第十章⑧ 善悪の所在

「ベブル・リーリクメルド」



 ムーガは笑った。その言葉を信用しなかったのだ。


「また冗談。本当の名前は?」


「本当だ」


 その瞬間、ムーガはベブルを突き飛ばした。軽くよろけて、彼は二、三歩あとずさる。


「何するんだ——」


「六十年前から来たなんて嘘、もうつくんじゃない!」


 ムーガは涙目で怒っていた。物凄い剣幕で。顔は真っ赤になり、呼吸は荒かった。


「嘘じゃないって。さっきは信じただろうが」


「あんな嘘——また話をはぐらかして逃げるつもりだったんじゃろう!」


「違う! 俺はずっと……、俺がお前を傷つけるわけないだろ?」


 ムーガはこうべを垂れる。両腕が戦慄いている。


「嘘をつかれて……。この期に及んで名前も教えてくれない……」


 ムーガの両目から、涙が溢れ出した。雫がこぼれ落ちる。震える唇を噛んでいる。


「違うって」


 ベブルはムーガに近づいた。だが、差し出した手は振り払われる。


「近寄るな!」


「違うって言ってるだろ! 俺はいま、全部本当の事を言ってるんだ! お前に嘘なんかもうつかない。俺の本当の名前は、ベブル・リーリクメルドなんだ! 偉大な魔術師とか、妙な噂が流れてるから、偽名を使ったんだ——」


 ムーガは気も狂わんばかりに叫ぶ。


「うるさい! 本名を言わんのだったら、わたしが勝手に名前を付ける! もう、この際偽名でもいい! ベルドでいい! だから、もうわしを騙すな!」


「違う! 本当だって言ってるだろ! 俺の名前は、ベブル・リーリクメルドなんだ!」


「それは、わしの爺さんの名前じゃ!」



 静かになった。


 ムーガは喚き散らして叫んで、それからふと、『ベルド』の表情が変化したことに気が付いた。いままで必死になって怒鳴っていたのに、急に、魂が抜けきったような表情をしている。


 外では、まだ亜空間が渦巻いている。


 何の音もない。



「なんだ……」


 ベブルは呟くように言った。


 ムーガの一言で、全てが繋がった。


 なぜ、『未来人』たちが、ムーガ・ルーウィングを殺せなかったからといって、ベブルを襲うようになったのか。


 なぜ、ふたりの容姿が似ているのか。


「そうだったのか……」


 ベブルの口元に、引き攣った笑み。


 彼女は、出会う前から、彼のことが好きだった。


 それは何故か。


「俺は、お前のジジイだったのかよ……」


 ベブルはその場に両膝を付いた。そして、座り込む。


 ムーガがベブルに声を掛ける。


「どう……したの?」


 涙声だった。ムーガには状況が理解できていない。両の頬が、涙で濡れて光っている。


 ベブルは両目を右手で覆う。


「ああ、俺。自分で自分のこと、クソジジイって言ってたのか……」


 声が震えていた。


 目頭が熱くなってきた。


 泣きてえのはこっちだよ……。


 生まれて始めて本気で熱を上げた女は、自分の孫だったのか。


「馬鹿だな……、俺」


 ありえねえくらい、間抜けだ。俺は。


「クソ野郎だ、ベブル・リーリクメルドは……」


++++++++++


 ベブルとムーガは、星の海の真中で、座り込んでいた。彼は、彼女を抱き締めたまま、じっとしている。ふたりは同じ星の世界を見つめている。


 ふたりはヨルドミス第三中継ポイントと呼ばれる、星辰界うちゅうの只中に在る施設に到着していた。だが、そこから魔界ヨルドミスには行けなかった。


 機械は言った。この中継ポイントからヨルドミスへ行く装置に、鍵を入れろと。勿論そんな鍵は、ふたりとも持っていない。つまり、もう引き返すしかないのだ。


 上も下も、右も左も、全て透明な乗り物に乗り、ふたりは床に座り込んでじっとしていた。


 ムーガが口を開く。ベブルには意外なことに、彼女の口調は案外しっかりとしていた。


「こういう状況になったのは。歴史的に、何人目なんじゃろうな」


「さあな。俺たちが最初だろ。年代順で言えば、俺が最初で、お前が二番目」


「ねえ、爺——」


 ムーガがそこまで言ったとき、ベブルはムーガの口を押さえる。


「“爺さん”はなしだ。俺はまだそんな歳じゃない」


 ベブルは十九歳で、ムーガよりもふたつ歳下だ。


 ベブルがムーガの口を解放すると、彼女は微笑った。


「そうだね。そうじゃった、ベブル」


「何だ」


「ベブル」


「だから、何だよ」


「呼びたかったんじゃ。ここに、あなたがいる」


 ムーガは幸せそうに笑った。ベブルは彼女をぎゅっと抱き締める。


「ああ、俺はここにいる」


 ムーガはベブルの腕を抱き締める。


 温かい……。



 ベブルはわざとらしく溜息を吐いてみせる。


「あーあ、よりによって、俺はベブル・リーリクメルドに、お前はムーガ・ルーウィングに生まれちまった。本当、運悪いよな」


 ムーガは首を横に振る。


「そんなことない。だからいま、こうしていられる。孫がおじいちゃんっ子でなにが悪い、って言えるから」


「そうか。それ、本心か?」


 ベブルはムーガの肩の上に顎を置いた。


 ムーガははうなずく。


「半分だけ」


「半分だけ孫か。じゃあ俺は……、半分だけジジイか。言うとすれば、『わしの孫のムーガよ。怪物退治、けして無茶をするでないぞ』ってとこか」


「……下手だな」


 ベブルは笑う。


「だから言ったろ。半分だけだ」


 ムーガも微笑う。


「……ありがとう。でも、怪物を倒すまで、がんばる」


「無理するなよ」


「ありがとう」


 そう言って、また、星の海に静寂が訪れた。


「これが……。俺たちの世界なのか」


 無数の星々の輝く世界。それは、誰もが当たり前のように知っているようで、誰も全く知り得ない未知の世界だ。


 そして、その中央に、ふたりはただ静かに温もりを感じているのだ。


 これが、この世界だ。


 彼女に触れている間には、あの、恐るべき声に耳を貸さないでいられた。何も怖くなかった。恐怖は消え去った。怖れがなければ、声にすがる必要もない。


 同じ光景を、彼女はどのように見ているのだろうか。


「そろそろ帰るか」


 ベブルはそう言って、立ち上がろうとした。この透明な乗り物を、アーケモスに向けて出発させるのだ。だが、その両の腕を、ムーガに抱き留められる。


「どうしたんだよ」


 ムーガは言う。


「ベブル、大好き」


 そう言われて、ベブルは立ち上がるのをやめた。そしてまた、ムーガを抱き締める。


「俺もさ。好きだ、ムーガ。心から」


 それは、祖父としてだろうか。



 誰がその問いの答えを知りえようか。


++++++++++

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