第2話 人魚姫にナイフを
俺には隼人という名の幼稚園の頃からの長い付き合いの親友がいる。
隼人は白い肌に色素の薄い茶色い髪と瞳の華奢で中性的な容姿、さらに内気な性格と俺とは正反対の人間だがどういう訳だか気が合うのだ。
傍にいて疲れないというか、傍にいるのが当然で当たり前というか。
幼稚園はもとより、小学校、中学校、高校、大学までずっと一緒で隼人はいつだって俺の傍にいたんだ。楽しいときも、苦しいときも、悲しいときも、嬉しいときもいつだって隼人はそこにいたんだ。下手したら家族より多くの時間を隼人と過ごしているかもしれない。
大げさにいえば隼人は俺の一部のだったんだ。いつだって、変わらないでそこにいて笑ってる。そういう存在だった。
だから誰よりも俺を知っているのは隼人で、また隼人を一番知っているのは俺だと思ってた。思ってたんだ。
だけど、今思えばあの時から僅かに俺達はずれていってたのかもしれない。
――高校最後の文化祭前日。あの時、初めて俺は隼人が分からなくなったんだ。
「じゃあ、明日は一緒にまわろうね。楽しみにしてる」
「分かったって。気をつけて帰れよー」
「うん、ばいばーい!」
「じゃーなー」
俺は若干の照れくささを必死に隠しながらそう言って、彼女と別れる。彼女はちょこちょこ振り返って笑顔で手を振り続けながら校門の向こう側へと消えた。
そんな様子を可愛らしく思いながら、俺は彼女が見えなくなるまで振っていた手をゆっくりと下ろす。
彼女とは二年のバレンタインの時から付き合い始めた。
ベタなことに、最初無記名で俺の下駄箱に綺麗な青いリボンのついた手作りのチョコが入っていて、喜んでいると後から「実はあれ……」と彼女が名乗り出てきたのだった。
初めての女の子からの、しかも自分の好みの可愛い子からの告白に舞い上がった俺は即座にその告白を了承したのだ。
俺達は上手く行っていて、いつもだったら電車通学の彼女を駅まで送り届けるのだが、いかんせん今日の俺の手の中には教室へ運ぶ荷物がある。
それはちょっとした大きさの模造ナイフで、柄にはきらきらと宝石みたいな飾りも付いていてだいぶ派手なものだ。小道具班が頑張ったらしく、見た目はまるで本物のようである。
俺のクラスでの出し物は劇で演目は『人魚姫』。このナイフはその中で使われるのだそうだ。
一応、危険性がないかどうかのチェックのために先ほどまで生徒会でチェックを受けていたのだ。検査は無事合格。後は教室に運ぶだけである。
俺は人気のなくなった廊下を歩き、階段を三階までせっせと昇る。
一番上の学年が一番大変な上の階なんて間違ってるなどと昇るたびに思っている戯言を繰り返し、昇りきると見慣れた扉が視界に入る。他のクラスは教室を使って店をやったりするため派手に飾りつけられている中、俺のクラスだけ何の飾りもないので少し浮いている。
他のクラスの人間ももう帰ったようであたりはしんとした静寂に満たされていた。
もしかしたらもう校内に残っている生徒は俺だけなのかもしれない。俺もこれを置いたらすぐ帰ろうかな。
そう思ってがらりと慣れた様子で扉を引くと、予想外にも教室内に人影があった。
やわらかな長い金色の髪を背中に流し、白くふんわりとしたワンピースを着た人影は夕焼けの赤に染め上げられた教室で、明かりもつけず台本を枕にして窓際の机に突っ伏していた。
少ししてからそれが誰だか気がついて、俺は苦笑しながら人影に近づく。
「隼人」
名前を呼ぶとぴくんと肩がはねた。が、起きる気配はない。んぅ、と小さな声を漏らしてただころりと顔をこちらへと向けた。さらりと金髪が肩を滑って行く。
顔には薄く化粧がしてあるのだろう、ただでさえ赤く見える隼人の唇がつやつやと光っている。
どうやら隼人は衣装のまま眠ってしまったらしかった。そう、人魚姫の衣装のまま。
隼人が風邪をひいて休んだ日に役を決めたのだ。
それで主役は投票で決めようとなって、いざ開票してみたらみんな面白がったのか何なのか隼人が人魚姫となっていた。当然本人は翌日それを聞いて顔を真っ赤にしながら嫌だと訴えたのだが、もう決まっちゃったしの一言で押し切られてしまったのだ。
