしていたはずだ。
僕は知っている。
幸、不幸は絶対値で測られるものではない。相対的に求められるものだ。
その落差が悲しみや喜びの大小を生む。
だったら、少女は……
今――どれだけの絶望の中に在るのだろう。
少女は僕よりずっと高い場所から、今の僕がいる場所へと落されたんだ。
それは幸せを見上げるだけだった僕には想像することすら叶わない。
だから僕は……
「ね、ねぇ……」
呼びかけてみた。
僕は欠陥品だ。それでもあの時、ナリアはこんな僕とでも友達になりたいと言ってくれた。
ナリアは言ったんだ。一人は嫌だ……と。そして僕なんかを求めてくれた。僕と一緒に笑ってくれた。僕と過ごす時間を楽しいと言ってくれた。
だったのなら……こんな僕でも少しならあの少女を高いところに導いてあげられるかもしれない。それは以前彼女がいた場所に比べればずっと低い場所だ。その記憶があるいじょう満足はできないだろう。
それでも、少なくとも今彼女がいる場所よりは高いのだ。今を経験しているのだから、その中でも少なからずは幸せを見出せるはずだ。
返事がないので、もう少し大きな声で呼びかけてみる。
「ねぇ、君。一緒に、ご飯食べない? 缶詰めしかないんだけど……」
やっと自分が話しかけられていると気づいたのか、少女は物陰から出していた顔を引込めてしまった。
でもきっと少女は隠れてしまっただけで、いなくなってしまったわけじゃない。
だから待つ。
しばらくすると、少女はまた顔だけを覗かせて、小さな声で言った。
「カニ缶っていうのはある?」
「あるよ」
できるだけ、優しく答える。
「じゃあ……食べる」
少女が物陰から出て来た。
そうしてひとりぼっちだった僕と少女は二人になった。
二人で缶詰めを食べながら僕は少女にいろいろ聞いてみた。
人類が滅んで以来の久しぶりの会話だったし、人類が滅ぶ以前も両親くらいとしか会話がなかった僕なので、うまくしゃべられるか心配だったが、それは杞憂だった。
僕なんかより少女の返事はずっとたどたどしかった。
二人して少しちぐはぐなやり取りを続けた結果、わかったことは少女に人類が滅びる以前の記憶がないことと、
少女は自分の名前も覚えてはいなかったので記憶が戻るまでの間用に、仮の名前を考えることにした。
僕が一生懸命に考えていると、少女は僕のペンダントが気になるらしく、いろいろ質問をしてきた。
そしてペンダントトップの薬入れの中にナリアの種が入っていることを告げたとき――
「ナリア! 女の人の名前は、花の名前をつけることがよくある……だから名前はナリアでいいと思う」
少女は急に立ち上がってそう言った。
それは僕のたった一人の人間の友達の名前と同じだった。でも少女がその名前がいいというのだから、反対することはない。
名前はその人を表すための記号だ。みんなが別々のほうが分かりやすいことは確かだが、同じ名前がいけないわけじゃない。人類が滅びる以前の世界にも同じ名前の人間なんて大勢いた。
だからこのときから少女はナリアになった。
そして僕とナリアは次の日から、二人で
――それから約三ヶ月、今
隣で眠っているナリアに視線を向ける。
寝ているのに口がもごもご動いている。もしかしたらカニ缶を食べる夢でも見ているのかもしれない。
目的地はもうすぐだ……結局今日まで、ナリアの記憶は戻らなかった。
記憶を失ったナリアが唯一執着したのが人類の樹(ユグドラシル)を目指すこと。
いったいそこに何があるのだろう。何がナリアを待っているのだろう。
もちろん何もない可能性だってある。ナリアが記憶を失う以前、人類が滅びる前に
もう一度、
そう、可能性だけなら無限にあるんだ。そこに幸せが待っている可能性も、不幸が待っている可能性もある。
でもそれは人類の樹(ユグドラシル)に限ったことじゃない。それは全ての未来に言えることだ。
考えるだけ、想像するだけ無駄だ。
行ってみればわかる。もうすぐわかるんだ。
だから僕は未来を予測するのではなく、願う。
願い、夢見ることが悲劇の始まりであることを僕は知っている。
それでも願う。願わずにはいられなかった。
だって、そうしなければ進めない。
願うことも夢見ることも止めてしまったら、進めない。そこに望むべきものがないのなら進む意味はない。
先に何があるのか予測はできたとしても、確かなことはわからない。だからそこに希望を持って進むんだ。
きっと
そこには大量のカニ缶があるかもしれないし、ナリアの家族がいるかもしれない。かーくんの家族が巣を作っているかもしれないし、僕の母さんと父さんがいるかもしれない。もしかしたらもう一人のナリアが僕を待っているかもしれない。
可能性だけなら無限にある。
だから僕はまた夢を見ようと思う。現実は幸せなことばかりではない。だからこそ未来を思うときくらいは幸せを思い描こうと思う。
それでその希望が裏切られたとしても、その先にも未来は続いている。また夢見ればいい。
人類が滅びたとき、この世界には絶望しか存在しないと思った。しかしそんな僕の前にもまた幸せは訪れたんだ。
あのとき、僕が死を選んでいたら、進むことを止めていたら、この幸せには出会えなかった。
だから僕は進む。
目指すは
もう……目の前だ。
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