第十五章⑤ 狂乱の遊戯は赫く
少女は駆けていた。
彼女の黒い髪は、跳ねるように駆けている足踏みのリズムに揃って、柔らかく上下していた。
少女の目指す先には、ひとりの女性の姿。この女性こそが、少女にとっての知識の人だった。女性は、少女の知りたいことを数多く知っていた。
「教えて!」
黒髪の少女がそう言うと、その女性は黄金色の髪を掻きながら微笑んだ。
困ったように。そして、やや哀しそうに。
「だってこれ、貴女の故郷の文字なんでしょう?」
「もう誰も使わないよ。それでもいいの?」
駆け寄ってきた少女の小さな両肩を、女性は優しく両手で受け止めた。
少女は少しも躊躇わなかった。
「でもいい。魔法を勉強するためには、この文字の方がいいんでしょう?」
「ええ。でも、そうなるまでには、時間が掛かるよ」
「でもいい! どれだけ時間が掛かったっていい! 魔法のためにならなくてもいい! わたしは知りたい。できるだけ沢山のことが知りたいの!」
金髪の女性は微笑む。
わたしは知りたい。
そのことばは、特別なものだったんでしょう?
だから——。
++++++++++
青く澄んだ空のもと、ベブルとフィナは、土の道が彼方まで伸びている街道を歩いていた。
ザンとともに黒魔城に帰ると、ベブルたちはそこから百二十年前の過去へ飛び、過去の黒魔城の転送装置を用いて、過去のノール・ノルザニ付近へと飛んだ。そして、そこからまた百二十年後の現代へ飛ぶ。
現代のノール・ノルザニの街は、ベブルたちの行く先にあった。じきに、ふたりはその街に到着する。
指名手配されているということなので、ベブルとフィナは、街の中を堂々と歩くわけにはいかなかった。そのため、こっそりと闘技大会場を目指すことにする。ベブルの母の墓――石碑は、闘技場の裏手からほど近い場所にあるはずだ。
誰にも怪しまれることなく、順調に、徒歩で進んで行けた。ふたりは闘技大会会場のある、ノール・ノルザニの北東部へと向かっている。
道中、ふたりは言葉を交わすことはあまりなかった。
しかしここで、ベブルがフィナに質問する。
「おい、デューメルク。お前、どこであんな文字の読み方なんて覚えたんだ?」
これはベブルが、ずっと疑問に思っていたことだった。フィナが例の文字を読んだときから、ずっと。
しかし、フィナは答えないでいる。仕方がないので、ベブルはまた訊く。
「なにかの本に書いてたのか?」
フィナはかぶりを振る。
「俺の親父が知ってたのか?」
ベブルの父は、フィナの魔法の師匠だ。だが、彼女はまた首を横に振る。
「じゃあ何なんだよ。あれは、ソディにも読めねえ、神でも読めねえ古代文字なんだ。レイエルス神殿の文字で、俺の家にしかなかった文字なんだ。お前はどこで覚えたんだよ」
フィナはずっと、ベブルの顔を見なかった。少しうつむいたまま、歩き続けている。そのまま彼が返事を待っていると、しばらくして、彼女は口を開く。
「レイ――」
そう言いかけた瞬間に、ふたりの前に、男が四人立ちはだかった。全員が同じ服装だ。見覚えのある格好——デルンの兵士だ。
「そこのふたり、名前を言え」
威圧的な態度で、兵士たちのうちのひとりが、ふたりに言った。
ばれたのだ。彼らがベブル・リーリクメルドとフィナ・デューメルクであるということが。兵士たちは手に、なにかの機械を持っている。それは、未来の世界でムーガが持っていたものに似ている。おおかたその機械に、指名手配されている男女の顔でも映し出されているのだろう。だが、その装置はベブルたちの側を向いてはいないので、ベブルからは見えない。
ベブルは、自分を見下すように見るその兵士たちを、睨み返した。
上等だ。やってやろうじゃねえか。俺に敵うと思ってんのか。
町を行く人々は足を止め、遠巻きにその様子を見ていた。どうやら人々も、ベブルたちが指名手配されている人物であるとわかったようだ。
ベブルは身体じゅうに力を溜め、いまにもデルンの兵士たちを蹴散らそうとしていた。だが、そこで、思いも寄らぬ声に制止させられる。
「お偉い方の皆さん、ちょいと失礼。この者どもは私の親戚でございますので」
とぼけた調子で歩いてきたのは、ラトルの街の木こりであり、情報屋であり、このノール・ノルザニの警固団員であるゼスだった。彼はベブルたちの前に出て、兵士たちの方に歩み寄る。部分的に長くした髪を括ったその赤い後ろ髪は、いまでも変わっていない。
「警固隊の皆様方、端末に映った悪人どもとは、似ても似つかぬ者どもでございますよ。ささ、も一度お確かめ下さい」
言いつつ、ゼスは兵士の手になにかを握らせる。兵士は拳を解いてそれをちらと見ると、仲間と顔を見合わせた。
デルンの兵士のうちのひとりが言う。
「確かに、指名手配犯ではない。行ってよし」
それだけ言い残すと、兵士たちは歩き去って行った。ベブルとフィナは、釈然としないまま立ち尽くして、その姿を眺めていた。
すると、ゼスに小声で声を掛けられる。
「おい、早く行くぞ、こっちだ」
つまりは、ベブルたちはゼスに助けられたのだ。周囲の視線はまだベブルたちのほうを向いているが、捕まることはないだろう。ベブルとフィナはとりあえず、ゼスの言う通りにすることにした。
三人は一軒の店に入った。ノール・ノルザニで暮らしていたベブルでさえ、入ったことのない店だ。いや、そもそも町並みが変わっていて、この店は彼の知る限りでは存在していなかったように思えた。
