第一章④ ふたつの孤独
その夜、ゼスは宿屋の二階のベッドで目を覚ました。誰かが治癒の魔法でケガを治してくれていたらしい。身体中に包帯は巻かれていたが、出血らしい出血も止まっている。起き上がろうかと一度身を起こしたが、大口を叩いて戦いに挑んだ割に、あっという間もなく敗退したことを思いだし、またベッドの上に倒れ込んだ。
だが、そうすると夜の空気の冷たさに相応しいような、歌声が聞こえる。ささやき声とも鼻歌とも付かない、だけど玉の響くような美しい声が。部屋の窓は開け放たれていたから、外から聞こえてくるのだろう、とゼスは思った。そしてすぐにその声の主に思い至った。
フィナだ。
「フィナちゃーん」
ゼスは身支度を調えて、夜の街を歩くフィナに追いついた。日の沈んだ後の街にも活気があり、至る所の燭台に火が灯され、長い夜の時間を楽しもうという主に飲食の店が客を集めて賑わっている。
呼びかけられてフィナは振り返ったが、挨拶も何もしなかった。
「遅めの夕食、夜食かな? ご一緒してもいいかな?」
「別に」
「それじゃあ遠慮なく」
ふたりは同じ卓に掛け、フィナは小麦粉を溶いて薄く焼いたもので野菜や海鮮炒めを包んだものを食べ、ゼスは腸詰め肉と酒を注文した。
「そんでさ、フィナちゃん、悪かったな」
ゼスは腸詰めにナイフを入れながら謝った。
「何が」
「
だが、フィナはそっけない。
「別に。私は最初から同意していない」
ゼスは飲み込んだ肉を喉に詰めそうになる。
「うぐ。そりゃあそうかもしれないけどさあ。そりゃああんまりだよ、お嬢ちゃん」
フィナは料理から顔を上げて、通りのほうを見やった。通りを行き交う人通りの中に、頭の上から足の先まで真っ黒な、髪の長い女がいる。その女は通りに立ち尽くして、フィナのほうを見つめている。
――口元を歪めて、黒い女が笑った。
「嬢ちゃん、フィナちゃん」
ゼスが話しかけてきたので、フィナは一瞬彼のほうを見たが、すぐに黒い女のほうに視線を戻した。だが、忽然と姿を消していた。
「どうしたんだい、ぼうっとしちゃってさ」
ゼスは訊いたが、フィナはそれに答える必要を感じなかった。
「別に」
++++++++++
フィナは朝靄の中を歩いていた。
彼女の正式な名前は、魔法名を含めて、フィナ・デューメルクという。フィナは個人名、デューメルクは一人前の魔術師と認められた者にだけ与えられる魔法名だ。年齢は十八歳。『
肩書きは一応、『魔術師見習い』ということになっている。だから、名乗るときには魔法名を省略してただ「フィナ」と言うことを好んでいる。しかし、彼女はもはやその肩書き程度のレベルの実力ではない。フィナはすでに、どこへ行っても魔術師として恥じないだけの力を身につけている。
よって、人々の中にはフィナを『懸崖の一番弟子』と呼んで敬意を表す者もいる。それでも、彼女が『見習い』という肩書きを捨てないのは、自分自身を甘やかさないためだ。
『懸崖の哲人』ヨクト・ソナドーンのもと、霊峰ルメルトスにおいて修行を積む魔術師たちは、霊峰の麓の街ラトルに居住することになっている。そのラトルからノール・ノルザニの街までは、北西方向へおよそ三日の距離だった。
ヨクト・ソナドーンは息子を連れ戻し、魔術師として後継者に育てあげたいと言っていた。だが、息子であるベブル・リーリクメルドは親の七光りで魔法名こそ持っているものの、実際には魔法のひとつも使えない。
「少なくとも、今はそうだ」
フィナは呟いた。
彼女は息子を連れ戻してきて欲しいという師匠の依頼を、ほとんど二つ返事で受けてきた。霊峰から出るのは、たまの里帰りで故郷のジル・デュールへ行くとき以外には憶えがない。
このノール・ノルザニでは、この魔法文明の時代に、腕力自慢が集って力比べをするというのが好評を博しているというだけでもフィナにとっては意外だった。しかも、それを切り盛りしているのがあの『哲人』の息子たるベブル・リーリクメルドであるという事実は、知ったときにはそれなりの衝撃を覚えたものだった。
ノール・ノルザニまでは乗合馬車を使わなかった。フィナは他人との距離が近いことを極端なまでに嫌った。そのかわり、魔法を使って大犬の魔獣ディリムを作り出し、その背に騎乗して平原を駆けてきた。道中、見晴らしのよい場所のみを通ることには注意したが、それでも二、三の魔獣には遭遇した。もちろん、彼女の力を以てすれば、魔獣を退治するのは容易く、逆に金目のものを剥いで路銀にした程度のことだった。
