第十章⑩ 善悪の所在

 ウィードはひとり、草原の中で立っていた。


 広大な星の海の下に、彼は存在した。


 唸るような風が大地を抜け、木と草花が歓喜の悲鳴をあげた。


「何の用だ」


 ベブルが言った。彼は歩いて、ウィードのところへやって来ていた。彼はその背に、巨大な星の世界を負っていた。


「僕はなにも言っていませんよ」


 ウィードは、視線を、彼が望んでいる星の世界からずらさずに、そう答えた。


「僕は、ただひとりで天幕を抜け出してきただけです」


「そうだ。俺が、お前が抜け出したのに気付いていると知っててな」


 ウィードはふっと微笑する。


「ええ。貴方をここへ呼んだのは、そうです、話があるからです」


「何だ」


 ベブルは腕を組んだ。


 ウィードはゆっくりと、視線を彼に向ける。


「やはり、歴史は改変されているのですね」


 星々が照らす闇の世界を、重い風が抜けた。


「お前……」


 ベブルは何かを言おうとしたが、その前に、ウィードが話し始める。ウィードは微笑む。


「僕には、生まれつき、普通には見えないものが見えるんです。そう、歴史の改変などです」


「デューメルクと同じか」


「彼女もなのですか?」


 ウィードは意外そうだった。自分と同じ力を持った者が、他にいるとは思ってもみなかったのだろう。


 ベブルは首を縦に振る。


「ああ。いまは俺も、時間改変の影響を受けない。この『指輪』のお陰でな。だが、あの女は、『指輪』をつける前から、ずっとそうだったらしい」


「僕も……そうなんですよ」


 ウィードは視線を風にあおられる花に向ける。そして、悲しげに微笑った。


 ベブルが言う。


「デューメルクの言葉を借りれば……、自分だけ、違う時間に取り残されるそうだな」


 ウィードは頷き、再び、星の世界を見上げる。


「ええ、まさにそうです。だから、今度はムーガさんとスィルさんが消えてしまうんじゃないか、って」


「俺のせいか?」


 ベブルが呟いた。ウィードは肯定する。


「そうです。僕はこれまで、多くの人々が消えていったのを見ました。そして、誰もそれに気づかない。その逆もありました。いつのまにか、人間が増えていることもあるんです。でも、誰もその変化に気付かない」


「それは、周りの奴らにとって、変化でも何でもないからだ」


「……そうです」


 ウィードは星の世界に言った。


 ベブルは腕を組んだまま、ウィードから視線を逸らせる。風が、闇の中を抜け、草花を、そして樹木を切り裂いていく。


「それで、お前は俺に、デューメルクをを選べって言うつもりか?」


 ウィードは微笑いながら、首を横に振る。


「まさか。僕は、そんな下世話なことは言いませんよ。あなたの自由を尊重します。ただ——、また、変化が起こりそうだと思ったんです」


「俺の自由だと? お前は今、このままだとムーガとスィルセンダが消える、と言ったよな? そこに、俺の自由があるのか?」


 ウィードは即答する。


「ありますよ。確かに、彼女たちが消えると、僕は言いました。ですが、それが悪いことだとは、一言も言っていませんよ」


「なに?」


「僕はこの目で、人間が消える前の世界と、消えた後の世界を見たんです。……誰も、悲しみません。忘れられていくんです。そもそも、もともと存在しなかったことになるんですから。……それは罪ですか? いいえ。世界は、こんなものだったのでしょう。常に、過去と未来は混じり合い、絶えずいまある現実は変化していく。そして、この揺らぎこそが、時が進むということであり……。僕らはこの、抗えない世界に生きているということなのだと思います」



