第4話 きみのそばで
僕は、自分の両親を『父』『母』と呼んだことがない。さらに言うのなら、それに当たる呼び方をしたことがない。何故ならば彼らは僕に他の呼ばれ方をすることを望んだからだ。
『父』は名前を呼び捨てに、『母』は旧姓に『さん』を付けて。
物心ついたその時からそうきつく言いつけられてきた。
僕は二人をそう呼ばなくてはならない。それ以外の名前で呼ぶ事なんて許されてなんていない。
だって、『隼人』は二人をそう呼んでいたのだから―――
「なあ隼人、昔のアルバムを見つけたんだ。懐かしいだろ?ほら、一緒に旅行に行った時の!」
『父』が嬉しそうに一冊の本を抱えて、隣の部屋から僕を――『隼人』を手招く。
その本は黄ばんでいて、かなりの年数が経っているようだ。少なくとも六歳である僕よりはずっと長い時間を過ごしてきていることが分かる。
――ああ、また始まった。
僕はそっと胸に満ちる虚無感を感じながら、ぱたりと今日学校で配られた教科書を閉じて『父』の元へと重たい足を引きずって向かう。たどり着くと、すぐに捕らえる様にして『父』は僕を引き寄せて抱え込んだ。
「ほらこれだよ。お前この時川に落ちてさ、大変だったよなあ」
笑いながら、僕の知らない話をしながら、『父』は僕の目の前にアルバムを開く。
ふわりと鼻先に黴のような埃っぽい匂いを感じながら、僕は色あせたそれを見つめた。
何枚もある写真に写っているのは、全て自分と同じ年齢くらいの二人の少年だ。
一人は明るく、いかにも腕白そうな少年は昔の『父』だ。笑っている時の顔が全然変わっていない。『父』にもこんな時代があったのだと思うとなんだか不思議だ。
そしてその隣には――気持ちが悪いほどに僕によく似た少年が常に写り込んでいる。
蝋のように白い肌、色素の薄い髪、瞳、痩せた細い体。嫌になるくらい彼は僕に似ている。――いいや、僕が彼に似ているのだ。
何故なら僕は彼になるために、『隼人』になるために生まれてきたのだから。
彼は両親が出会った高校時代に死んだ、『父』の幼馴染の親友だった。
周りの人間に愛され、頭もよく、優しい彼は何故か放課後の教室で自ら命を絶ったのだ。
彼の死に多くの人間が涙を零し、悲嘆にくれたがその中でも『父』の悲嘆は凄まじかった。
『父』は彼を愛していたのだ。たとえその愛の形がどんなものであったとしても。
『父』は彼を失い、まるで廃人のようになったという。
同じく彼を失って悲嘆に暮れていた『母』とお互いを支え合い、傷を舐めあい、彼を思い出しながら、愛しながら二人は生きてきた。
そうして生まれたのが僕だ。生まれる前から名前は『隼人』と決まっていたらしいが、生まれた僕を見た途端二人は思ったのだそうだ。
「『隼人』が帰ってきた」と。
両親は僕に『隼人』を求めた。二人の知る『隼人』の好み、性格、口調、記憶、表情、仕草、外見。
自我形成以前から僕はそれを義務付けられ、教え込まれた。それはきっと死者復活の儀式だったのだろう。
――こうして僕は両親のための『隼人』になった。
二人が欲しかったのは息子の僕なんかではなく、『父』の親友であり『母』の憧れの人であった『隼人』である僕なのだ。
こうして『隼人』の写真を見せつけられるたびに、露骨に『隼人』を求められるたびにそれを嫌でも実感させられて僕の心はぎちぎちと醜い悲鳴を上げる。
僕は耐えられなくなって目の前の『隼人』から視線をそっと外し、さりげなさを装って『父』の拘束から抜け出した。僕は意識的に少し困ったように『父』に笑いかける。
「ちょっとごめんね、僕少し散歩に行ってくるよ」
これも『隼人』がよく言っていた言葉だ。彼は暇を見つけては散歩に行くのが好きだったらしい。
『父』は『隼人』が腕の中からいなくなって不満そうにしていたが、結局は写真の『隼人』から目を離すことなく頷いた。
「すぐに、帰ってくるんだぞ。少しでも遅くなったら怒るからな」
その声に滲むのは不安だ。少しでも帰宅が遅くなると、また『隼人』が失われてしまうと『父』は思っている。『隼人』が死んだのは夕方だったから。
僕は『父』に大丈夫だと笑いかけ、逃げるようにして玄関へと向かう。
『父』は、まだ『隼人』を見ていた。
「は……っ、はあっ……あ……っ」
玄関を出た後、僕は一目散に駆けだした。胸につっかえるような息苦しさを振り払うように、体中にまとわりつくような真黒い靄を振り払うように。
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!
本当は僕は『隼人』なんかになりたくなかった。
お父さんとお母さんの息子でありたかった。
僕は『隼人』なんかじゃないよ。僕はここに居るんだよ。
お願いだよ、僕を見てよ!