最初のうちは恥ずかしい、こんなの着れないと隼人は泣きべそをかいていたが今では、中性的な外見も手伝ってすっかり衣装が似合っている。冒頭の台詞の部分も女子が裏でやってくれるようだし、知り合いでもない限り『人魚姫』が男だと気がつく者はいないだろう。
「隼人」
もう一度名前を呼ぶ。だが今度は反応がなかった。すーすーと安らかな寝息を立ててすらいる。
仕方がないので俺は手にしていたナイフを傍らに置き、身を屈めて隼人の耳元で少し強めに名前を呼びなおしてやる。
「隼人」
「ひゃっ!」
とたん、隼人は自らの耳を押さえて跳ね起きた。一瞬目を白黒させた後、傍らにいる俺に気がついて顔を真っ赤にして怒る。
「もう、いつも普通に起こしてって僕言ってるのに」
「起こしたって。起きなかったからやったんだろー」
本当は名前を二回呼んだだけだが。真っ赤な顔をつついて笑うと隼人は今度は頬を押さえて怒る。
「揺するとか、いろいろあるのに」
少し弄りすぎただろうか。ぶつぶつとなおも文句を言う隼人の機嫌を直そうと、俺は傍らに置いていたナイフを恭しく隼人に差し出す。
「姫、こちらご所望のものです」
突然ナイフを差し出された隼人は不貞腐れたままちらりと一度俺を見て、それから掲げられたナイフを手に取った。
「……これ、取りに行ってたから遅かったんだ」
ナイフを夕日にかざして眺めていた隼人がポツリと言う。その言葉に俺は驚いて、思わず顔を上げた。遅かった、という事は隼人は俺の下校をここで待っていたという事になる。
いつもは一緒に帰ろうって俺が言っても「彼女さんに悪いから」と帰ってくれないのに。
俺が不思議に思って隼人を見つめていると、隼人も自分の発言に気が付いたらしい。ようやく落ち着いてきていた顔の赤がまたぶわりと戻ってくる。
「えっ……と!その、ちがっ、ちがうの!えっと、これ!これを待ってたんだよ!」
そう言って隼人は真っ赤な顔のまま手に持っていたナイフを指し示した。
明らかに嘘だと分かったが、涙目になってうろたえている隼人をこれ以上追及するのはなんだかかわいそうだ。俺は苦笑してその嘘にのってやることにする。
「そっか、待たせて悪かった。それ、そんなに重要なものなのか?」
すると、隼人はうまくごまかせたと思ったのかあからさまに表情が明るくなり、ナイフを胸元に引き寄せてぱあっと笑った。
「そう、これはねラストシーンで使われる重要アイテムなんだよ。無いと困っちゃうんだから」
「重要アイテム?」
そんなに大事なものだったか。俺は幼い頃から何度か聞いた『人魚姫』の内容を記憶から手繰りよせようとするが、うまくいかない。
昔から俺は物語を読むのが少し苦手だったから、あまり印象に残っていないのだ。
そんな俺の心中を見透かしたように隼人はくすくすと笑う。
「自分のクラスの劇なんだから、ちゃんとあらすじくらい覚えておきなよ。大道具係さん?」
「えー。じゃあ今そのナイフのシーンやってくれよ、人魚姫。ちょうどいいじゃん」
からかうような隼人の口調に少しむっとして、俺は『人魚姫』である隼人を指差しそんな事を言い返す。と、隼人は一瞬ぽかんとした後、大慌てでぶんぶんと首を左右に振った。
「むっ無理だよ!恥ずかしいし、そこまでの流れって言うのがあるし!」
「本番はもっと大勢の前でやるだろ?それに、流れだったら隼人が口頭で説明してくれよ」
それで問題ないだろうと思うのだが隼人はどうやらあまりやりたくないらしい。必死になって断る理由を探して抵抗してくる。
「えーっとほら、小道具もこれしかないし」
「別にいいだろ。なきゃできないわけじゃない」
「ほら、ナレーションだってないよ!」
「その辺はあらかじめ隼人が教えてくれればいいだろ」
「このシーン誰も話さないからサイレントムービーみたいになるよ!」
「俺が分かればいいんだし、いいんじゃないか?」
「だったら口頭だっていいじゃない……」
「せっかく衣裳着たままで、ナイフもあるんだ。やってくれたっていいだろ」
「う、うぅ……」
隼人の言い分をことごとく却下していくと、隼人もいい加減ネタが尽きたのか苦しそうなうめき声をあげた。ようやくこれで降参かと思った時、隼人が俺を見ながら顔を赤らめて言いづらそうに口を開く。
