第四章⑦ 手と手取り合い
フィナが入ったのは、この地下の研究室に来たときに最初に入った、机と本棚のある部屋だった。
その部屋に入ったとき、ベブルとウォーロウは驚いた。先ほどこの部屋に入ったときにはなかったはずの、干乾びた死体が机のそばの床の上に倒れていたからだ。
フィナはそれには目もくれず、本棚の方に歩き、棚から本を引き抜いて、開いた。
「おい、こんな死体、さっきはなかったよな」
ベブルが言ったが、フィナは呟くように「そう」といっただけだった。
ウォーロウが代わりに、ベブルの問いに答える。
「ああ、なかった。どうしてこんなところに……」
「ここはデルンの研究施設だった」
フィナは本を斜め読みしながらそう言った。それから彼女は今まで読んでいた本を脇に抱え、次の本を手に取る。
「デルンはここで死んだ」
「そんなばかな! ファードラル・デルンは百二十年前の魔王との戦いで、パーラス荒野で戦死したはず!」
ウォーロウがそう言ったが、フィナは頷くだけだった。
「これが、『時間が改変される』ということか」
ベブルはそう言った。いつもよりも若干低い声だった。
ベブルとウォーロウはそれから、その場に立ち尽くしていた。突然現れたミイラを前に平然として、てきぱきと必要そうな本を選んでいくフィナを見て、本当に彼女は時間改変に気づく能力を持っていたのだと思い知らされていた。
「でもこれで、よくわかりました。これで僕は、フィナさんの気持ちをわかることができるというわけですね」
ウォーロウはそうフィナに言った。彼女は本を探すのに没頭していたのか、それには反応しなかったように見えた。頷いたのかもしれないし、頷かなかったのかもしれない。
フィナは結局、本を二冊持って、ふたりのところに戻ってきた。
「何の本を探してたんだ?」
ベブルは両手を腰に当てて待っていた。
「使い方、指輪の」
「ああ、そうですね。使い方がわからなければ、意味がありませんね」
フィナの言葉に、ウォーロウは納得した。
フィナは二冊のうち一冊の本を開いて、彼らに見せた。『指輪の宝石に自らの魔力を注ぎ、点火させることによって起動する、宝石の色が過去と未来に対応する』と書いてあった。あとの文章はややこしすぎて、ベブルにはよくわからなかった。
「色の対応はどうなっているんです?」
ウォーロウはそう訊いた。彼は一刻も早く、未来に行きたかった。
フィナはその本を閉じ、もう一方の本を開いた。彼女が開けたページに、『我々は海より来たれり。陸の覇者とならんがために』と書いてあった。
「なんだそれは。物語か?」
ベブルはフィナがその文章を見せた意味がまったくわからなかった。ベブルがそう言っても、フィナはまったく表情を変えなかった。
「青が過去、黄が未来」
彼女は短く、そう言った。
「ああなるほど、簡単な謎掛けになっているんですね。ではすぐに未来に行ってみましょう」
ウォーロウはそう言った。念願が叶いつつあるので、気が急いていたのだ。
その瞬間、ベブルは見た。彼が向かい合っているフィナの向こうで、床に倒れていた死体が起き上がったのを。その死体には見る間に肉が付き、目があった空洞には、濁った目が填め込んであった。死体はローブを着た老人になった。ベブルは構えた。
ウォーロウが叫ぶ。
「い、生き返った!?」
「改変された」
フィナはそう言った。
「なんだこいつは」
ベブルの問いに、フィナが答える。
「ファードラル・デルン」
「……わしの指輪を返さんかあああっ!」
大魔術師デルンは狂気に満ちた声でそう叫んだ。それだけで衝撃波が駆け抜け、ベブルたち三人のそばの壁にひびを走らせた。老人は間髪入れずに炎の魔法を唱えた。燃え盛る炎が若い三人に襲い掛かり、彼らはそれぞれに身を守ったが、フィナが持っていた本は二冊とも灰になった。
「うっせえ、この野郎!」
ベブルが反撃を開始した。彼も炎の魔法を発動させ、デルンの炎を押し返した。本棚も、本も、机も、地図を貼った球体も、そして老人も、瞬時に炎の包まれた。内側から燃え上がる。
老人は叫び声を上げている。そこに、フィナとウォーロウがそれぞれ風と光の魔法を唱え、老人に止めを刺した。狂ったように喚いていたものは、もはや人の形をしていない、焼け焦げた炭になった。
燃えるものは焼き尽くし、火は収まった。だが、あたりは赤い光に包まれた。これまで白く光っていた照明が、赤い光を放ちだしたのだ。そして、けたたましい音が鳴った。