いつの間にか僕の呼吸には嗚咽が混じり、視界は溢れ出る涙でぼやけていた。
拭っても拭っても止まらない涙と嗚咽に僕は息が苦しくなって、近くの公園のベンチに座り込む。幸い、ひっそりとした小さな公園であったためか人の姿は見えない。
それをいいことに僕は膝を抱え込んでベンチでひたすら泣きじゃくる。
僕は両親が嫌いなわけではない。二人とも優しいし、楽しいと思う時もたくさんある。
それでも、やはりそれは『隼人』の物なのだ。僕のものではない。
僕を見てよ。僕を『隼人』にしないでよ。
僕は、『隼人』なんて大嫌いだよ。
けして言葉にできない叫びを涙と嗚咽にして僕はきゅっと身を縮こまらせる。
なんだかこうしていると世界で独りぼっちになったみたいだ。
そう思うと、さらに涙が溢れていく。
ああ、このまま涙で世界なんて沈んじゃえばいいのに。
そんな空想を僕がぼんやりと願った時、突然公園の入口の方からあー!っという大きな声が聞こえて僕は思わずびくりと涙でぐちゃぐちゃになった顔をあげた。
見てみるとそこに居たのは自分とそう年齢の変わらない元気そうな男の子で、僕を見て大声をあげたらしい。視線が合うと、僕が泣いているのに気が付いたのか慌てて駆け寄ってきた。
僕は泣いているのがばれたのが恥ずかしくって、急いでベンチから離れようとしたのだが遅かった。男の子はすでに目の前まで来ていて、僕の顔を遠慮なく覗き込んでくる。
どうやら心配してくれているらしい。彼はおろおろとしながら僕の体を観察している。
「どうした?ケガでもしたのか?」
「ち、ちがっ……」
嗚咽でうまく話せないため、僕はせめてとぶんぶんと首を横にふった。
その間も涙は止まらない。恥ずかしいから止めたいのに、ぼろぼろぼろぼろ次から次へと溢れだすのだ。
拭っても拭っても止まらない。こらえられなかった嗚咽が僕の喉からこぼれる。
そんな僕を見て彼は焦ったように周囲を見渡し、そうして何故だかぼすりと僕を抱きしめた。
「……!?」
一体何が起きたのか。温かい体温を感じながら混乱する僕をぎゅうと抱きしめて彼は僕の耳元で話す。
「あーもう落ち着け。泣くなー」
さらにふわふわと優しく頭まで撫でられ始め、僕の思考回路はぐちゃぐちゃだ。
あったかくって、気持ちよくて、確かに嫌じゃない、嫌じゃないけども!
「な、なにしてんの……っ!?」
混乱から復帰して、ようやく僕がその一言を絞り出し彼を押しのけると彼はまじまじとまた僕の顔を覗き込んでにっと笑った。
「よかった、涙止まった」
言われて、僕は自分の頬へと指を伸ばす。まだそこは濡れていたが、流れ落ちてくる水分はもうなかった。
あれほど拭っても止まらなかった涙が、こんなにも簡単に止まってしまうなんて。
驚いて目を見開く僕の手を取り、彼は笑う。
「何があったのかはしらねーけどさ、一人で泣くのは辛いだろ。それだったらさ、俺と一緒に遊んで忘れちゃおうぜ、隼人」
どうして、僕の名前。そう思って気が付いた。そういえば胸に名札を付けたままだった。
彼はそれを見て、僕の名前を呼んだんだろう。『僕』の名前を。
彼に呼ばれる『隼人』は嫌じゃないな、と思った。むしろ、嬉しいくらい。
だって、彼が見てる『隼人』はあの人じゃない。僕なのだ。
「あ、あのね、もう一回、もう一回だけでいいから『僕』の名前を呼んで?」
嬉しくて、嬉しくて、幸せで。僕は思わず彼にそうねだっていた。
彼は不思議そうに首を傾げたが、やがて何のためらいもなく『僕』の名前を口にする。
「何度だって呼んでやるよ。隼人」
彼の声が『僕』の名前を呼ぶ。それだけで、心臓がどきどきする。顔が熱くなる。
ああ、自分の名前がこんなに好きになれる日が来るなんて。
上気する頬を押さえて、戸惑う僕の手を彼が引く。眩しいほどきらきらとした笑顔で。
「ほら、行こう。隼人」
「……うん!」
ぎゅっと握り返した彼の手は温かい。そんな事がやけに嬉しくて、僕も思わず笑ってしまう。
あれほど不安で、悲しかった気持ちなどもうどこかへ行ってしまっていた。全部全部、彼が持っていってくれたのだ。
彼の傍にいる限り、僕はもう大丈夫なんだろう。根拠もない、そんな考えが僕の頭をよぎりさえする。そして僕は願った。
ああ、願わくば彼がいつまでも僕の傍に居てくれますように――と。
「やっぱり、駄目だったね……」
人気のない放課後の教室で僕は床に座り込んでいた。手にはぎらぎらと光るナイフがある。
彼は今頃どうしているだろうか。やはりあの可愛らしい彼女と一緒に居るのだろうか。
そう考えただけで胸はどうしようもなく痛むし、涙は勝手に零れ落ちた。
こんな辛いのは悲しいのはきっと友情なんかじゃない。僕はずっとそれを知っていたんだ。
そう、彼と出会ったあの時からずっと。
僕がこんな気持ちを持っているのだといつか彼が気づいてしまう前に、僕がそれを溢れさせてしまう前に。彼が、ずっと永遠に曇りなく幸せであるために。僕は。
首筋に冷たいそれを押し当てる。それだけで薄く切れたのだろう、首筋に痛みが走る。
彼の姿が、声が、笑顔が脳裏に溢れる。そして、それがもう二度と触れられないものだと分かっているから僕はぼろぼろと涙を零した。
ああ、もう一度だけ最後に名前を呼んでもらいたかったな。
あの優しい声で、『僕』の名前を。
でももう何もかもが遅い。
「大好きだよ、――」
僕は最後に愛しい彼の名前を口にして、ナイフを滑らせた。
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