「で、でもっ相手の王子いないし……」
それだけのことで一体何故それほどまでに言いづらそうにするのか俺には分からなかったが、先ほどの調子で俺は気軽に言葉を返す。
「それはじゃあ俺がやるからさ」
すると、隼人は驚いたように目を丸くした。ただ茫然と俺の顔を見て小さく呟く。
「……いいの?」
あまりの反応に、台詞もないのにそんなに王子役は大変なのかと俺は隼人が先ほどまで枕にしていた台本を手に取り眺める。が、さらっと読んだ感じ大変も何もどうやら寝ているだけらしい。
それなのに一体隼人はどうしてこんなにも戸惑っているのだろう。俺は首をかしげて台本を置くと再び隼人に視線を戻す。
「別にいいよこれくらい。それとも俺が相手じゃ嫌だって言うのかよ」
「ううん!いいよ、全然いい!」
残った可能性はそれくらいだと思ったのだが、どうやら違うらしい。隼人は俺が了承した途端、嬉しそうに口元をゆるめて再びぶんぶんと首を振った。困ったように笑いながら、それでも嬉しさを隠せないような表情で隼人はぎゅうと胸元のナイフを握りしめる。
「じゃ、じゃあ、よろしく……王子様」
「おうよ、よろしくな姫」
かしこまっておずおずと言った隼人を笑いながら、俺もそう返した。
隼人が簡単にしてくれた説明では、ナイフを使うのは『王子と結ばれることができなかった人魚姫が人魚に戻るため、姉達から貰ったナイフで王子を殺そうとする』シーンらしい。
思っていたよりも凄惨なシーンに俺が思わず眉を顰めると、隼人はくすくすと笑って続けた。
「大丈夫だよ。王子は殺されないから」
「そうなのか?でも人魚姫は王子を殺して人魚に戻らないと泡になって自分が死ぬんだろ?」
そんなリスクを背負っていたら、いくら姫でも助けてくれた人を勘違いして自分を選ばなかった男なんて殺しちゃうんじゃないか。そう思って俺が首をかしげると、隼人は少し寂しそうに笑う。
「うん。それでもね、人魚姫は王子が好きだったから。どうしても殺せないんだよ」
「ふーん?」
よく分からないがそういうものなのか。俺が適当に相槌を打っていると隼人は苦笑した。
「それで、人魚姫が海に飛び込んで日が昇って泡になっておしまい。簡単だけどあらすじはこんな感じだよ」
言われて道理でうろ覚えなわけだ。と俺は一人で納得する。
俺は昔からあまりハッピーエンドではない話は好まなかったから、おそらく一度読んでみて二度と読まなかったのだろう。確か、本自体は隼人の家や幼稚園にあったはずだ。
薄らとした記憶の底を漁ってそんなことを考えながら、俺はよしと立ち上がる。
「じゃあ、やるか。隼人が姉ちゃん達から剣をもらうところからな。姉達は俺が台本棒読みでいいか?」
隼人は緊張した面持ちでこくんと頷くと、恥ずかしそうにこちらを振り返る。
「真剣に、やるから。笑わないでね」
わかった分かったと俺が応じると、隼人はひゅうと息を深く吸い込み俺へと向き直った。
俺は手にした台本をぱらぱらと開き、目当てのページを見つける。姉の台詞なので声を裏声にするべきか一瞬迷ったが、それは隼人にふざけてやってると拗ねられそうなので止めておくことにした。
「『魔女に髪を渡して、私達貴女のためにナイフを貰ってきたわ。これで王子の心臓を刺して、その血を足に塗って。そうすれば、貴女は人魚に戻れるのよ』」
つっかえないように注意しながら、俺はそこに書いてあった一文を読み上げて手にしていたナイフを隼人へと渡す。
隼人の演技は慣れたもので戸惑った表情をしながら、何度か躊躇いつつも俺の手からナイフを受け取った。受け取ったナイフを見つめる隼人に、俺は次の台詞を読み上げる。
「『ただし、一つだけ注意して。日が昇る前に王子を殺さなければ、貴女は泡になって消えてしまうから』」
そう言って姉達はここで再び海へと消える。残された隼人はギュッとナイフを握りしめ、悲痛な顔をして王子の寝室へと向かうのだ。
俺は言われていた通りにいくつか椅子を並べた上に横になる。と、隼人が俺の真横に立った。
本来ならばここで王子は目を閉じてなければいけないのだが、今は俺が隼人の演技を見るためにやっているのだ。問題はないだろう。
