第117話 ■「執務と教育と」
バルクス伯爵になって、さぁ頑張るぞ! と思っていた僕だけれど……
「ベル、この山積みになっている書類はなんだろ?」
執務室の僕の机の上には三十㎝はあるんじゃないかと思う紙の山が二つ。
正直嫌な予感しかしないから聞きたくはないが聞かざるを得ないだろう。
「えっと、左側の書類は今年度の各町村の税まわりの報告書や工事に関しての申請書。
右側は領民からの陳情書になりますね」
「陳情書ってのは?」
「主に隣人トラブルや土地を巡ってのトラブルなどが多いです」
うそだろ。そんなものまで領主に来るのか。
そういった物は民事で解決…………あれ? 裁判所ってあったっけ?
「ベル。この世界には裁判制度ってないの?」
「裁判……ですか。おそらくどこも領主が対応という感じですね。
実際には執務官が処理していることがほとんどだとは思いますが」
「それって、領主の裁量次第ってこと?」
「そうですね……気にした事もなかったですが……」
この国には法律の制度が二種類存在する。
『王国法』と『領土法』だ。
王国法は、王族を崇めましょうとか貴族に管理させるとかそういった王国の指針が主で個人に対する法律ではない。
一方、領土法は領主、つまり貴族が定めた法でこちらの方が領民にとっては重要だ。
領土法は王国法と矛盾する部分がなければ、どう定めても問題がない。
極論からいえば、『殺人を行っても罪にならない』と領土法に定める事も可能なのだ。
とはいえ、法律を作るなんてほとんどの人には難しい。
そのため領土法のベースがあって、それを自分の都合がいいように変更している事がほとんどだ。
その結果、民事の訴訟であっても領主に訴えるというベースの法がそのまま使われている事が多い。
しかしそれにしても今の時点で陳情書がこれだけ来るのだ。
今後、領民を増やしていこうと考えている僕にとって陳情処理だけで日が暮れる事になりかねない。
封建社会での三権分立は難しいけれど、司法だけでも独立させることを考えないといけないな。
「ベル、民事や刑事の法律を作れる?」
「さすがに無理ですエル様。日本の法律を真似る事はできるかもしれませんが……
実際それがバルクス伯の法律として適法かどうかは判断できません」
「だよねぇ」
僕の中では法律は、大学の教授や弁護士みたいな有識者が何人も集まって作り出すっていうイメージだ。
あくまで僕のイメージだから実際にどう作っているのかまでは分からない。
日本にいた頃は作ろうなんて思ったこともないからしょうがない。
けど今後の負担を考えると裁判所は作っておきたいんだよな。
その為には法律が必要になる。やはり『政に長けた仲間』の発見が急務か……
「とりあえず裁判制度については一旦保留として陳情の対応をするか……
ベル、悪いけれど陳情の内容ごとに整理してもらってもいいかな?」
「はい、分かりました」
さて、ベルに陳情の整理をしてもらっている内にもう一方の申請の対応をするとしますか。
こうして、僕の伯爵生活は紙との格闘から始まるのであった……
――――
「うん、やっぱり人が足りない!」
あれから三日。僕はその結論に辿り着いていた。
毎日のようにやってくる陳情書や申請書。
それらをベルやメイリア、バインズ先生、そして父さんの頃から仕える執務官三名も含めて奮闘していた。
陳情書の中身も多種多様だ、中には『牛の乳の出が悪いから何とかしてほしい』なんてものまである。
正直、僕に言われてもどうしようもない。
というか送ってこないで……と思うんだけれど本人にとっては死活問題だから質が悪い。
けれどこの対応だけでその日が終わる……というか対応だけでクタクタになる。
……裁判所もだけれど市役所も欲しい今日この頃だ。
「……というわけで、執務官を増やそうと思います」
その日の夕食時、僕は父さんと母さんに相談をする。
我が家の食卓ではあるけれどベルやメイリア、バインズ先生も一緒だ。
ベルやメイリアについては、そのままだと一人暮らしになってしまう。
十五歳は成人扱いにはなるけれど、二人とも僕の手伝いで忙しく家事をしている暇はない。
そのため事前に父さんと母さんが我が家の傍の土地を購入。
そこにバルクス家の別邸という形で家を建てていた。
今はそこで二人は共同生活を送っている。
家事については何人かのメイドさんによって行われている。
いずれは仲間達もそこに寮生活みたいな感じで住むことになりそうだ。
ふむ、勤務地のすぐ傍に家か……『終電なんで帰ります』という伝家の宝刀が使えないのか。
あーいかんいかん、この世界にはそもそも電車がなかった。
バインズ先生については、家族で住むための家を別で購入しているんだけどね。