昨日、闘技場の試合に勝ったら霊峰ルメルトスに帰ることを了承しろ、と啖呵を切ったゼスは、あっさりと勝負に負けた。しかし、フィナは全く気にしていない。彼女の合意のないところに行われた契約など、配慮の必要などこれっぽっちもないからだ。
話は元に戻っただけだ。フィナはベブルと直に交渉して、ルメルトスに帰ると言わせなければならない。……対話だけで上手く行くだろうか? 力を見せる必要もあるかもしれない。なんにせよ、請け負った依頼は果たさなければ……。
フィナが歩いて行く先は、朝靄が掛かって見通しが悪かった。だが、彼女には、この道の先にベブルがいると解っていた。彼女が思っているとおりであれば……。
++++++++++
ベブルは朝靄の中、大きな石碑の前に跪いて、足下に花を供えた。
―― 彼の母の墓だった。
あのとき、親父は母親を裏切り、そのために母親は死ななければならなくなった。ベブルは歯噛みした。それをいまさらノコノコと、家を継げと弟子をよこして来る。ご立派な弟子をもっているのなら、弟子に継がせりゃいいじゃねえか。
血だ。俺は知っている。親父は母親が当時、高名な魔術師だったから結婚したのだ。最高の後継者を手に入れるために俺が生まれた。
この世に愛ほど大切なものはない。
親父も母親も、この言葉を何度も繰り返した。それはとりもなおさず、ふたりの関係に愛などなく、空虚なものに過ぎなかったからだ。愛などなかったからこそ、愛についてやかましく語ったのだ。お笑いぐさだ。
そのとき、墓石の表面がきらめいた、気がした。彼の背丈よりもまだ大きい、とある高名な魔女のためにつくられた、この墓石が。ベブルは立ち上がり、その表面に触れてみた。
墓石の表面が、波打った、気がした。
気がつけば、ベブルは石碑の前で呆然と立ち尽くしていた。もう一度石碑に触れたが、石碑はいつもの石碑のままだ。冷たく固い感触だけが返ってきた。
そんな馬鹿なことが、あるはずもないか――。ありえるはずもないし、ありえたところでその意味もわかるまい。
そんなことより――
「おまえ、いつからそこにいたんだ?」
ベブルの背後には、朝靄の向こうにフィナが立っていた。風が吹き、靄が晴れる。彼女は質問には答えない。
「ここに来れば、会えると思った」
「……ここは親類縁者の墓だ。ここに俺がいるのは別に不思議じゃないだろう」
「母上の……」
ベブルは驚いた。しかし、『懸崖の哲人』にでも聞いたのだろうと思い直す。
「よく知っているな。母親は血統の良さゆえに利用され、死んだ。その中心にいたのがヨクト・ソナドーンという男だ。俺は金輪際あいつに関わる気はない」
「それは、わたしには関係がない」
それから数拍の時間ののち、鈴のようによく響く声で、フィナはひと言付け足した。
「リーリクメルド。その体たらく。あなたはあの母の子か」
「なっ……!」
ベブルは息が詰まる思いをした。反論がすぐに出てこない。フィナは容赦なく続ける。
「彼女は最高の魔術師であり、最高の人間だった」
「なっ、お前、俺の母親を知って……!? いやそんなはずはない。お前が霊峰ルメルトスに行ったのは俺の母親が死んだあとのはず! なにをでたらめを――!」
「ここで燻り続けるのか」
「黙れ!!」
ベブルは怒った。このときだった。このときようやく初めて、ベブルはフィナを真正面から捉えた。
「あなたの都合は、関係ない」
「俺だって、誰の都合も何もかも関係ねえ! いまさら誰の世話にもならねえし、誰にも俺の邪魔をさせねえ!」
しかし、激高し怒りの表情を隠さないベブルに対して、フィナの表情は全く変化しない。
まったく……。こいつには、感情ってものがねえのかよ……。ベブルは歯噛みする。
フィナは真顔で繰り返す。
「あなたの都合は関係ない」
「ああそうかよ! だがな、俺を連れ帰られるわけはねえだろうが! 竜種だろうがなんだろうが、素手で叩き殺せるこの俺を、連れ帰ることができるのかよ!? ああ!?」
フィナはベブルの発言に答えもせず、右手を高く掲げ、その手にサファイアの杖を召喚し、それを一振りした。フィナは旅の荷物を魔法空間に仕舞い込んでおり、必要となれば召喚して取り出すことができる。
「“
フィナは魔法を使って翼竜アーディを作り出し、その翼竜の足の爪でベブルを掴み、空中に持ち上げた。本当に言葉通りの、『貴方の都合は関係ない』ということらしい。
「てめえっ!」
翼竜アーディに持ち上げられて、ベブルは空中でじたばたとした。
「帰る」
フィナは翼竜に命令した。翼竜は街の出口に向かって、飛ぼうとした。
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