終章

終章① 忘れないから

 フィナは歩いていた。


 彼女は八歳。初めて魔法が使えるようになってから、もう三年になる。この三年間で、彼女は魔法の基本的な事項は全て覚えこんでしまっていた。しかし、まだ子供だということで、魔法名は与えられていない。それでも実力は、正規の魔法学校で学んだのではない大人の魔術師たちと同じくらいにはあったのだ。


 学術都市フグティ・ウグフにおいて最も権威ある『アールガロイ魔術アカデミー』に招かれて入学しただけのことはあり、彼女は『アカデミー』で過ごした二年間で、すでに初歩的な魔法はいくつも習得してしまっている。


 だが珍しいことに、彼女は自分の扱う魔法に少しの興味も抱いてはいなかった。興味の対象は専ら、この世界のことだった。魔法そのものよりも、魔法を用いて研究することに熱意が傾けられていた。彼女は、この世界の謎を解き明かすことで、同時に自分自身の謎を解き明かすことができると信じている。



 フィナは、共にここへ来た三人の大人たちと話をしながら、山道を登っていた。この細い道の両側は深い谷底へと繋がっていて、子供には少し危険だった。都会育ちの彼女にはこのような険しい道は珍しく、それで少し、彼女は浮かれ気味なのだった。勿論、彼女が道から不注意に転げ落ちてしまわないように、大人たちは話をしながらも気をつけている。


 この霊峰ルメルトスの頂のひとつに、ルメルトス派の大魔術師が住む一軒家があるのだ。彼女はそこへ学びに来たのだった。今日がその最初の日で、この山道を登るのも、今日が初めてだった。


 暖かい風が彼女の黒髪をさらった。その長い黒髪は柔らかく、束ねていないのでよく揺れていた。彼女は太陽の色の服を来て、その上から魔術師用の白いローブを羽織っていた。


 山道そのものは険しかったが、日差しは穏やかで、地面は萌葱色の短い草に覆われていた。ところどころには木も生えており、生命の活力のある山だった。



 フィナの付き添いでここへ来ているのは、別の世界からこのアーケモスへ逃げてきたという魔王と、その友人であるふたりの神々だった。

 

 魔王の名はザンといい、色の濃い金髪に深い青色の瞳を持った若者だった。保持神のソディは明るい金髪の大男で、ザンとは古くからの友人だ。破壊神のフリアは紫色の髪と瞳を持った若い女で、ソディは元々は彼女の家に仕えていた。そして、フリアはザンの婚約者だと語っていた。フリアだけは少し若く、他のふたりが二十代前半に見えるのに対して、彼女は十代の後半であるように見えた。



 フィナはこの三人と、『アカデミー』にいるときに知り合った。そもそもは、彼ら三人が、『アカデミー』の天才少女に興味を持ったのがきっかけだ。フィナとしても、この未知の存在との会話に非常に興味を持ち、三人に彼らの故郷——魔界と神界についての質問を矢継ぎ早に投げかけていた。知識を求める彼女にとっては、この出会いは非常に刺激的なものだった。


 話を続けていくうちに、霊峰ルメルトスにいるというレイメという人物のことが出てきたのだった。レイメは、ルメルトスの大魔術師ヨクト・ソナドーンの妻で、非常に複雑な魔法を扱えるという評判の魔女なのだった。フィナは、レイメについての話にのめり込んでいった。中でも、彼女だけが知っている未知の文字とその言語体系の話になったときに、フィナの興奮は最高潮に達した。しかもその文字は、その魔女が扱う特殊な魔法に関係があるというのだからなおさらだ。


 フィナはその場で、そのレイメという魔女の許でその言語を学びたいと言い出したのだった。


 それから、ザンたちはレイメに了承を取り、フィナを霊峰ルメルトスに連れて行くことになった。そして、フィナは『アカデミー』に休学届を出すと、すぐに荷物をまとめて、この旅に臨んだのだった。



 だから、いまのフィナは浮き足立っていた。これから行く先で、非常に珍しい、特別な魔法を学ぶことができるのだから。それは、彼女だけに開かれた、まだ誰も知らない世界だった。


 フィナたちが木の家の前に到着したときには、日は山の向こうへと沈もうとしており、空は赤く染まっていた。


 まずザンが扉の前に立ち、それを数回叩いた。すると、扉が開く。出てきたのは、口の上と顎に髭のある、金髪の快活な男だった。どうやら彼が、大魔術師ヨクト・ソナドーンのようだ。


