第十九章③ 救世主、そして悪魔たち

 ところが、ベブルは立ち止まった。不意に、目に見えるほどの空間の歪みが起こったからだ。

 

 ベブルとファードラル・デルンとの間の空間が、曲がった。


 そしてそこに、が出現したのだ。ベブルが『自分の母の墓』と呼んでいた、レイエルスの神殿の奥にあったはずの石碑が——。


 それにはベブルも仲間たちも驚いた。なぜこの石碑がひとりでに出現したのか、理解できるはずもなかったからだ。


 石碑の表面が波打ち、そこから、ひとりの男が姿を現す。


 その男は出て来るなり、名乗りを上げる。


「我が名はオルス。万物の根源にして世界の支配者である」


 この男こそは、レイエルスでベブルたちを襲撃した者だった。そのときは、オルグス神の身体に入っていたが——。


 いまのオルスは、肌にまるで血色がない。代わりに、顔には深紅の奇妙な刺青が入っている。そして、以前、濃青色だった髪の色は、真っ白になっている。瞳は紅く、耳は長く、動物のように毛に覆われている。服は全体的に白い印象のもので、袖無外套を羽織っている。


 全体的な印象は変わってしまっているが、オルスはやはり、ウィードと瓜二つの顔をしていた。しかし、オルグスにあったような顔の傷はない。


 ファードラル・デルンは謎の侵入者に対して、近付いて行く。


「貴様! 俺の城に、どこから侵入したのだ。加えて、世界の支配者たるこの俺の前にての無礼な物言い、断じて赦せるものでは——」


 オルスは、ファードラルに向けて、すっと手を差し出す。そして、彼の頬に触れる。


 すると、ファードラルは頬から消滅を始めた。そこから砕けて、割れて、消えていく。


「お、おおおおおお……」


 奇妙な悲鳴を上げながら、ファードラルは後じさりした。だが、そうしたところで、その破壊の『力』から逃れられるわけもない。


 ファードラル・デルンは消滅した。百八十年間アーケモスを支配し続けた悪魔は、あっけなく、この世から消え去ったのだ。


「これが、以前は見せられなかった、俺の力だ」


 オルスは、そう言って、ベブルのほうを見て笑った。



「何ということだ……。もうレイエルスの“神の幻影”は、アーケモスに到達していたというのか……」


 そう呟いたのはオレディアルだ。彼に剣を向けたまま、ウィードも驚愕している。


「そんな馬鹿な……、あいつは、ベブルさんが倒したはずなのに……!」



「お前」


 オルスはベブルを指差した。ベブルは顔を顰め、彼を睨み付ける。だがそれだけでは、彼が動じることはない。


「そうだ、お前だ。この前は、よくもやってくれたな。あれで勝ったと思うな。あのときは、俺の身体はのだったのだ。だがいまは違う。俺はで来た。今度は、お前のような人間の攻撃は、なにひとつ効かないのだ。しかと恐怖するがいい。いくぞ!」


 オルスは床を蹴り、ベブルに向かって駆け出した。彼の外套がなびいていた。彼は拳を突き出す。だが、それをベブルは、あっけなく躱してしまう。


「何だと?」


「素人が」


 逆に、ベブルがオルスの顔に拳を叩き込んだ。オルスは殴り飛ばされ、床の上に倒れ込む。彼は、頬を押さえ、震えながら、それでも立ち上がる。


「そんな莫迦な……。俺たちには、人間の攻撃は通用しないはずなんだぞ……。なぜだ、なぜ痛む!」


 ベブルは腕を組んでいる。


「馬鹿はお前だ。俺に殴られたら痛いに決まってんじゃねえか」


「くそう、お前とは戦えると思ったのに、こんなことがあるわけがないのに。もう遊びは終わりだ。俺を怒らせたら怖いのだ。もう手加減抜きだ。もうお前は消えてしまえ!」


 そう叫んで、オルスはまたも駆け出した。まだ彼は、ベブルに殴りかかるつもりなのだ。だがその拳は、空間を破壊しながら、奇妙な音を立てている。『すべてを消し去る破壊の力』が、彼の拳にまとわり付いているのだ。