食事については寂しいだろうからと皆で取るように――母さんの強引な説得で――決まった。
そして食事の場所は昔のように僕の状況報告や相談の場所になっている。
基本的に父さんと母さんは僕が相談するまでは動かない。
まずい事をしようとしたら止めてくれるだろうけれど、少しの失敗であれば経験させようというスタンスらしい。
「そうねぇ、今手伝ってくれている人で執務経験が豊富なのってベイカーさんだけだものね。」
ちなみにベイカーさんってのが父さんの頃から仕える執務官の事だ。
他にも三名ほどいるのだけれどベイカーさんに比べるとやはり経験の差は大きい。
「それで五人程度、雇おうと思うのですが給与面などからも適正なのかどうかが分からなくて」
こういった人件費と言った部分は、さすがにまだ把握しきれていない。
どれくらいの給料にすればいいのか? といった部分も含めてだね。
「バルクス伯の財政から考えれば最大で十二人、適正値としては九人というところだろうな。
エルが考えるように五人程雇い、それでも足りないようであれば随時でいいんじゃないか?」
父さんが具体的な人数を教えてくれる。
伯爵領なのに最大で追加できても十二人って少なくない? と思うかもしれないが執務官というのはべらぼうに給与が高い。
それは高等技術を必要とするからだ。
ついつい日本の教育レベルで考えがちだけれどこの世界では、そもそも読み書きが出来る人の方が少ないのだ。
執務官に必要な能力である読み書き・計算なんかは親に教えてもらうか、多額の教育費を払って学校に入学させるしかない。
そもそも親に学がなければ前者は無理、そして学がない親が大金を稼ぐことが出来ないので後者も無理という負の連鎖になっている。
子供もベルのように七歳の頃から労働力として駆り出されるから勉強をするという事も出来ない。
結局、それが出来るのは貴族か一部の裕福な平民だけと絶対数が少なくなる。
絶対数が少ないという事は、その分だけ貴重な人材となり給与が高くなってしまうのだ。
やっぱり初等教育だけでも受ける事が出来る場所が欲しいところだ……
初等教育……古き日本で言えば『読み・書き・そろばん』というところか?
「分かりました。それでは五名程雇用する方向で検討します。
ところでもう一つ相談なのですが……」
「なにかしら?」
「執務官にしろ伯爵家のメイドや執事にしろ、教育を受けたものでないと就職できません。
けれど裕福でなければ教育を受ける事すら出来ないというのが現実です。
僕はその教育を受ける事が出来ない中にも金の卵が埋もれていると思うんです」
「……それで?」
僕の説明に父さんと母さんが両方とも食いついてくる。
「ですので子供に、最低限の教育『読み・書き・計算』を無償で学べる場所を作りたいのです。
強引な手段になりますが出来れば教育を義務化したい」
おそらく親にとって子供は貴重な労働力という意識が高い。
いや、自分自身が子供の頃も労働力として使われただろうからそれが当たり前なのだ。
もし『無償で学べますよ』と聞いても、飯のタネにもならないと判断される可能性が高い。
まずその意識改革が必要だ。
そのために僕の伯爵という権力は話を無理やりにでも進めるには使える。
……ま、当面の間、僕の評価は下がるだろうけれどね。
子供が教育を受ける事が出来れば、それは孫・ひ孫へと続く財産になる。
学があれば、別の職業に就くことも出来るかもしれない。
その可能性を生まれた家のせいで摘んでしまうのはあまりにもったいないのだから。
「なるほど、それで教師や予算はどうする?」
「はい、執務官五名の他に教師として三名雇おうと思います。
まずは伯領全体というのは予算的に厳しいのでエルスリードの子供、五百名程で試験的に開始。
その中から優秀な子を教師役として雇用して徐々に拡張……というのではどうでしょう?」
そう、これは一朝一夕で出来る事じゃない。
バルクス伯全土の人口が六十二万人という事を考えれば、まず教師が絶対的に不足する。
五年・十年単位で教師の採用、拡張を進めていく必要があるだろう。
「ふむ、色々と無茶があるだろうから私とベイカーとで実現性や予算といった部分を詰めるとしよう。
一旦、私預かりでいいか? エル?」
「はい、ぜひよろしくお願いします」
この案件について父さんが動いてくれるのであればありがたい。
正直な所、陳情・申請を処理しながらこの案件『寺子屋計画(仮)』を検討するのは厳しかった。
その分、父さんとベイカーさんであれば安心しておまかせできる。
こうして、執務官の雇用と『寺子屋計画(仮)』は動き出したのであった。
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