第十六章② 望まぬ戦い

 廊下に出ると、ベブルは隣の部屋に入った。そこには、寝台に横たわっているフィナと、こちらを見て震えながら彼女に銃口を向けている白ローブの魔術師がいた。


 ベブルは立ち止まり、その魔術師の男を睨み据えた。すると、その男は震える声で彼に言った。


「う、撃つぞ」


「撃ったら殺してやる。大人しくしていれば見逃してやる」


 すると男は答えに詰まり、フィナに銃を向けたまま、なにも言わなかった。ベブルはその男を無視し、再び歩き始める。


「く、来るな!」


 男は叫んだ。しかしベブルはそれを聞かずに、フィナのほうへ行く。男の持つ魔導銃ががたがたと震えている。


「うるせえよ」


 ベブルはその男の腹を蹴り飛ばした。男は叫びを上げて倒れ、気を失う。持っていた魔導銃が手を離れ、床を転がった。


「そこで大人しくしてろ」


 ベブルは気絶した男にそう言い捨てると、フィナを担ぎ上げ、屋敷を後にした。


++++++++++


 空は曇ったままで、気温は低く肌寒かったが、雨は止んでいた。


 暗闇の中を、ベブルはフィナを負ぶって歩いていた。霊峰ルメルトスの更に高みへと。


 高くへ登るに連れて、足場はどんどん悪くなっていく。普段人間が踏み込まない領域へと向かっているからだ。


 ラトル街側から霊峰ルメルトスを越えると、その先にはパーラス荒野があるはずだ。ザンの話では、この荒野は魔王側の支配地域だったはずだ。ベブルは何としてでもそこへ向かう覚悟だった。


 空が白んできた。朝がやって来たのだ。依然として空は曇っていた上に、霧までもが出て来たが、太陽からの光が強くなったために、足許が見やすくなった。


 ごつごつとした岩肌の地面で、周辺に草木は見当たらない。振り返ってみても、霧と空が続くばかりで、ラトルの街はおろか、ヨクトの屋敷すら見えなくなっている。


 踏んだ足元の石が砕け、転びそうになることは何度もあった。本格的に、人間の進入しない地域へと突入したようだ。


 そして、途中何度か魔獣に遭遇することがあった。


 どれもベブルにとって苦戦する相手ではなかったが、一番頑強だった魔獣は、大狼の魔獣ファンディアだった。ファンディアは、スィルセンダが好んで乗り回していた種類の魔獣だ。そうはいうものの、飼い馴らされていない魔獣は凶暴だった。背中にフィナを負ぶっていて両腕の使えない彼は、蹴りだけでその魔獣を倒し、先へと歩みを進めた。


 夜になれば、ベブルはフィナを岩肌の地面に横たえ、彼自身はその傍に座って浅い眠りについた。いつ魔獣が襲い来るかわからないため、彼は横になれなかった。そして、できるだけ早くこの山岳地帯を抜けるため、ほんの少しの休憩を取るとすぐに、彼はまた彼女を背負って歩き始めた。


 立ち上がるときに、ベブルは自分の体の動きが酷く悪いことに気が付いた。闘技場で強化“アドゥラリード”と戦ってから、少しも休んでいないのだから。


 早く人里に到達しなければ、フィナの命が危ない。



 ベブルは思う。最初にこいつに会ったときには、その場でぶち殺したいと思ったくらいむかつく奴だった。最初の出会いのときに、『紅涙の魔女』が邪魔をしなければ、俺は間違いなくこいつを殺していただろう。


 それなのにいま、俺は、こいつの命を救うために歩いている。


 なんでだ?


 そうだ。戦いの中で、俺はこいつに世話になったからだ。


 こいつは戦友だ。


 俺はこいつを死なせたくない。


 最も頼りになる戦友として。


 絶対に生き延びろ、デューメルク。



 結局、山越えにはまる四日を要した。ノール・ノルザニからラトルまでには五日間、そしてこの四日間だ。フィナが重傷を負ってから、既に九日間が経っている。彼女はこの九日間、一度も目を覚ましていない。


 だが、二日ほど前から、フィナは寝言でなにかを言うようになり、まだ生きているという確信が持てるようになった。ルメルトスの屋敷で受けた治療は、一応の効果はあったようだ。それに、彼女の体温は少しずつ戻ってきている。


 とはいえ、やはりまだ危険な状況にあった。フィナは九日間飲まず食わずなのだ。急激に痩せてしまっているのは、少し見ただけでよく判った。このままでは危うい。



 山を越えたものの、ベブルは、目の前に広がる荒野に愕然とした。人里に見えるものは、なにもなかったのだ。


 しかし、ベブルは歩き出す。進むしかないのだ。


 空は青く晴れ渡っている。


 その空が、歩くよう命じたのだ。


 ベブルは時間の感覚を失っていた。


 気付けば、星空の下を歩いている。


 何万もの星々が見つめている。


 日が暮れるまでに何度魔獣と戦っただろうかと、ベブルは思う。しかし、どの記憶も今日のもののようであり、また同時に、遥か昔のことのようにも思われる。もうなにも、はっきりとはわからない。


 最も近くでベブルを見下ろしていたのは、月だった。


 淡く緑の光を放つ、大きな星。


 ベブルはその星を見たが、その星は見る間に輝きを増し、目を眩ませた。


 光の中を歩いている。



 そして遠くに、ノール・ノルザニにあったはずの、母の墓が見えてきたと思ったところで、ベブルの記憶は途切れた。


++++++++++


 水がなければ生きていけぬ魚のように、彼もまた、空間がなければ存在できぬ肉体をもった存在なのだ。


 そしていままた、この世界が波打っているのだということが、彼には判った。


 頬の傍で、そして胸の中で、世界が揺らめいている。


 時の大海原が揺らめいている。


++++++++++

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