第十六章

第十六章① 望まぬ戦い

 空は黒い雲に覆われ、灰色の豪雨が降っている。


 彼はこの寒い日、ラトルの街に到着した。


 その街の誰もが、彼のことを知っていた。この街の支配者である大魔術師、ファードラル・デルンへの反逆罪によって、発見し次第誅殺すべしとされていることも。


 彼がこの街に侵入したという話は瞬く間に住民たちに広まり、彼らは銘々武器を持って彼を迎え撃とうとした。


 しかし、雨に濡れ血に汚れたその男の両目に睨みつけられると、住民たちはその場からまったく動けなくなった。


 それは冷たく、静かな瞳だった。


 しばらく睨み合いが続き、両者共に動かなかった。そして、住民たちはようやく、彼が背になにかを負っていることに気づいた。


 もはや、冷たくなって動かない女がそこにいた。


 彼はこの酷い雨の中、彼女を背負ってずっとここまで歩いてきたのだ。


 彼の侵入を阻止すべく集まったはずの人々は、逆に、彼に道を開けた。そして誰も、彼に手出ししなかった。


 彼が、恐ろしく、冷たく、そして悲愴に思われたのだ。


 動かない女を背負ったまま、彼は歩き去った。


 住民たちは、そこから少しも動かずに、彼の背姿を見ていることしかできなかった。


++++++++++


 “アドゥラリード”との戦いで重傷を負ったフィナを背負って、ベブルは五日間ずっと歩いた。崩壊したノール・ノルザニの街から最も近い街、ラトルへ。そして、そのラトルの近くの山、霊峰ルメルトスへ。


 ルメルトスには父、ヨクト・ソナドーンが住んでいる。ベブルは不本意ながらも、父に救いを求めることにしたのだ。


 ベブルは父ヨクトに、ルメルトス派の魔術師として後を継ぐように望まれていた。彼はそうする気はさらさらない。ここに来るのは、怒りにまかせて父の庵を破損して立ち去って以来のことだ。



 ベブルは自分の父が嫌いだった。より正確に言えば、憎んでいた。


 それというのも、母が死んだときに、父がその原因となったからだった。だが、ベブルはその原因を上手く思い出せない。正確にいえば、母の遺体に対面した記憶すらない。父は、妻を失っても依然として『懸崖けんがいの哲人』として人々に尊敬され愛され続け、死んだ妻のことで悲しむ素振りはなかった。それは覚えている。


 ベブルは、顧みられることのない母が哀れだと感じていた。それゆえ、妻を愛することのなかった父を憎んでいた。


 ベブルが魔術師として後を継ぎたくないのも、このことが関係している。


 母はかつて、ノール・ノルザニに住む大魔女だったと聞いている。ベブルは、ヨクトが彼女と結婚した理由について、どうせ、立派な跡取りが欲しかっただけなのだろうと思っている。


 ベブルの中では、母の印象はいつも彼の家の石碑と共にあった。なぜそう思ったのかは、本人にもわからない。だがそのために、彼は母を失うと、その石碑が母の墓と同じように思われた。


 その石碑に神界レイエルスの古代文字が描かれていると判明したのは最近のことだ。そのため、ベブルの母は神ではないかとまで言われた。だが、彼にとっては、母親が魔術師であろうと、レイエルスの神であろうと、どうでもいいことだった。母の存在そのものを踏み躙った父が憎い、彼にはそれだけしかない。



 いまでは、ルメルトス派の庵は、厳めしい屋敷へとその姿を変えていた。


 ベブルはその門を叩き、雨に打たれながら誰かが出てくるのを待った。暫くの後、門が開くと、出てきたのは疲れた顔をした白ローブの魔術師だった。彼の知らない男だ。


 ベブルは、自分がヨクト・ソナドーンの息子であると言うと、中へと案内された。



 身体じゅうの骨を折り、頭を酷く打っていたフィナは魔術師たちの手当てを受け、寝台に寝かされていた。彼女は一向に目を覚まさないが、このまま安静にしていれば何とか持ち直すだろうということだった。彼女は汚れきった服を魔法で洗ってもらい、別の服に着替えさせられた。


 ベブルもまた、服を修復して貰った。ふたりとも、闘技大会に出るために変装していたため、他の服が残っていたのが幸いした。フィナが目を覚ませば、元の服を喚び出すことができるだろう。だが、なぜか彼自身は怪我の治療をしてもらえなかった。


