第二十六章③ 星空を征く
ベブルは星の世界を駆け出した。そして、“
その魔法はやはり、“イフィズトレノォ”に効いた。そして更にそこから、彼は拳打を叩き込む。その拳も、有効だったのだ。
「やっぱりな! この魔法の直後なら、てめえにも攻撃が効くんだな!」
「莫迦な……!」
輝く女神は驚愕した。
それに便乗して、ムーガが“
どれもが“イフィズトレノォ”に効いていた。だが流石に、この光る女神は人間でないだけあって、この程度の攻撃で倒せるものではなかった。
「目障りだ!」
世界の女神は片手を振り上げ、衝撃波でユーウィを打ち上げた。かなりの痛手になったはずだが、魔剣『
ムーガもユーウィも、“イフィズトレノォ”が力を授けたばかりに、戦いが激化すればするほど、その一時的な耐久力が上昇していくのだった。どんな攻撃も受け付けぬベブルのように。
ユーウィなどは、もはやただの街娘だったとは思えないほどだ。彼女はもともと魔力が高く、それによる強固な魔力障壁で身を守っていた。とはいえ、“イフィズトレノォ”の攻撃をここまで耐え凌げるのは、世界の女神に与えられた力によるところが大きい。
“イフィズトレノォ”がユーウィに攻撃している間にも、ベブルは“炎の魔法”をその女神に浴びせていた。そしてそれから、連続して殴る。少し後ろに構えているムーガは、ベブルが魔法を使うのに合わせて、呪文を唱えている。
輝く女神は何度も何度も、ベブルたちに向かって攻撃を続けた。だが三人は、どれだけ撥ね飛ばされ、血みどろになっても駆け戻り、攻撃を繰り返したのだった。
「消え去れ!」
女神の放った衝撃波で、三人ともが撥ね飛ばされた。だが、彼らはすぐに立ち上がり、彼女に向かって駆け、何度も攻撃を仕掛けるのだった。もっとも、一番倒れて立ち上がる回数の多いのはベブルだった。
ユーウィの“治癒魔法”は常時発動し続けていた。上級の魔術師でも魔力が切れるほどに魔法を使い続けている。ムーガにしても同じだった。彼女も攻撃魔法の使いすぎで息が上がっていた。
女神“イフィズトレノォ”の周りでは炎が踊っていた。ベブルの“炎の魔法”の直後にしか攻撃が有効でないのだ。ベブルは、ムーガやユーウィの攻撃が世界の女神に効くように、定期的に“炎の魔法”を使い続けていた。
ユーウィの魔力が消耗し、“治癒魔法”が使われなくなると、戦況は少し変わる。“イフィズトレノォ”からの攻撃は、すべてベブルが受け止めに行くようになった。
ムーガもユーウィも血に濡れていた。そしてベブルは、三人の中で最も流した血の量が多いのだ。だが彼は倒れない。
「これで——」
炎の中で、ベブルが跳び上がった。そして彼は、その拳を“イフィズトレノォ”の頭目掛けて叩き落す。
「——終わりだ!」
女神は吹き飛び、倒れた。
そして、宙に浮き上がり、身体を起こす。女神の身体は大きく振動していた。
「オオオオオオオオオオオ!」
地震のような叫び声を上げると、光る女神はその輝きを失っていった。光は消え、星空だけが残る。
ベブルたち三人は、完全に息を上がらせていた。直立姿勢さえもままならない状態だった。咳き込んだベブルは口から大量の血を吐く。ムーガはどうやら肋骨を折られたままで“治療魔法”が掛かっていないらしい。ユーウィは意識が朦朧として、魔剣により掛かっていた。全員が酷い怪我を負っていた。
『声』が聞こえる。
—— そうまでして妾に刃向かうのか
—— 妾のしもべたちが、妾を攻撃するとは
—— だが、その健闘は称えよう
—— お前たちは、妾の心の最深部に入るのだ
—— 真なる妾を見せよう
—— 世界の核を見せよう
—— 妾の領域に来ることができるのならば
ベブルは袖で口の周りの血を拭う。
「行くぞ。奴はまだ先にいる」
ムーガとユーウィはベブルの目を見て、深くうなずいた。
三人は星の世界を、更に深くを目指して歩き始める。
ここは敵の支配する場所だ。来いと言われた以上は、行くしかない。後戻りはできない。
星空の中を、ベブルたちは歩いていく。もう“治癒の魔法”はない。重傷を負ったまま、彼らには進むことしかできないのだ。
++++++++++
だが、その途中でユーウィが崩れ落ちる。彼女は魔剣を杖にして身を起こしてはいたが、足が完全に立たなくなってしまっていた。彼女の息は、荒いというよりは寧ろ、異常なまでに穏やかになっていた。
「ユーウィ!」
ムーガがユーウィに駆け寄った。だが、ユーウィは微笑んで、力なく首を横に振ったのだった。
「わたしは……、ここまでのようです。すみません、わたしはもう、目が、覚める——」
「いいよ、もう……」
ムーガは優しく言った。そう言う彼女自身も、どうやら調子がおかしいようだった。目の焦点が定まり難いようだ。
