第189話 ■「綺麗な月」

 魔稜の大森林から帰還して一週間の十二月二日。


 その間、僕は滞っていた執務やローザリアに関しての手続きに忙殺されることになった。


 グエン領からはレスガイアさんのように旅人ファーナとして王国に住み着いた亜人はいる。

 けれど多くの場合、その素性を隠していたり人里離れた場所に隠者のように住んでいるのだ。


 辺境とはいえ主都にグエン領出身の亜人が住むことは過去にも例が無いらしい。


 王国とグエン領とは交流が無い故、口伝で誇張された亜人の生活レベルの低さに見下した感情がある事も原因の一つだろう。

 バルクス領はグエン領と隣接しているため幾分薄いとはいえ、それでもその感情を抱く住人は数多い。


 まずはその感情をより薄めることが当面の目標だろうか。

 そういった意味でもローザリアとの接し方については色々と考えていく必要があるだろう。


「……ふぅっと、いつの間にか暗くなってるな」


 大量の書類確認やローザリアについて考えている内にいつの間にか日が暮れていた。

 誰かは知らないけれど部屋の明かりをつけてくれていたらしい。

 それに気付かないくらい集中していたのか。


 執務室は僕以外は誰もいない。

 外の暗さから考えれば勤務時間は終わっているだろうから皆帰ったのだろう。


 普段騒がしい分、こうして静かだと新鮮だ。


「ま、たまには静かなところで仕事をするってのも乙なものか……」


 そう呟いた僕の耳に控えめなノック音が届く。

 それに答えると扉を開いてベルが部屋に入ってくる。


「エル様、まだお仕事中でしたでしょうか?」

「ううん、そろそろ終わろうと思っていたんだ。何か用事でもあったのかな、ベル?」


「いえ、その、星が綺麗でしたので一緒にテラスでお茶でもどうかな。と思いまして……ご迷惑だったでしょうか?」

「ううん、そんなこと無いさ。ここ最近忙しくて満足にベルのお茶が飲めてなかったから大歓迎だよ」


 そう返す僕の言葉に、ベルは嬉しそうに笑うのだった。


 ――――


「あー、確かに雲ひとつ無いから星がよく見えるね」

「はい、とてもくっきりと……」


 テラスに出た僕とベルは、テラスに置かれたテーブルに着くと夜空を見上げそう漏らす。

 それからしばらくは夜空を見上げて何も喋らない。


 その間に流れる静寂は嫌なものではない。

 むしろ、この家の書庫でお互いに無言で本を読んでいた頃を思い出す。


「フフッ」


 そう考えながらボーっとしていたら不意にベルから笑い声が零れる。


「どうかしたベル?」

「あっ、すみません……少し昔の事を思い出しまして。こういう風に二人で何も喋らずに過ごしてたことがあったなって……」


 それに僕は笑う。


「偶然だな。僕もちょうど思い出してたんだ。こうやって二人で書庫で無言で本を読んでいたなって」

「はい、私はエル様の前の世界の言葉を覚えるために。エル様は魔法を理解するために……あれからもう十二年経つんですね」


 この十二年間はあっという間だった気がする。

 ファンナさんの代わりに僕のお世話係としてベルは来た。


 そして彼女が『ギフト』の所有者と分かったり、クリスと仲良くなりそして別れたり。

 母さんの好意でベル一家は突如貴族になったりもした。


 それからも彼女はこうして僕の傍で過ごしてきたのだ。


「色々あったね」

「はい、本当に色々ありました。……エル様」


「ん?」

「私は少しは変われたんでしょうか?」


「もちろん、あの頃に比べれば精神的にも強くなった。それに……」

「それに?」


「素敵な女性になった」

「あ……」


 僕の言葉にベルは黙る。

 その沈黙は長く続くと思えた。


「エル様、月が、月が綺麗ですね」


 ベルはその沈黙を破るように呟く。


「うん、そうだ……」


 それに普通に答えようとした僕の視界の中にベルの顔が入る。

 そこに浮かぶのは真剣な眼差し。


 他愛も無い会話をしているとは思えないほどに。


 そして僕は思い出す。かつての光景を。


 ベルに僕の事――生まれ変わりであること――を話したのが十歳の頃。

 それ以降にベルが興味を持ったことがある。


 元の世界の文学についてだ。


 この世界は印刷機能が無いから本というものは非常に貴重だ。

 だから芸術的な知識を得る方法は書籍よりも口伝を元にした演劇の方が発達している。

 元平民であるベルも文学はほぼ触れたことが無かった。


 けれど元の世界は文学の宝庫だ。

 文字を読むことが出来るようになったベルにとっては新鮮だったのだろう。

