第二十一章③ 冷たい雨の中で

 ベブルたちの前には“神の幻影イフィズトレノォ”だけが残った。


 女神は、すっと、手を振り翳す。咄嗟にウィードは身を退いた。すると、彼の足元にあった地面が音もなく抉れた。


 『消滅』の力だった。


「ムーガさん!」


 続けて、“イフィズトレノォ”はその両腕で、空間を撫で回し続ける。その度に、空間が、大地が、次々と消えていくのだった。仲間たちはそれを避け、徐々に彼女から離れていく。


 これでは、“イフィズトレノォ”に近付くことさえできない。


「ムーガ!」


 ベブルもまた呼びかけた。だが、その声がムーガに届くことはない。


 女神は空を響かせるその声で、嗤った。


「妾に名などない。妾は神、すべての支配者」


 だから“イフィズトレノォ”だってのか……。ベブルは歯噛みする。“イフィズトレノォ”という言葉が、神代には『支配者』を意味するものだったことは、『隠れ工房アトリエ』で観たオレディアルの過去の中で言及されていた。


 大きく跳んで相手の攻撃を回避しながら、ベブルは考えた。このままでは、全員消されてしまう。第一、近づくことさえできない。いや、それ以前に、“イフィズトレノォ”が乗っ取ってようとも、ベブルがムーガに攻撃できるわけがない。


 雲行きが怪しくなってきた。あれほど晴れていたというのに。


 本格的に消しに掛かろうと、“イフィズトレノォ”はスィルセンダを追った。破壊の女神は両腕を振り下ろす。スィルセンダはそれをギリギリで、大きく後ろに飛んで躱すことができた。だが、少しも余裕はない。スィルセンダの表情は引き攣ったまま固まっている。太い柱を引き抜いたかのように、地面に深い穴が開いた。


 スィルセンダは意を決して、女神に対して“雷の魔法ガーニヴァモス”を唱えた。だが、そんなものではまるで歯が立たない。“イフィズトレノォ”は微動だにしない。


 ウィードが女神の前に躍り出て、囮となって相手を引き付けた。そして次に、ウィードを守るためにオレディアルが囮となる。彼らはそうやって交互に囮を引き受けることで、フィナとスィルセンダ——この集団の中の女性たちを守ろうとした。だが、そんなものがいつまでも通用するはずはない。


 ベブルは相手の攻撃を転がって躱す。そして、すぐにまた立ち上がって走る。


「くそっ! このままじゃ……。いつまで経っても助けらんねえぞ!」


「だからといって、このまま退けぬでしょう!」


 オレディアルがそう答えた。確かにその通りだった。


 ベブルはムーガの恋人であったし、ウィードは彼女の保護者、オレディアルは彼女の弟子で、スィルセンダは彼女の従姉妹、フィナは彼女とは仲がよい。誰も、“イフィズトレノォ”となった彼女を見捨てて逃げることはできない。


 スィルセンダは嘆く。


「一体、どうしたら……」


 周囲一帯の地面は何度も何度も抉られ、土が巻き上げられ、空気は砂埃の霧で満ちていた。視界は極端に悪くなっていく。このまま続けていれば、すぐに“イフィズトレノォ”の攻撃を避けることができなくなってしまうだろう。


 しかし、ふと、ベブルは気づいた。未来の世界ではアーケモスのすべてを破壊していたはずの“イフィズトレノォ”。それが、これだけの時間を掛けても、自分たち五人さえ殺せていないのだ。


 ベブルは確信を込めて呟く。


「まだ、意識は残ってるんだな……。ムーガ……」



 攻撃を躱しながら、フィナがベブルのほうへと走った。彼女は仲間の中では、一番遠くにいたのだ。以前の戦いの後遺症から彼女の足はまだ治りきっていないらしく、その足取りはまだ、ぎこちない。その彼女が、なにごとかを呟いている。彼女は勝手に、ベブルに魔法をかけると、また彼から遠ざかって行った。


 遠くに逃げてから、フィナは言う。


「リーリクメルド! 奴の攻撃の瞬間、『力』を解放したせいで、奴の意識よりもムーガの意識が強くなる!」


 なるほど、そういうことか。


 ベブルは納得した。彼はフィナの作戦に乗るつもりだ。


 ウィードはそのやり取りを見て、その作戦内容を悟る。そして、オレディアルとスィルセンダのいるほうに走り、狂える女神には聞こえぬように小声で告げた。


「ベブルさんには近付かないでください」


 フィナが大きく杖を振り回し、“雷の魔法ガーニヴァモス”を連発した。威力よりも回数を重視したもので、それは明らかに“イフィズトレノォ”に対する挑発だった。


 破壊の女神はそれに気が付き、向きを変え、中空に浮かんだままフィナのほうへ飛ぶ。その方向転換の間も、移動の間も、フィナは女神に雷を落とし続けた。


 女神は両手を掲げ、そこに『すべてを消し去る破壊の力』を灯らせた。その『力』は次第に強大なものとなる。そしてその両腕は勢いよく振り下ろされ、フィナをこの世から消し去ろうとする。