隼人は鬼気迫ったような顔で俺をじっと見つめ、手にしたナイフを手が白くなるくらい固く握りしめている。
その表情はまるで本当に思いつめているような表情で、演技だとわかっているのに俺は隼人の様子に思わずぞっとしてしまった。
「……」
隼人は声を出さずに口の形だけで何かを言うと、そっと俺の脇にしゃがみこんで俺の顔を覗き込んだ。
しばらくじっと俺を見つめた後、隼人は苦しそうに、辛そうに表情を歪めて勢いよくナイフを俺へと振りかぶる。ひゅっと風を切る音がした。
――刺される。
そうとっさに思い、思わず俺はぎゅっと目を閉じる。隼人が俺を刺すわけないと分かっていたけれど、今の隼人なら俺を刺すんじゃないか。何故かそんな気がしたのだ。
一瞬の暗闇と静寂、その後にぽたぽたと温かい雨が俺の頬を打つ。
恐る恐る、瞼を開ければそこには視界いっぱいに隼人の泣き顔があった。ぼろぼろぼろぼろと次々溢れてはこぼれる大粒の涙に俺は思わず呆気にとられる。
一粒一粒落ちてくる雫は夕陽に反射してきらきらと輝き、まるでガラスの欠片が降ってくるようでとても綺麗だ。
本当に、これが演技なのだろうか。
隼人がこんな風に泣いたところなんて初めて見た。こんな、辛そうに、苦しそうにただ静かに涙を流す隼人を俺は知らない。
刺そうとしたナイフを胸に抱き、隼人はぼろぼろと声を殺して泣き続けている。その様子があまりにも痛々しくて見ていられなくて、気が付いたら俺は隼人を抱きしめていた。
「――――っ!?」
びくりと体を跳ねさせ固まる隼人を、俺はぎゅうぎゅうと腕で締めつける。どくんどくんと何故かうるさい鼓動がやけに耳につく。どうして、自分の心臓は今こんなにも騒がしいのだろう。
どうして。その答えも見つけられないままに、俺は腕の中に居る隼人をそっと覗きこむ。
俺の視線に気が付いた隼人がゆるゆると視線をあげ、ぱちりと目があった瞬間。
その涙で潤んだ色素の薄い瞳が、泣いて赤くなった目元が、上気した白い肌が、薄く開いた赤い唇が、俺の視線を奪う。
――どくり、と一際大きく俺の心臓が跳ねた。
触れたい。なぜだかそんな強い衝動が俺を襲う。痛いくらいに心臓がその存在を主張する。
「隼人……」
思わず呼んだ声が掠れた。俺を濡れた瞳でじっと見つめたまま固まる隼人に引き寄せられるように、手がその頬へとゆっくりと伸びる。どくり、どくりと鼓動がうるさくて何も考えられない。
そうして指先にわずかに柔らかな感触を覚えたその時――ぱしりと隼人に手を掴まれた。
突然のことに現実に引き戻され、目をぱちぱちと瞬かせる俺に隼人はその瞳に涙を残したまま静かに微笑む。
「……王子様は、起きちゃだめでしょ?」
手を離し、身を離そうとする隼人に俺は戸惑いながら口を開いた。
「でも、隼人あれは演技じゃな――」
「演技だよ。ただの演技。凄かった?」
俺に最後まで言葉を続けさせないで、隼人は珍しく強い口調でそう言い切る。
そのまま隼人は俺の腕から抜け出して、俺に背を向けた。
長い金髪が、隼人の表情を隠す。
「僕、着替えてから帰るから。先、帰ってて」
いやに明るい調子で、隼人はそう言ってすぐに教室から出て行った。
隼人は俺と下校するのを待っていたはずなのに。ここに隼人の荷物は置いてあるというのに。
隼人はどこへ、どうして行ってしまったのだろう。俺には、わからない。
隼人に残された俺はただ茫然として隼人に触れられなかった手を見つめる。
その手にはまった彼女とお揃いの指輪を見ながら、なんとなく俺は隼人が先ほどまでいた腕の中がいやに寒いなと思った。
「隼人……」
なぜ隼人があんなに泣いたのか、あんなに悲しそうに笑うのか分からなかった。
先ほどの泣いていた隼人の様子が鮮烈に瞼の裏に焼き付いている。
あんなにいつも一緒にいたはずなのに、誰よりもそばにいたはずなのに。どうして俺は、分からないんだろう。
その事実に淡い失望感を感じながら俺は随分と長い間、そのまま呆然と座り込んでいた。
いくら待っても、隼人が教室に戻ってくることはなかった。
その翌日からだ、隼人と僅かなずれを感じるようになったのは。
どこがおかしいってわけじゃない。隼人はいつも通り優しかったし、笑ってた。
