第二十六章④ 星空を征く

 永遠を歩いたその先に、世界は待ち構えていた。


 星の世界の全てが引き剥がされ、人の形となった。


 それが、女神“イフィズトレノォ”の真の姿だった。彼女の全身は闇であり、そこに星が瞬いている。世界を失った空間は、なにも存在しなくなった。


「残ったのは、お前ひとりか、ベブルよ」


「ああ。そうみてえだな」


 ベブルは落ち着いていた。


「妾の『器』よりも、しもべのほうが残るとはな。まあよい。お前を始末すれば、これで妾に歯向かう者はいなくなるのだ。そして妾は、実在へと変わるのだ!」


 世界の女神は両腕を横に広げて浮かび上がった。


 ベブルもいま一度、拳を構える。


「俺がお前を始末して、世界を潰す奴がいなくなるんだよ!」



 ベブルは走り出す。血はまだ止まっていなかったが、彼はそんなことを気にもかけなかった。炎が巻き上がる。


 ベブルが炎を浴びせ掛かった瞬間、“イフィズトレノォ”は消えた。そして彼女は彼の背後に出現する。


 女神はベブルの背中を切り裂いた。彼は振り返り、再び炎を浴びせようとする。だが、これも避けられた。


 攻撃しては避けられ、攻撃しては避けられ、窮地に追い込まれているというのに、ベブルの表情は明るかった。なにかを企んでいるのだ。


 “イフィズトレノォ”は響く声でベブルに言う。


「妾の心の最深部では、お前の考えなど手に取るようにわかるのだ。お前は所詮、妾が生み出したもの。造物主には勝てぬのだ」


 血飛沫を上げながらベブルは吹き飛ばされた。


 全身が酷く傷つき、身体の感覚が失われていく。


 それでも、頭だけは妙にはっきりとしていた。


 ベブルは世界を睨み付けながら立ち上がる。そして、支配者に向かって叫ぶ。


「じゃあこれはどうだ!」


 その瞬間、周囲の虚無が炎に包まれたのだ。


 時間も燃え始める。


 “イフィズトレノォ”は炎に纏わり付かれ、振り解こうにも振り解けないでいた。


 ベブルはそこへ駆け付け、連続で殴りつけた。そのどれもが、世界の女神の力を奪っていった。


「ば、莫迦な……」


 拳を受ける度に、世界は崩れていく。


 世界の女神はその両腕でベブルを切り裂いた。しかし、彼は一歩も退かずに女神への攻撃を続けたのだった。


「ベブルよ、お前は妾がいなければ、生きてはいけまい? お前と妾とはふたつでひとつ。いつも妾が、お前の傍で慰めていたではないか」


 ベブルは不敵に笑ってみせる。


「さあな。もう俺は弱虫じゃないんでな!」


 ベブルはその拳で、“イフィズトレノォ”を殴り飛ばす。世界の女神は燃え盛る炎の中に打ち込まれた。



 わらわ、の——


 こころが、こわされる——


 あってはならぬ——


 あってはならぬ——!



 炎が消された。


 “イフィズトレノォ”の姿は見えない。


 ベブルは周囲を見廻す。


「どこに行きやがった!」


 答える声はない。


 ベブルは神経を研ぎ澄まし、“イフィズトレノォ”の場所を探った。


 そこか——!


 ベブルにはわかった。だが、それは少し遅かった。


 星空が、ベブルの脇腹を貫いている。


 “イフィズトレノォ”は背後にいた。


「これで終わりだ。所詮、お前は人間。これで死ぬのだ」


 ベブルは一度大きく痙攣し、血を吹いた。脇腹からも、血が溢れ出てくる。


「妾の恐ろしさは解っただろう? なあ、ベブルよ」


 星空が彼の顎を撫でた。


「もうお前は消えてよい。この世界にあるものは、妾が思うだけで消せるのだ。人間であろうと、惑星であろうと、空間であろうとな。お前たち人間に、妾を倒す可能性など、ありはしないのだ」


 ベブルは一言も声を発しない。口から出るのは、とめどない大量の血だけだった。


「消えよ! ベブル!」



 だが、ベブルは消えなかった。


 ベブルはそのままの状態で笑うと、自分の脇腹を貫いている星空をその手で掴んだ。そして、その部分から、星空が、そして世界が燃え始めた。


「なぜだ……。なぜ、消えぬ……?」


「知らねえな」


「お前は……、何者だ? お前だけが違う! なぜ、お前のような者がここにいるのだ!」


「俺が知るわけないだろ」


 世界は悲鳴を上げた。炎に身を焼かれ、のた打ち回っている。


 空間が、時間が、赫々たる炎に包まれている。



 わらわ、は——

  わ、らわ、は——

   セカイのうちそとヲぎゃくてんシ——

     げんそうにスギヌわラわヲじつざいヘト——

         ゲンジツにソンザイするセカイのシハイシャとナルノダ——


 世界の女神は恐ろしい悲鳴を上げる。


「なぜだ、なぜだ! 妾の生み出した幻想に過ぎぬ人間が世界の外へ出たというのに、それを生んだ妾は、妾は現実にはなれぬというのか——?」


 ベブルは脇腹を押さえて、“イフィズトレノォ”の終焉を見届けている。


「妾が、幻想に滅ぼされたというのか―――?」


 ゲンジツにソンザイするセカイとナルノダ―――

   ゲンジツにソンザイするセカイのシハイシャとナルノダ―――

     ゲンジツにソンザイするセカイのカミとナルノダ―――


「嫌だ! 妾は、妾は、実在になるのだ! 架空世界で終わってはいけないのだ!」


 しかし、その声は遠くなっていく。


 世界から、自我が抹消されつつあるのだ。


「“神の幻影”で終わるわけにはいかないのだ! 妾は、“神”になるのだ——!」



             わ、ら、わ、こそは——

      ゲンジツの、カミに——

 ゲンジツに、なり、たい——


 べぶる——

    ワがコよ——

              たす、け——



 “神の幻影イフィズトレノォ”は完全に消え去った。


 炎が鎮まり、ベブルは両膝をつく。彼はあまりにも、酷い傷を負っていた。


 血が止まらない。


 口元から大量の血を流しながら、彼は笑った。


「あとは、どうやって帰るか、だな——」


 ベブルは歪んだ時空へと巻き込まれている。この領域の支配者がいなくなったからだ。それでも彼は、そこを動くことができなかった。


「さて」


 ベブルは落ち着き払って、溜息をつく。


「今度はどこに飛ばされるんだろうな」


 そう言って短く笑うと、彼は倒れた。


++++++++++

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る