 しかし、フィナはその場を動かなかった。そこで、杖を振り回し続けたまま、立ち尽くしていたのだった。


 作戦内容を知らないオレディアルとスィルセンダは、悲鳴に似た叫びを上げる。


 だが、フィナは死ななかった。


 “イフィズトレノォ”はベブルの前に転送されたのだ。


 ムーガは“イフィズトレノォ”になってしまう前に、フィナによって“被召喚の魔法”を掛けられていたのだ。そして、その召喚先は先程、ベブルの前として再設定された。この魔法をフィナが発動させたために、狂える女神はベブルの前に転送されることになった。


 破壊の女神は両腕を振り下ろし、彼女の前の空間と大地を消滅させた。これはいままでで、最も強力な攻撃だった。ベブルの身長の三倍の距離までの地面に、その二倍の深さの穴を開けたのだから。強烈な光の柱が、上空に向かって打ち上げられ、曇天を貫いた。


 だがそこには誰もいない。フィナはそれよりも、まだ先にいた。


 ベブルは“イフィズトレノォ”を後ろから羽交い絞めにする。狂える女神は身動きが取れない。彼は言う。


「いまなら俺の言葉が聞こえるだろ、ムーガ」


 破壊の女神は呻いた。


「いまが好機だ。“イフィズトレノォ”を引き剥がせ! ……『アーケモスの救世主』!」


 女神は呻きをあげ、ベブルの腕を掴んで離れようとした。彼は放さない。



 遂に彼女は狂ったように叫びを上げ、そして力尽きたように地面に落ちると、そのまま倒れた。気を失っている。


 だが、もはや“イフィズトレノォ”ではないようだ。



 スィルセンダが通信端末を使って、黒魔城の面々を呼んだ。ザンとフリア、ソディ、そしてレミナはすぐに駆けつけ、ことの次第を訊いた。


 ベブルは説明する。“イフィズトレノォ”がムーガの身体を乗っ取ったが、何とか追い返したようだと。


 そのうちに、ムーガは目を覚ます。そして身体を起こし、周りを見廻した。彼女は訊く。


「勝った……、んだよね?」


「お前はどうなんだ?」


 ベブルは逆に訊き返した。確かに、ムーガが“イフィズトレノォ”に勝てたのかどうかは、彼女にしかわからないことだ。


 ムーガはうなずく。


「うん……。勝ったよ。わたしは……、勝った」


 仲間たちは安堵の溜息をつき、微笑んだ。それからムーガは、先程の戦いに参加していた仲間たちに謝る。


「みんな、ごめん。わたしが最初から勝てたら、みんな危険な目には遭わなかったのに」


 その周囲の地面は、何十箇所も酷く抉られ、うっかりすると穴に落ちてしまうほど不自然な地形へと様変わりしていた。


 オレディアルは首を横に振る。


「とんでもない。“イフィズトレノォ”を倒せたなんて、それだけで驚異的なことです。これで、未来のアーケモスは救われます。本当に、貴女のお陰です、ルーウィング師」


 ザンは両手を腰に当て、微笑んでいる。


「何にせよ、よかったじゃないか、ムーガ。“神の幻影”を倒せたんだろ? 予言の怪物を倒したんじゃないか」


 それでムーガは思い出す。


「予言……。そうだ! これでわたしが倒す敵はいなくなったんだ! じゃあ、もう私は、戦い続けなくてもいいんだ!」


 ベブルはムーガの両肩を掴む。


「そうだ。確かにそうだ。お前はもようやく、義務から解放されたんだ。よかったじゃないか」


「うん!」


 ムーガは喜びの涙の粒を目に浮かべ、微笑んだ。


 弾けんばかりの美しい笑顔だった。



 しかし、いつの間にやらザンたち黒魔城組四人がいなくなっていることに、ベブルは気づいた。彼は、いままで話をしていたムーガが知るはずはないと思い、二番目に近くにいたフィナに訊ねる。


「デューメルク、ザンはどこに行ったんだ?」


 なにやら、フィナは難しい表情をしている。彼女は首を小さく横に振った。


「消えた」


「はあ?」


 ベブルは顔を顰めた。


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