 ベブルはいま聞いた言葉に恐怖を抱いた。彼は、とてつもなく大きなものに、完全に支配されている。


 それは、揺らぎだ。世界の営みという名の、揺らぎそのもの。


 世界そのものの気まぐれに、つくられたり、消されたりする。


 確実なものは何もない。


 幻影のようなものでしかない。


 目の前で微笑を湛えている男も、いますぐにでも消えてしまいそうだ。


 草も、花も、木も、風も、大地も、星も、空も、音も、光も——。


 自分自身すらも。


 この世界全てが、何もかも、消えてしまう。


 誰も、気づかないうちに。さも、つまらぬものであるかのように。


 誰にも顧られずに。


 笑い声が聞こえる。


 狂ったように。



「僕たちは、すごく不安定なんです。厳然たる世界のごく一部の、揺らいでいる部分にしか生きられない。僕たちは、その揺らぎのために生まれ、揺らぎのために消えていくんです」


 ウィードが言った。


 ベブルは、立ち尽くしたまま、ウィードの話を聞いていた。いつの間にか、組んでいた腕は解けていた。


「だからって、ムーガとスィルが消えてもいいのか?」


 ウィードは両目の焦点を、ベブルに合わせる。ベブルは圧力に、押し潰されそうになる。


「よくはありませんよ。僕個人の感情は、勿論、彼女たちに消えて欲しくありません。だから僕は、ムーガさんの保護者をしているわけですし……。ですが、僕たちを遥かに超えた何者かがひとたび寝返りを打てば、アーケモスそのものさえも、消し去られ、世界から忘却の彼方に追いやられてしまうでしょう。この世界では、なにが善で、なにが悪かを考える必要はどこにもない。そう言っているんです」


「そして、お前は、その世界に身を晒している」


「そうです。僕が消えたとしても、それは悪ではありません。ただ、世界が揺らいだ——それだけのことです」


 ベブルは呟く。


「俺は、悪いことなんか、もう散々やって来たから、今更善だとか悪だとか言うつもりはねえ。ただ、お前ら三人には、消えられたくねえ」


 ウィードはそれを聞いて、悲しげに微笑む。


「ベブルさん。幸いなことに、貴方がムーガさんを愛していて、フィナさんに目もくれないこの状況でも、まだムーガさんとスィルさんは消えていない。……世界は猶予をくれているようです。実際、なにが起こったら彼女らが忘れられてしまうのか、僕にはわかりません。ただ——」


 また、強い風が抜けた。


「おふたりとも、死なないようにしてください。『例の集団』に殺されることのないように。お願いします。それは、最低条件です」


「だが、それでも……」


 ウィードは星明りの許、優しく微笑む。


「このままでいきましょう。どうなるかは、まだ、僕たちにはわかりません」


 これから訪れるのは、夜空の星々も、知らない未来だ。


++++++++++


 朝。太陽は地平線の向こうから昇って来ようとしている。


 冷たい風に青い髪をはためかせ、白いローブを着た青年が、外の世界への一歩を踏み出した。


 昼間から夕方には人気の多い学術都市フグティ・ウグフの『アールガロイ魔術アカデミー』だが、早朝には、辺りを見回しても、どこにも誰もいない。


「どこへ行く?」


 訊いたのは、黒ローブの『飛沙の魔術師』ナデュク・ゼンベルウァウルだった。彼は、研究棟の中から青年に声を掛けた。まだ薄暗い建物の出入り口の内壁にもたれ、いま、そこから出て行った新たな同胞を眺めている。


「『奴』の居場所に」


 答えた青年は、ウォーロウ・ディクサンドゥキニーだった。


「まだ、いまはそのときじゃない」


 ナデュクはそう言ったが、ウォーロウは聞き入れなかった。


「僕には、僕のやり方がある」


「そうか、好きにしろ」


 ナデュクは言い放った。


 ウォーロウは歩き出す。


 風が冷たい。


 白いローブが、大きくなびく。


 その後ろ姿を、ナデュクは見送る。彼の隣に、男がやって来た。『星隕の魔術師』オレディアル・ディグリナートだ。オレディアルは彼に問う。


「『空冥くうめいの魔術師』は、ひとりで行ったのか」


「ああ」


++++++++++


 ウォーロウ・ディクサンドゥキニーは無言でフグティ・ウグフの街を後にした。



 そして彼はやがて、ひと言だけ、呟いた。


 “神の幻影”、と。

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