随分と静かな、あるいは寂れた店だ。建物の中は薄暗く、店の中には店主ひとりしかいない。
全員がその店に入るとすぐに、ゼスはすぐに扉を閉めた。
「まったく、なにをしてるんだい。白昼堂々街を歩くなんて。しかも、魔王の支配地域に逃げてないだなんてな。手先の兵隊どもを金で買収できたからよかったようなものの……」
「お前はデルンに味方しないのか?」
ベブルはそう訊いた。ゼスはデルンの支配地域の住民だからだ。フィナも同じことを質問しようと思っていた。
「当たり前さ」
そう言いながらゼスは、ベブルたちを見て驚いている店主に向かって手を振った。そうすると、店主は落ち着いたようだった。「心配ない」という意味だったのだろうと、ベブルもフィナも思った。店主は、ゼスが指名手配犯を連れ込んだと思って当惑したらしい。……それは正解だったのだが。
「デルンの圧政を心から受け入れてる人間なんて、いやしないさ。親の代も、その前の代も、その前もずっと支配してきてる化けもんのやることなんてな。本心じゃ皆、魔王のほうに行きたがってるんだよ」
「お前も行けばいいじゃねえか」
当然のことのように、ベブルはゼスに言った。だが、ゼスは自嘲気味に笑いながら、首を横に振る。
「それができないのが、現実なんだよ」
しばらくゼスは沈黙した。しかし、少しすると、気を取り直してベブルたちに言う。
「それにしてもあんたら、指名手配されてたんだな。情報屋としたことが、そんなことに気つかずに前に会ってたなんてな」
「ああ」
ベブルは単に肯定した。そんな現象が起きたのは、『時間改変』のせいだろうと容易に想像はついた。
「それで、こんなところに戻って来たってことは、なにか
ゼスはそう言ってフィナのほうを見た。歴史がこれだけ改変されても、軽い性格は変わっていないようだ。だが彼女は反応を見せない。
代わりにベブルが訊く。
「いいのか?」
フィナに相手にされず、ゼスは苦笑する。
「いいって。ふたりがどんな人間かってことは、俺がよく知ってる。それに、手配命令を出したデルンのほうがバケモノだってこともな」
そこまで言われて、ベブルは無言でフィナのほうを見る。フィナは静かに、薄暗い部屋の陰の中にいた。彼女はうなずき、ゼスに問う。
「どうなってる?」
当然、これだけでは意味が通じないので、すぐさまベブルが補う。
「俺らは、しばらくこっちには来てねえんだ。いま、どんな風になってるんだ? 闘技場に忍び込みたいんだが」
「そうだな、難しい質問だ。なんせ、あすこはデルンの直轄地。兵士の警備も尋常じゃない。あんなところに忍び込めば、あっという間に奴に報せが入る。無理なんじゃないのか? それにしたって、何であんなところに?」
「石碑に用があってな」
「石碑……、って、あの、会場の裏手にある?」
「ああ」
「何で、そんなものが必要なんだ?」
「そいつの文字が読めりゃ、デルンの野郎をぶち殺せるからだよ」
それを聞いて、ううんと唸りながら、ゼスは考え始める。ベブルとフィナは、彼の口から名案が出て来るのをじっと待っていた。
少し間を置いて、ゼスは言う。
「方法はひとつ。闘技大会で優勝するんだ。そうすりゃあ、石碑はいくらでも見放題だ。石碑の前は、勝者を表彰する場所だからな」
無茶苦茶な手口だとは、ベブルもフィナも思った。だいいち、ふたりとも、ここでは追われる身なのだ。人の目の集まるところへ踊り出るなど、正気の沙汰ではない。
ゼスは説明を続ける。
「それにはまず、準備が必要だ。知ってるか? あんたらは、『桃色髪の格闘家と黒髪の白ローブの魔術師のふたり組み』として追われてるんだ。どうすればいいと思う?」
ここまでの誘導を得て、ベブルは感心する。
「なるほど、変装か」
ゼスはうなずく。
「その通り。これが『桃色頭の魔術師と黒髪の格闘家』なんて組み合わせになっただけで、案外ばれないものさ。あと、出場するときの名前は偽名にすればいいしな」
フィナはベブルに訊く。
「出るのか」
ベブルは眉を上げて、軽く頷いてみせる。
「ああ、手っ取り早いしな。ゼス、俺が優勝したら、俺の連れは石碑のところまで行けるのか?」
ゼスは答える。
「もっといい方法がある。いまの時期にやってるのは、三人組の集団戦だ。俺も出よう。そうすれば俺たち三人とも、お目当ての石碑のところに行ける。俺も一組になれば、あんたらが指名手配されてるって、もっとバレにくくなる。それに、俺だってデルンの奴を倒して欲しいんだ。協力したい」
「確かに」
フィナは頷いた。ベブルは自身満々に笑う。
「ま、俺ひとりいりゃあ、お前らに出る幕はないがな」
「そうだな。期待してるぜ。優勝賞金は俺が頂くけどな」
ゼスも笑った。
なんだ、単に金目当てだったのかと、ベブルは心の内で思った。慈善行為なのかと思っていたが、どうやらそれは違うらしい。いや、あるいは、慈善と営利の両方なのだろうか。
一方、フィナはふと、ふたりの男たちのほうから視線を移した。かといって、なにかを見ているわけではない。彼女は、彼女の脳裏に映った、金髪の女性を見ていた。
わたしは今から、かつて目指したものの残骸を見に行くのだ。
待っていてください。
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