「よく来たね。君がフィナか」


 ヨクトは、大人たちとともにやって来た小さなフィナに微笑む。


「話は聞いているよ、まあ、入りなさい」


「はい! お世話になります!」


 フィナは少し緊張していたが、それでも精一杯に元気よく答えた。それを見て、ヨクトはまた微笑む。ザンに促されるままに、彼女はその家に上がり込んだ。その後から、三人の大人たちも続いて上がった。


++++++++++


 家の中では、レイメは料理をしているところだった。なにかご馳走をつくっているようで、その手の込みようと量の多さは、フィナの見たことがないほどのものだった。


「初めまして、フィナ」


 レイメは作業の手を止めると、やって来たばかりのフィナのところへ行き、屈んで目線の高さを合わせて微笑んだ。彼女は長い金髪に、青い瞳の持ち主だった。


「は、初めまして……」


 上がって吃りながらも、何とかフィナはそう答えた。すると、レイメは更に弾けたように笑み、彼女の頭をがしがしと撫でたのだった。


「気に入った。あんたは立派な魔術師になるよ」


 そう言われて、フィナは嬉しさに顔が真っ赤になった。あまりの感情の昂ぶりに、彼女はなにも言うことができなくなってしまう。おまけに、そこから一歩も動くことができない。


「部屋で待ってるといいよ。今日はご馳走だからね」


 レイメは立ち上がりながら言った。彼女はまた、料理の準備に取り掛かるのだ。



 そのあとで、フィナはヨクトに家の中を案内され、彼女が今後使うことになる空き部屋を与えられた。彼女は部屋に荷物を置くと、そこでしばらくひとりで静かにいたが、やはり少し寂しくなって、大人たちのいる居間のほうへ出てきた。


 居間では、ソディが椅子に座ったまま、左足を別の椅子に乗せていた。どうやら足が痛むらしい。ヨクトが痛み止めの魔法を掛けていた。


 それが心配になって、フィナはそこにいたフリアに話を聞いた。するとフリアは笑って答える。


「ああ、あれか。昔、神界で戦争があったときに、ソディはあの脚を酷く攻撃されたんだ。傷は治ってるんだが、長く歩いたときなんかに痛むらしい」


 痛みがなくなって、ソディはヨクトに礼を言いながら脚を下ろした。


「ありがとう、ソナドーン」


「いや、私が悪いんだよ、ソディ。麓の町で買い物をしてから来るように頼んだ私がいけないんだよ。私が買いに行くべきだった」


 ヨクト・ソナドーンは苦笑いの表情で謝っていた。


 足が不自由なのは大変だなと、フィナは思った。神界にいたときには戦士だったというソディでも、古傷が痛むとこうなるんだから。かわいそうだな。


「いいか、フィナ」


 そう言いながら、フリアはフィナの肩の上に手を置いた。ソディの様子をじっと見ていたフィナははっとして、話しかけてきた彼女のほうを向いた。


「もしソディに勝ちたかったら脚を狙え」


 フリアは笑った。フィナにはソディと戦う予定などないので、また当惑して、顔を赤らめて黙り込んだ。その反応が面白かったのか、フリアはまた大声を上げて笑った。



 それからフリアは、居間の大きな卓に料理を並べ始めたレイメに話し掛ける。


「それにしても、フィナの歓迎にそのご馳走っていうのは、随分張り切ってるじゃないか」


 レイメは皿を卓の上に置くと、フリアのほうを向く。


「ああ、これ? それもあるけどさ、今日はベブルの『寿星の日』なんだよ。それの祝いも兼ねて」


 『寿星の日』とは、一年に一度巡ってくる、その人の生まれた日付のことだ。その日に周りの者がその人を祝うというのは、このアーケモスでの慣習だ。


 すると、そこを通りかかったザンが、それを聞いて言う。


「あれ? そういえば、フィナの『寿星の日』も今日なんじゃなかったかな?」


「へえ、そうだったの?」


 レイメが驚いてフィナに聞いた。フィナは少しの間に、返答に困った。相手に気を使わせてはいけないと思ったからだ。だが、嘘をついてはザンに失礼だ。そう考えたフィナは恐る恐る首を縦に振る。


「なんだ、そうだったのか。じゃあ、それもお祝いしないとね。待っててよ、もう少しは豪華にできるからね」


 レイメの明るい声を聞いて、フィナは首を上げた。レイメは彼女を元気付けるべく微笑んでいる。彼女は、自分もこんな人になりたいものだと思った。レイメはまた、料理場に引き返していく。

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