第十七章⑩ 安息のために
また、オレディアルが駆けているところだった。だが、その先にいるのは先程の少年ではなかった。ひとりの老婆だった。
そこは、暗く、陰気な部屋だった。明かりは蝋燭一本だけだった。
「ジュジ様」
オレディアルが口に出したそれは、その老婆の名前だった。彼の声は低くなっており、少年時代を過ぎたことを物語っていた。
椅子に座っている老婆は、ゆっくりと答える。
「何だね、オレディアル」
「私は、飢えに苦しむ人々、“神の幻影”の脅威に晒されている人々を救いたい、その一心で、この『白き救済者』の一員となりました。そして実際に、物資輸送、魔獣討伐に専念して参りました。ですが……」
「どうしたというのだね?」
そう言いながらも、老婆はこちらを向かなかった。オレディアルはうつむく。
「ですが……。私たちのしていることは、本当に人々の救いになっているのでしょうか?」
「なっているに決まっているだろう。現に我々は、人々の要求に適っている。そうだろう?」
老婆は壁に向かって話していた。
「いいえ、人々の要求とは、穏やかな時の世界です。食べ物を確保したり、凶悪な魔獣を退治したりすることは、確かに彼らの要求です。しかし、彼らの本当の願いは、そんな一時的なものではなく、“神の幻影”を葬り去ることです」
「……それはできぬ」
「どうしてです!」
オレディアルは声を荒らげた。
「神の意思に逆らうことは、我々にはできぬのだ。我々の世界をつくりし、レイエルスの神々。その最高位の神の幻影が“
「しかし、それでは、我々は永久にこんなことを繰り返さなければなりません。どうして、レイエルスの神はこんなことをなさるのです?」
老婆は昔話をするように言う。
「大昔のことだ。神界レイエルスと魔界ヨルドミスとの間で戦いがあった。結果、双方が滅ぶことになった。だが、神が滅ぶことがありえようか? 神はすべての支配者なのだから。そしてその神は、このアーケモスに戻られたのだ。ヨルドミスとの戦いでお怒りになられたまま」
オレディアルは当惑する。
「そんな……。では、これは神の怒りの……、しかも、我々に対する怒りではない、というのですか? そんなことが……」
「……我々に対する怒りでもあるのだ。レイエルスとヨルドミスとが戦っている間に、我々アーケモスの人間が平和を貪っておったからだ」
「では、ではどうすれば良いのです? どうすれば、私たちは赦されるのです?」
「我々が神を畏れるしかない。そして、我々は我々で生き延びるしかないのだ」
「では、このまま、このままの世界で生きていくしかないのですか? 苦しんでいる人々は、一生苦しんで生きていかねばならぬのですか? これほど簡単に街が破壊され、あるところでは世界そのものの消滅が始まっています。怒りが治まるのを待つなんて、悠長なことは言っていられません」
老婆はすぐには答えなかった。それから、少ししてまた言ったが、それは論点が異なっていた。
「オレディアル。お前は、もっと真面目な人間であったはずだ。どうしてそんな余計なことを思った? 誰に吹き込まれた?」
オレディアルは答えに詰まった。だが、ややあって、白状する。
「黒ローブの人々が言っていたのを聞いたのです。魔術師を集めて“イフィズトレノォ”と戦うと。彼らが言うには、奴は元々人間であったと……」
老婆はさも恐ろしいことを聞いたかのように震える。
「愚かな。なんと愚かな。“イフィズトレノォ”の怒りを逆撫でるつもりか。このまま耐えるのだ。そうすれば、世界は滅ばぬ」
老婆の物言いに、オレディアルにはもう我慢ができなくなった。
「それは……、それは、貴女が生きている間の話だ! 我々が”イフィズトレノォ”に牙を剥けば、すぐに世界は滅ぼされるでしょう。だが、待っていても、いずれ世界は滅ぼされる! それならば、戦うまでだ!」
「なにを愚かな……、オレディアル! オレディアル!」