「先に帰ってて」
「ありがとな」
ベブルがそう言うと、ユーウィはふたりに微笑を残して、星空に消えていった。
ふたりは、しばらくそこを眺めていたが、やがてまた、歩き出した。
++++++++++
行けども行けども、“イフィズトレノォ”の心の最深部へは辿り着かなかった。
歩いていると、ムーガは時々短い呻き声を上げた。折れたあばらや他の大きな傷が痛むのだった。彼女は傷だらけだった。
「大丈夫か」
そう言って、ベブルはムーガを支えた。
そうしてふたりは歩いていたが、ベブルは咳き込んで、また血を吐いた。彼はムーガよりも更に酷い怪我を負っていた。全身がぼろぼろになっている。
「そっちこそ」
ムーガはそう言って、逆に、崩れそうになったベブルを支えた。
「悪いな」
ベブルは口の周りを拭いながら、微笑った。
ムーガも微笑い返す。
世界が揺らいでいる。
彼らは星の世界を歩き続けた。
音が消えた。
星々の声は聞こえない。
色が消えた。
星々の光はただの模様に過ぎない。
彼らはたったふたりきりで、その世界に生きていた。
傷つき疲れ果てたお互いを支え合いながら歩いていたが、彼らには、自分たちの足音すら聞こえなかった。
だんだんと、彼らの歩みは速くなっていく。
いや、彼らの歩みは変わらない。世界のほうが、彼らの歩みよりも速く、彼らの後ろのほうに流れていくのだ。
彼ら以外の全てが、無慈悲なる女神に支配された、心を失ったものに過ぎなかった。
それらはすべて、虚構だった。
そこにはなにも、存在しないのだ。
そもそも、この世界が存在などしていないのだから。
暗闇の中で、幾多の星々が光の筋となって、遥か前方からやってきては、それと同時に遥か後方へと流れ去る。
彼らはそこを歩いている。
たったふたりで。
そこにだけは、おそらくなにかが存在していたはずだ。
ムーガが立ち止まった。彼女は今まで、空いているほうの手で胸を押さえていたが、いまは額を押さえていた。
「どうした?」
ベブルが訊くと、ムーガは弱々しい声を出した。
「目が、覚めそう……。いやだ、まだ目覚めたくなんか……」
「大丈夫か?」
ベブルはムーガの両肩を掴む。
「いや、朝の光なんか、見たくもない……」
ムーガにはもう既に、彼女のベッドからの風景が見え始めているのだ。
「おい!」
「このまま、このまま“イフィズトレノォ”を倒さないままなんて……、折角また逢えた、ベブルと別れるなんて……。貴方のいない現実になんか戻りたくない!」
しかし、その言葉に反して、ムーガの姿は星空に溶け始める。それを見て、彼女はいよいよ大声で叫び始める。
「いや、いやだ! 消えたくない! わたしはずっと、貴方と一緒にいたい!」
「ムーガ」
ベブルは宥めようとするが、彼女は静まらなかった。
「帰りたくない……。ずっと一生戦う運命でもいいから、貴方と一緒に……」
だが、どうやらそれは叶わないようだった。そのことは、ベブルにもよく解った。
ベブルはムーガを抱き締めた。彼女は静かになる。
「先に帰って、待っててくれ」
「そんな、ベブル——?」
ムーガが何かを言おうとした瞬間、ベブルの手は彼女の顎を捉え、彼女の唇は彼の唇によって塞がれてしまう。
その時世界は、完全な恋人たちの像をつくりあげていた。
ムーガは一瞬驚いていたが、そのまま、なにも言わずに唇を重ねていた。そして彼女は目を閉じ、それに身を任せる。いまにも倒れてしまいそうなほどに傷ついた彼女は、まるでそれに支えられているかのようだった。
ベブルは唇を離した。ふたりとも、離れ難かった。
「——心から」
ムーガは放心したまま、その両目から涙を零していた。
闇の中に、静かに輝く涙。
涙のせいで、彼女にはベブルの顔が見えないのだった。
その涙は頬を伝い、彼女の唇を濡らす。
「わたしは——」
そしてまた、彼の唇が彼女の唇を塞いだのだった。
深い口付けだった。
涙の味がした。
その瞬間に、永久の時が流れた。だが、ふたりは気付いていない。ほんの一瞬のことにしか感じられなかっただろう。
星の世界の中で、ふたりはずっとそうしていた。
「必ず帰る。お前のいるところに」
ベブルはそう言って、ムーガを強く抱き寄せた。彼女も、力の限りに彼を抱き締める。骨が折れていることなど忘れて。
そして、ムーガの姿は星空に吸い込まれていく。
「ベブル、わたしも——」
ムーガの声は涙に詰まらされていた。思うように言葉が出ない。
「貴方を——」
彼女は星明りに消えた。
彼は歩き始める。
++++++++++
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