第5話 暗闇に手を伸ばして
悪夢は繰り返す。
やっと、失ったものを取り戻せたのだと思った。
気の狂うような絶望と虚無に長い長い年月耐え、ようやく手に入れることができたのだと。
何よりも大切だった。何よりも愛していた。だから再び手に入れることができた今、今度こそけして手を離さないと、絶対に守り通すと決めた。
手に入れたものは以前とはほんの少しだけ違っていたけれど、それでも同一だった。同一でなくてはならなかった。
そうしてようやくあの日すべてを失った時の齢まで戻すことができた。彼は、帰ってきたのだ。
帰ってきた彼は昔と同じで、酷く儚く、優しかった。ああ、ようやくこれで俺は彼と生きることができる。そう思っていた。
それなのに、それなのに何故。
何故目の前には、あの日の悪夢があるんだろう。
放課後も過ぎて、窓の外を闇が覆う中。
一つだけ蛍光灯の白々とした無機質な光が灯る教室に俺はいた。
そこには俺以外にもたくさんの人がいて、それを囲むようにして集まっていた。
乾ききったほとんど黒に近い赤は、まるで天鵞絨のように、古ぼけた床を覆っている。
その中心に、まるで展示品のように隼人は横たわっていた。
汚れた銀色のナイフを握りしめて、首筋を赤黒く染めて。
ただでさえ白い肌は青ざめていて、そっと手を伸ばして触れてみると冷たかった。それは、隼人がもうここにはいないということを示すには十分だった。
何もかも、同じだった。俺が全てを失ったあの日と。あの絶望と。
足元で泣き叫び、慟哭する少年に昔の自分の姿がかぶる。何故、どうしてと床を涙で濡していく彼を震えながら支える少女には妻の姿がかぶった。
まるで悪趣味な再現ドラマを見ているような気持ちになって、くらりと目眩を起して蹌踉めく俺を妻が支える。妻も口元を覆い、あの日と同じように震えていた。
妻も、同じ気持ちなのだろうと思った。私達は隼人を愛していた。失った後も子を隼人にするくらいに、私達は隼人を愛していたのだ。
しかし、隼人は再び失われてしまった。あの日と同じ様に、同じ場所で、同じ時間に。
あの日と違って、涙は出なかった。ただ、これでもう二度と隼人は帰ってこないのだという絶望と、虚無が俺を支配していた。
もう隼人だったものを見ていることができなくて、悪夢が広がるそこから背を向ける。
引き止める誰かを見ることもなく振り切って、俺は教室を飛び出して真っ暗な廊下をただがむしゃらに走った。
もう、何もかもがどうでもよかった。隼人はもう帰ってこないだろう。隼人は今度こそ完全に失われてしまった。俺は、もう二度と隼人には会えないのだ。
息をするのが苦しかった。生きているのが苦痛だった。今まで生きてきた全てが失われ、無駄になったような気がした。
ああ、何故隼人はいつも俺を置いていくんだ。置いて行かないでくれ。連れて行ってくれ、隼人。お願いだ。
縋るようにそう心で叫ぶが、答えなんか帰ってくるわけがない。隼人はもういないのだ。
「隼人……っ」
掠れた声で、愛しい名前を呼ぶ。そばに行きたかった。なんでもない事を話して、馬鹿みたいに笑いたかった。
どうしたらいいのだろう。どうしたら、俺は隼人にもう一度会えるんだろう。隼人を、手に入れることができるんだろう。
真っ暗な思考の中、そんな答えのない問いを繰り返すうち、気がつけば俺の足は屋上へと向かっていた。
鉛のように重くなった腕で、扉に手をかける。昔、隼人を連れて俺がこの鍵を壊した。鍵はそのままだったらしい。なんの抵抗もなく、扉は開かれた。
ひんやりと冷たい夜風が、俺を包んだ。その風に釣られるように、俺は屋上へと足を踏み出してフェンスへと近づく。
真っ暗な空には砂金を零したように、星が瞬いている。それは酷く綺麗で、それが悲しかった。
幼い日々のいつだったか、隼人に聞いた話を思い出す。死んでしまったら、星になるんだというありふれた話。
それなのに隼人は僕もいつか星になれたらいいな、なんて笑っていて。
「隼人……」
本当に、星になってしまったんだろうか。届かないとわかっていてなお、俺は夜空へと手を伸ばす。
届いたら、捕まえてやるのに。何やってんだって、引きずり下ろしてやるのに。
「隼人……っ」
諦めきれなくて、なおも手を伸ばしたその時、体重をかけていたフェンスがぱきんと小さな断末魔の悲鳴を上げた。
感じたのは、浮遊感。それからーー安堵感だった。
遙か下方に地面が見える。そこにこれから叩きつけられるというのに、怖くはなかった。
だって、これでようやく隼人に会える。
こうすればよかったんだ。どうして気が付かなかったのだろう。そんな自分の愚かさに笑みまで浮かんでくる。
俺は笑いながらそっと、目を閉じて瞼裏に浮かべた隼人へと手を伸ばした。
――愛してるよ、隼人。
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