オレディアルは老婆の叫びを振り切って、その部屋を出て行った。
暗闇に包まれた廊下を走っている間に、彼は呟いた。
「ルーウィング師は……、一体どこに行かれたというのだろう。世界を救うのは、あの方しかいないというのに」
〜〜〜
ムーガの声が震えている。
「わたしには、世界が救えなかった……? わたしを待っている人がいるのに……?」
ベブルはムーガの肩を抱く。
「落ち着けよ。考えるのは、最後まで見てからだ」
「次に行くぞ」
装置の外からナデュクが言った。
〜〜〜
次の記憶は、初めから騒がしかった。洞穴の奥で、いくつかの壊れかけの卓を囲み、人々がそれぞれ御椀一杯の食事を取っているところだった。オレディアルも、その中で食事を取っていた。彼は二十代の青年に成長していた。
騒がしくなっているのは、和気藹々と食事をしながら会話を弾ませているからではなく、ここへ“神の幻影”が襲来したという報告が入ったからだ。
人々は我先にと洞穴の奥へと逃げ込む。
ただ、白いローブを着たものたちが、それとは逆に、洞穴の外へ飛び出していった。それぞれ武器を手に。オレディアルの武器は、このときすでに魔導銃剣だった。
「奴が来やがったぞ、オレディアル・ディグリナート」
「私はこの日を待っていたんだ」
オレディアルはそう言いながら、魔導銃剣を構える。周りの魔術師たちも、杖や魔剣、そして魔導銃など、それぞれの武器を手に、襲い来る恐怖を待ち構えていた。
見渡す限りの荒野。その遥か向こうから、謎の物体が飛来する。
〜〜〜
「あいつが……、“神の幻影”なのか?」
ベブルが言ったが、フィナもムーガも、その映像に見入っていて、返事をしなかった。
〜〜〜
魔術師たちが呪文を唱え始める。魔法は遥か遠くのそれにはなかなか当たらない。当たっても、大した損傷を与えられていないように見える。
次第に、それが物凄い速さを持って接近してくる。魔法は当たるようになり、魔導銃の射程圏内にも入った。近くで見ると判ったが、それらの攻撃はすべて、当たっているのに効果を発揮しない。
オレディアルは、“イフィズトレノォ”の姿に驚いた。
〜〜〜
「お、おい……」
ベブルは言いかけたが、それ以上、なにも言えなかった。いや、その声さえも、彼が意図したものではなかった。驚きのあまり、声が漏れ出ただけだ。
その“イフィズトレノォ”の姿は、いま彼が肩を抱いている女の姿だったのだ。彼女は、それを見て、彼の腕の中で小刻みに震えている。
〜〜〜
“神の幻影イフィズトレノォ”は、オレディアルの魔法の師匠である、ムーガだったのだ。オレディアルはこの十五年ほどですっかり成長しているというのに、彼女は失踪時から全く変わらぬ若さと美しさを保っている。しかも、これだけ魔法と魔導銃弾を浴びているというのに、少しも傷つくことがない。
「ル、ルーウィング先生!」
魔導銃剣を構えながらも、オレディアルには行動を起こすことができなかった。目の前の敵は、自分がずっと尊敬してきたムーガ・ルーウィングの姿をしているのだから。
虚ろな目をした女神は大地に降り立ち、手を一振りした。するとそれだけで、その周囲にいた魔術師たちが弾き飛ばされ、後方の岩場に打ち込まれた。その驚異的な速さから察するに、間違いなく命はないだろう。
斬りかかった魔剣使いたちが、次々に殺されていく。それはもはや、虐殺という言葉が過不足なく当てはまるものだった。
「だ、駄目です、ルーウィング先生!」
オレディアルは武器を構えるのをやめ、叫ぶように訴えた。
「止めてください、貴女は、こんなことをする人じゃない! 貴女は、世界を守る宿命を——!」
その瞬間、弾き飛ばされた男の死体が、オレディアルに激突した。その衝撃で、彼もまた岩場に叩き込まれる。そして、彼の意識は暗転した。
オレディアルが目を覚ましたとき、そこにあったのは、岩と、かつて共に生きていた仲間たちの遺骸だけだった。