だけど何かが違ってたんだ。今までとは決定的な何かが。
それが分からなくて、分からないから聞く事も出来なくて、俺は結局その違和感を見なかった事にしてしまった。
隼人は一体どうしたのか、俺には分からない。それを認めたくなかったんだ。
そうして分からない隼人から目を背け、耳をふさいだまま俺は高校を卒業し、大学を卒業した。
隼人はその間もずっと俺の傍で笑ってくれていたというのに。
そして十年後、悪夢が襲う。
俺は高校から付き合い続けた彼女と結婚式を挙げてみんなに祝福され、まさに幸福の絶頂にいた。
その披露宴の後、アルコールと疲労でうとうとと礼服のままホテルで船をこいでいるときにその悪夢は飛び込んできた。
『隼人が海に落ちたらしい』
それは俺のふわふわとした眠気と幸福感を吹き飛ばすには十分すぎる冷水であった。
「隼人……!はやと……っ!」
叫ぶようにその名前を呼びながら俺は礼服のまま海に潜って、ばしゃばしゃと冷たい海を探る。
何度も何度も冷たい海水を飲みこみ、えづきながら必死でその姿を暗い海の中に探した。
寒さなんて感じなかった。ただ、胸を引き裂くような焦燥と絶望感だけが俺を支配していた。
「隼人……!」
隼人が海に落ちたと聞いてから、すでに五時間たっていた。
やがて日が昇り、不気味なほど綺麗な朝焼けが空を染めた時捜索隊のほうから声が上がった。
きっと隼人が見つかったのだろう。俺は疲労と寒さでがくがく言う体を引きずって声のほうへと向かう。
大勢の隊員たちをかき分け、俺は網の上で寝ている隼人のそばへと跪いた。
隼人はただ眠っているように見えた。いつもみたいに静かに、横なってるだけみたいだった。
「……はやと」
俺は叫びすぎて掠れた声でその名前を呼ぶ。隼人は起きない。ぴくりとも動かない。
だから今度は身を屈めて隼人の耳元で少し強めに名前を呼びなおす。
「隼人」
隼人は起きない。耳を押さえて跳ね起きることも顔を真っ赤にして怒ることもない。
「隼人、起きろよ。隼人――っ」
そっとその白い頬に触れ、そのぞくりとした冷たさに思わず手を引いた。
その温度が信じられなくて、俺は呆然と隼人を見つめる。
「……嘘だ」
「残念ですが、ご友人は――」
「嘘だっ!」
残念そうに、話しかけてきた隊員を跳ね除け俺は叫んだ。その様子を見て、隊員たちはそっと俺たちから離れていく。
「……隼人、嘘だよな」
二人きりになって、もう一度俺は隼人に話しかける。声は震えていた。
「そんなわけないよな、起きろよ。隼人、はやと、はや……っ」
名前を何度も呼んでいるうちに勝手に涙が零れた。嗚咽が喉を塞ぐ。
「はやと……ッ!」
叫ぶように名前を呼んでも、体にすがりついても隼人は起きない。それが悲しくて、苦しくてぼろぼろぼろぼろと俺の瞳から涙が溢れては落ちていく。
「うそ……はやとくん……」
突然聞こえたその声に後ろを振り向いてみれば、そこには髪と同じ色素の薄い瞳を見開いて顔面蒼白になった彼女が立ちつくしていた。彼女もまたその場に崩れ落ち涙を零し始める。
「はやとくんごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……ゆるして……」
嗚咽の隙間から洩れる謝罪の言葉を一瞬不思議に思ったが、すぐに俺の顔からもさっと血の気が引いていく。
そうだ、考えてみれば隼人が海に落ちたのは海の近くで披露宴を行ったからではないか。しかも、披露宴で隼人はお祝いだからと、苦手なアルコールを無理して飲んでいたはずだ。
もしかしたら、隼人が海に落ちたのは――俺の、せいなんじゃ。
「あ、ああああ……あ……」
気が付いてしまったその事実に俺の口からは声にならない声が溢れ出る。
そんな、嘘だ。うそだ、隼人が海に落ちたのが、目を覚まさないのが、俺のせいなんて。
俺が、隼人を殺したなんて。
「うわあああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
耐えられない悪夢と絶望が俺の喉を迸る。絶叫が朝の静かな海岸に響き渡る。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!!!