 一時期、古今東西問わずにむさぼるように読んでいた。


 その中には勿論、夏目漱石も含まれていた。


 夏目漱石にはこんな逸話がある。

 彼が一時期英語教師をしていた時、ある生徒が「ILOVEYOU」を「我、君を愛す」と直訳した。

 それに対して、彼は「日本人はそんな事を言わない」として、ある意訳をしたという。


 『月が綺麗ですね』


 だ。


 この世界はどちらかと言うと欧米チックだ。

 自分の意思をズバリと表現する人のほうが多い。

 けれど、ベルは日本人寄りの性格、自分の意見を言うことを苦手とする。


 ……うん、正直ベルが誰かに対して『愛しています』と告白するイメージが湧かない。

 だからこそベルはこの言葉に自身の想いを乗せたのではないだろうか?


 『月が綺麗ですね』


 そんな普通の言葉に含まれる別の意味を知っているのはこの世界では僕ただ一人なのだから。


 さて、どうするか? と僕は考える。

 考えるといっても断るという選択肢は無い。あろうはずも無い


 我が最愛の妻からは、事前にちゃんと相手の気持ちに答えるようにお達しをいただいている。

 ベルにとっては精一杯の告白に僕は真摯に答える義務がある。


 一般的に『月が綺麗ですね』に対して返す場合、『死んでもいいわ』や『時よ止まれ』が有名だ。

 『死んでもいいわ』は漱石の同時期に活躍した二葉亭四迷ふたばていしめいが『あなたに委ねます』という言葉を意訳した言葉。

 『時よ止まれ』は森鴎外もりおうがいが、ドイツ語から訳した『時よ止まれ、汝は美しい』から来ている。


 けど、うーん、両方ともベルに対して返す言葉として僕の中でしっくりいかないのだ。


 そこで思い出す。ベルが気に入っていた本の一つを。


 それは『山家集』


 平安時代の歌僧西行法師の歌集だ。

 当時は僕が生まれるよりも八百年以上前の言葉だから参考にならないよと笑ったものだ。


 けどその中に、返しとしても美しいといわれる言葉があったのだ。


 僕は一度深呼吸をし、ベルに笑いかける。


「『巡り会いつつ影を並べん』」

「あっ……あぁ」


 僕の言葉の意味がベルの中でにじんでいくに合わせて、ベルの瞳からは幾筋もの涙が零れる。

 けれどその顔は笑顔。


 僕は右手でベルの涙を拭う。それにベルは抗うことなく委ねる。


「ベル、本当に僕でいいの? 僕にはクリスがいる。つまり側室、本妻には……」

「かまいません、誰でもない。エルさ……んだからいいんです」


 ベルは、目をそらすことなく僕に告げる。

 それはかつての……出会った頃のベルからは想像もつかないほどの強い意志。

 事ここに至っても僕を呼び捨てにする事は出来ないみたいだけれど『様』から『さん』になっただけでもベルとしては大きな譲歩だろう。


「そっか、わかった。ベル。これからは僕の隣で……」

「はい、影を並べて……」


 それに二人して笑う。

 そして僕はベルを優しく抱きしめるのだった。


 夜空には月が優しくその光を放つのだった。


 ――――


「良かったよ。本当に良かったぁ」

「告白の意味は分かりませんでしたが……素敵でした」

「ベルもエル君もおめでとうだよ」

「うん、ベルの気持ちがエル様に届いたんだもん」


 その二人を遠巻きに見る影が五つ。

 ベルの最愛の友達である。


 ベルが何だか何時にもまして気合が入っている。

 そうメイリアから連絡を受けた皆でベルの告白を見ていたのである。


 その告白の言葉、というより世間話としか理解できなかったが、二人では意味がある言葉だったのだろう。

 ベルの笑顔で涙を流す表情に、自分達も感情を揺さぶられてもらい泣きをしていた。


「それにしても……クリス」

「何?」


 ユスティが尋ねる。


「自分の旦那が告白される風景を見るってどんな気持ちなの?」

「んー、色んな感情があるけれど……でも」


「でも?」

「最愛の友達が幸せになる事が何よりも幸せ」

「そっか……そういうもんなんだ」


 ユスティには理解できない感情だ。

 自分も誰かさん――誰とは言わないが――の妻になれば理解できるのだろうか?


「あ、そうそう」

「?」


 そうクリスが思い出したかのように口を開く。


「ベルの告白も成功したことだし、皆も告白しても問題ないからね。

 うん、結婚式をするんだったら一緒にやったほうが楽だし……」

「うわぁ……」


 こうして爆弾を落としていくのだった。

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