オレディアルは岩場から這い出し、よろよろと立ち上がった。骨を折ったようで、右腕が激痛に襲われていた。それに、両足も痛かった。彼は覚束無い足取りで歩いた。彼は全身、血塗れだった。
荒野の真っ只中に、彼だけがいた。
そしてオレディアルは見た。
大勢の人々がいたはずの洞穴が、そっくり、跡形もなく消滅しているのだ。最初から、そこには何も存在していなかったかのように。
オレディアルは寒気と
絶望が彼を立てなくした。彼は、荒野の中心に崩れ落ちた。そして、日の光を遮る分厚い雲に覆われた、くすんだ空を見上げた。
最後の望みは絶たれた。その望みこそが、絶望の作り手だったのだから。
救いの手が差し伸べられることは、永久にないのだ。
彼は叫んだ。
〜〜〜
「それじゃあ……、次に行くぜ」
ナデュクはそう言ったものの、作業の手を止めた。ベブルたちのほうから返事がないからだ。どういう気持ちであるか察しが付いているので、彼はそれ以上話し掛けるのを諦めた。
ムーガは、震えた、掠れた声で、押し出すように言う。
「わたしが……、わたしがあんなふうに、世界を滅ぼすの……? どうして?」
外から、ウェルディシナが答える。
「“イフィズトレノォ”に取り憑かれているんだ。もっとも、この当時の『星隕』はルーウィング本人が“イフィズトレノォ”なのだと思っていたようだが」
そのあとを、ディリアが続ける。
「そうね。そのことには、そのあと数年で気付くようだけど。……それから、世界がこんな風になるってことには、わたしたちもそれぞれ気付いていたのよ。生魔法学的に、古代魔法学的に、そして、時空学的にね」
ナデュクは頷く。
「その通り。ここから数年後、オレディアルは“イフィズトレノォ”と戦おうとするが、未来の連中はみんな、“イフィズトレノォ”を恐れて戦わなくなっちまう。そもそも、戦える奴がアーケモスじゅうで散り散りになってるんだからしょうがないわな」
また、ウェルディシナが言う。
「だが、奴は戦おうとし続けた。仲間を集め続けた。だが、戦いの度に仲間は死んでいったそうだ。そして、三十七歳になる年に、見つけたのだ。デルンの造った『時空の指輪』を」
それから、ディリアが淡々と語る。
「『星隕』は四つの『指輪』を見つけた。その四つは全て、宝石が三つ嵌っていたわ。でも、ひとつは三回過去に行けるもの、残りのみっつは一回未来に、そして二回過去に行けるものだった。彼は三回過去に行ける『指輪』を嵌め、そして三十年前の世界に飛んだ——わたしたちの時代よ」
再び、ウェルディシナが続ける。
「そして、奴は三人の仲間を募った。白いローブの人間に失望していた奴は、『アールガロイ真正派』から人材を探した。そして、自分自身も白ローブを捨て、黒ローブを着ることにした。だが……、ルーウィングと同じ印は捨てられなかったようだ」
ウェルディシナの言うとおり、確かに、オレディアル・ディグリナートの防具にはルメルトス派の印が描かれていた。フィナはそれに気づいており、妙なものだと思っていたが、ようやくその答えを得た。
そして、装置の外から、ナデュクがまた言う。
「こうして俺たちは集まった。そして、『星隕』と共に、三十年後の世界に向かったわけだ。あれだけ荒廃した世界を見て、そりゃ面食らったさ。それで、すぐにでも“神の幻影”を始末してやろう、ってことになった」
そこまで聞いて、ベブルは気がついた。
「お前ら、“神の幻影”と戦ったのか?」
「そういうことだ。まあ、それは見てくれ」
ナデュクは答えた。どうやら、笑っているようだ。だが、顔が見えないのでどういう表情でそう言ったのかはわからない。彼は外で、装置を操作しているらしい。
「これが最後の映像だ」
〜〜〜
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