 その瞬間、フィナが“炎の魔法”を放つ。魔法がオルスの肩に直撃し、彼は身体の軸をずらされてしまう。攻撃は空振りした。


「じゃあな」


 反対に、ベブルがオルスの腹を殴り飛ばす。『破壊の力』を纏った拳で。


 オルスは撥ね飛ばされ、倒れていた。そして、その痛みに呻いている。だが、彼の身体が消滅することはなかった。ベブルの『すべてを消し去る破壊の力』では、オルスを消すことはできないようだ。その一点だけでも、オルスは尋常ならざる存在といえる。


 だが、激痛はあるようだった。悶えたまま、オルスは起き上がることさえできない。


 それでも、ベブルが歩いて近付いてきているのに気がつくと、なんとか無理矢理に身体を起こし、『石碑』のほうへと這って行った。


「そうか……、読めたぞ。お前が、『』だったのか」


 ベブルには、オルスがなにを言っているのか、まったく理解できない。アーケモスに対する脅威なのは、オルスのほうなのだから。


「覚悟していろ、今度は、仲間を呼んで来てやるからな。次は負けはしない」


「待て——!」


 ベブルはオルスを止めようとしたが、間に合わなかった。オルスは『石碑』に吸い込まれ、そして同時に『石碑』も消えたのだった。


 ベブルは呟くように言う。


「何だったんだ……、あいつは」



 ウィードは、オレディアルに向けている魔剣を消した。すると、床に両手を付いているオレディアルは彼に言った。


「なにゆえ剣を消す。私を殺さなくてはならないだろう!」


 ウィードはそこに立ったまま、オレディアルを見下ろす。


「デルンはもう、滅びました。貴方が僕たちに剣を向ける理由はもうないはず。だから僕も、貴方に剣を向けることはしません。それにいまは、“神の幻影”を滅ぼすという、共通の目標があると思うんですが」


「私を……、許してくれるのか」


「許しませんよ。貴方には、すべてを片付ける義務がある。貴方はこれから、その命を賭けて、ムーガさんのために“神の幻影”と戦う。違いますか?」


 いつの間にか、座り込んでいるオレディアルの目の前に、ムーガが立っている。彼女は疲れ切った、ぼんやりとした瞳で、彼を見ている。


「オレディアル……」


 オレディアルはムーガの前に跪く。


「ルーウィング先生! 私は、数え切れぬ過ちを犯しました。貴女に許されなくてもいい。ですが、いましばらく、私に命をお与え下さい。貴女に借りたこの命で、命を賭けて、必ず“神の幻影”を斃します。どうか……」


「顔を上げて、オレディアル」


 ムーガはゆっくりと、そう言った。オレディアルは言われたとおりにする。彼女は、優しく微笑む。


 だがその瞬間、ムーガの平手打ちがオレディアルの頬に炸裂した。


 その場にいた全員が、息を呑む。


「オレディアル。わたしはそんな、弱い人間になるようにと教えた覚えはないよ。どうして自分のやり方を曲げたの? “イフィズトレノォ”を倒すんでしょう? なのにどうして、わたしやベブルや、フィナを狙ったの?」


 オレディアルは後悔の涙を流している。


「すみません、先生。すべては……、私が強くなれなかったから……」


「ほら、もう立ちなさい」


 ムーガは、オレディアルの腕を掴み、彼を引き上げようとした。しかし、そうしようとした彼女が、逆に、体勢を崩して倒れそうになる。彼女はまだ、『力』を使った分の反動を引き摺っているのだった。ベブルが彼女を支えにいこうとするが、その前に、オレディアルが立ち上がり、彼女を支える。


「私は誓います、先生。必ず、“神の幻影イフィズトレノォ”を倒します。貴女を使って世界を崩壊させるなどということは、絶対にさせません」


「そう言ったからには、ゼンベルウァウルの分まで、最後まで戦ってもらうぜ、ディグリナート」


 ベブルがオレディアルの近くまで歩いて来ていた。


「お前、ムーガの弟子みたいなもんなんだろ? 恥をかかせてくれるなよ」


「解っています。もう私は、最後まで“神の幻影”と戦うのみです」


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