「今度は何だ!?」
ベブルはまだ構えていた。フィナもウォーロウも、杖を手に、周囲を警戒していた。
ばたばたと、足音が聞こえる。ひとり分ではない。何人もの人間がこの部屋に近づいてくる。どういうことだ? ここは洞窟の地下だぞ? 隠されていた地下の研究施設だぞ? どうしてこんなたくさんの人間がここにいるんだ? ベブルは向きを変え、部屋の入り口に向かって構えた。
廊下の方には五、六人の男たちが現れた。彼らは鎧を身に付け、こちらに向かって何かの武器を構える。そして部屋の中に入ってきた。筒状のものがこちらを向いている。ベブルは、『星隕の魔術師』オレディアル・ディグリナートが持っていた剣の、横についていた筒にそれがよく似ていることに気づいた。それは、オレディアルが『魔導銃』と呼んでいた種類の武器だ。
「侵入者め! よくも大帝陛下を!」
集まってきた男たちのなかで、指揮をとっている男が、ベブルたちに向かってそんなふうに叫んだ。彼らはデルンの警備兵たちだ。
警備兵たちはそれぞれに魔導銃を乱射した。フィナもウォーロウも魔力障壁で身を守る。ただひとり、ベブルだけが魔導銃弾を受けながら走った。彼の魔力耐性は異常なまでに高い。
「この程度の魔力が俺に効くかあああっ!」
警備兵たちは魔導銃に撃たれても平気なベブルを恐れた。彼は、男たちの群れの中に飛び込み、そこで暴れまわった。あるものは拳の一撃で吹っ飛び、また、あるものは『力』の衝撃波に躯を貫かれて倒れた。
フィナもウォーロウも、魔力障壁で身を守りながら走った。杖を振り回し、魔法を使って次々に護衛兵たちを倒していく。
「出るぞ」
周囲の敵を全滅させてから、フィナはそう、仲間たちに言った。
「はい」「ああ」
三人は地下施設の出口へと走った。まだ、施設内は照明の赤い光に包まれていた。ビー、ビー、と、どこからかうるさい音が響いてくる。
フィナだけが足が遅かったので、彼女は魔獣ディリムをつくりだし、それにまたがって走った。彼女は大犬の上で杖を振り回し、魔法を使って戦った。
何度か警備兵たちに遭遇したが、彼らが銃を構えるより早く、ベブルは腕力を以って彼らを床に沈めていた。
ベブルたちは階段を駆け上がり、地下の研究施設から出た。だが、そこは洞窟ではなかった。洞窟だったところがそのまま、研究施設の一階に変わっていたのだ。ここでも、サイレンの音は消えていない。部屋全体が赤い光に照らされていた。
「くそ! ここも変わってる!」
ベブルは呟くように叫んだ。
「いたぞ!」
その声と共に、また数名の警備兵が駆けつけた。ベブルは叫びながら、そちらの方に向かって行った。彼らの魔導銃から放たれる魔法は、当たってもたいして痛くはなかった。
ベブルがその警備兵たちを片付ける前に、また新たなグループの警備兵たちが銃を撃ちながらやって来た。遠くにいる敵に対しては、フィナとウォーロウの魔法が飛んでいき、駆逐した。
「やめた方がよろしいかと存じます。リーリクメルド」
警備兵のひとりの襟首をつかんで今にも殴り殺そうとしているベブルに、声が掛かった。男の、低い声だった。
ベブル、フィナ、ウォーロウの三人は、多数の警備兵たちに遠巻きに囲まれ、銃を向けられていた。そして、その警備兵たちの間を分けてやって来たのは黒ローブの『未来人』たち四人。『
ベブルはその警備兵を解放した。そして、両手を肩の高さまで上げて振り、笑った。その警備兵は、転げるように、這って仲間の後ろに退いた。
「おいおい、この程度で俺に勝ったつもりか? 俺はこいつらにいくら撃たれようと平気なんだぜ」
不意に、フィナの乗っていた大犬の魔獣が姿を消した。彼女は自分の足で岩の床の上に立った。
「あまり挑発するな、ベブル」
ウォーロウが小声でベブルに言った。彼は鉄の杖を構えていた。
「はあ? 怖気づいたのか?」
ベブルは鼻で笑った。
「お前もいいかげん気づけ。僕たち三人の魔力は、『蒼潤』に封印された。お前は撃たれても平気かもしれないが、僕と……フィナさんは殺されてしまうぞ。そこからお前ひとりで、毒を使ってくる『未来人』を相手にできるのか?」
フィナの魔獣が消えたのは彼女の魔力が封じられたせいであった。そのことを、ベブルは今、ようやく理解した。
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