 白ローブの魔術師たちが部屋を出て行くと、ベブルは壁にもたれて座り込んだ。フィナは隣の部屋で眠っている。彼が見たときには目を覚ます気配はなかった。


 ベブルの目はじっと、薄暗い部屋の中で、床の敷石の繋ぎ目を追っていた。別に、そうすることには意味はなかった。そうしながら、彼はずっと考え事をしていたのだ。これまでに起こった出来事は、あまりにも錯綜しすぎている。


 それにしてもと、ベブルは思う。歴史改変というのは本当に恐ろしいものだ。ノール・ノルザニで再会したゼスは、元々陽気で、特段、好意を抱くような相手ではなかったが、それでも、人を罠に陥れるような卑劣漢ではなかったはずだった。それが変わってしまった。一体これまでに、どれほどの歴史が改変されたのだろうか。


 ノール・ノルザニでは石碑の文字を読むことに失敗した。それは、魔王ザンと大帝デルンの戦いを有利に進めることに失敗したことを意味する。


 このままいけば、ザンはファードラル・デルンに負けるだろう。そうなれば、ザンも、ソディも、フリアも、レミナも、みんな殺されてしまう。そして、未来にいるムーガやスィルセンダ、そしてウィードの命も危ない。ムーガたちには、歴史を元に戻すと約束したが、その約束はいまだ果たせていない。


 ベブルには、計画を立て直す必要がある。フィナの意識が回復すれば、時間移動が可能になる。過去の時代に行って、ザンの持つヨルドミスの先進文明の力を借りたほうが、彼女の完全復帰は早まるだろう。そして、そこでザンと作戦を練り直そう。ファードラルとの再戦には、十分体勢を立て直してから臨んだほうがいい。



 ベブルが顔を上げると、突然扉が開いた。


 現れたのは、ヨクト・ソナドーンだった。そして、多数の白ローブの魔術師が、彼に付き従って来ていた。魔術師たちはそれぞれに魔導銃を持ち、その銃口を座り込んでいるベブルに向けている。


「何だ」


 ベブルはそう言った。するとヨクトは、ぞんざいにこう言った。


「よくもおめおめ戻って来られたものだな」


「は?」


「この人殺しめが」


 なにを言っているのか、ベブルには解らなかった。


 ヨクトはベブルが考えている間、口を噤んでいたが、また口を開く。


「この生まれついての殺人鬼め。貴様が私の実の子であるということが、我が人生最悪の汚点だ」


「うるせえよ」


 ベブルはそう吐き捨てた。ヨクト、そして白ローブの魔術師たち全員の眼が、彼の目と合った。汚物を見るような、怪物を見るような、鉛玉のような、眼。


 ヨクトが口を開く。ベブルには父の声が、気持ちの悪いほど間延びしたものに聞こえる。


「貴様が初めに人を殺したのは九つの頃だ。貴様のために、レイメはデルン陛下の手勢によって殺されたのだ。貴様は生まれてはならぬ者であったのだ。早々に陛下に受け渡せばよかったのだ。だが、愚物に情を移したレイメは、貴様などを守ろうとしたために、処刑場に連れゆかれたのだ。この悪魔め。その後も、貴様がいたために、どれほどの無辜の人間が命を奪われたことか」


「何だと? 貴様がお袋の名を口にするんじゃねえ。お袋を殺したのは貴様のほうだろうが」


 それを聞くと、ヨクトは笑った。快い笑いではない。嘲りの笑いだった。


「人にあらぬ獣の分際でよく吼えおるわ」


 そしてヨクトは、傍の魔術師たちに命令する。


「おいお前たち、もう撃ち殺せ。デルン陛下に差し出すのだ」


 そうすると、すべての魔導銃から、何の躊躇いもなく、魔法が撃ち出される。ベブルは立ち上がり、それを身体に受けながら、魔術師たちのほうに向かって駆け出した。


「馬鹿な!」


「ば、化け物め!」


 白ローブの魔術師たちの何人かはベブルを恐れ、後じさった。


 そんな中でも、一番前に立つヨクトは一歩も退かなかった。そして彼は、ベブル目掛けて魔法を放とうとする。


 それを見るやベブルは再加速し、ヨクトを殴り飛ばした。それに驚き、魔術師たちは飛び退き、間合いを取って彼を射撃する。攻撃を受けながらも彼は跳ね回り、片端から魔術師を殴り倒し、蹴り倒す。


 ヨクトを始めとしたルメルトスの魔術師たちは全員床に伏し、ベブルだけが立っていた。彼は床の上に転がっている男たちを一瞥すると、歩き始めた。


 ベブルはその身の魔法耐性の高さによって、ほとんど無傷だった。

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