ただ信じたくなかった。拒絶したかった。それでも、隼人は目の前で眠ったままで。
「うう……ッ……あ……ああ……っ」
「ごめ……なさ……っ……ごめん……なさ……ゆるし……て……」
俺が漏らす絶望の呻きと途切れなく続く彼女の謝罪の声が重なる。
ああ、俺達は罪人になってしまったのだ。
俺達はこの日、恋よりも愛よりももっと堅く、冷たく、重たい鎖によって結びつけられた。離れることは、許されない。
俺達は隼人を失った空虚に、罪を抱えて生きて行かねばならないのだ。これを悪夢と地獄と呼ばずしてなんと呼べばいいのか。
絶望に暗く沈んだ視界の中で、ただ隼人の傍に落ちていたナイフだけがぎらぎらと輝いていた。
「あーあ、バレンタインか。隼人はいいよな、いつも誰かしらチョコくれるもんな」
二月の頭。寒さに身を縮ませながら、バレンタインフェアで彩られたケーキ屋の前を通って思わず俺は隣を歩いている隼人にそうぼやいた。
隼人は一瞬何のことかと目をぱちぱちとさせ、それから困ったように笑う。
「……本当に欲しい人からじゃないなら、そんなに嬉しくないんだよ?」
隼人の毎年の人気を思い出すとそんな謙虚な言葉さえどこか憎たらしい。毎年の自分の様子と比較して、俺はちょっと拗ねたような気持ちになる。
「嘘つけ、俺なんか誰でもいいから欲しいぞ。下駄箱に入ってたりなんかしたら小躍りするね」
自棄になって俺がそんなことを零すと、隼人は何故かぱっと表情を明るくして俺のほうへと身を乗り出してきた。
「ほ、ほんとに?貰えたら、嬉しい?」
「当たり前だろー。全く、隼人は変なところでずれてるよな」
たとえ付き合うことができないのだとしても、人から好意をもたれるというのは嬉しいことだ。
そんな当たり前のことを聞いてくる隼人がおかしくて思わず笑うと、隼人はいいことを聞いたというようにふわりと笑みを零す。
「そうなんだ……うん、分かった。バレンタイン、僕も楽しみになってきたよ」
「どういうことだ?」
「ううん、内緒。ねえ、確か青色が好きだったよね」
今の情報が隼人に何を与えたのか不思議で、俺が首を傾げると隼人は上機嫌で人差し指を唇の前に当てて笑った。そして唐突に変わった話題に、俺は苦笑する。
「なんだよ急に。そんなのずっと前から知ってんだろ」
「ううん、なんでもない。ただの確認」
くすくすと上機嫌で俺に笑いかけてくる隼人に自然と俺の頬も緩む。
何が隼人をそれほどまでに浮き立たせているのかは分からないが、隼人が嬉しいことはきっと俺も嬉しいことだろう。
だって、こうして隼人と過ごしているだけで俺はこんなにも幸せなのだから。
ああ、願わくば愛すべきこの平和な日常がいつまでも続きますように――
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