第2話 退院
俺としては最初は不安があった、主導権で揉めたりしたらどうしようとかね。まあ杞憂でした。なんか僕の方はすごいワクワクして来るし、結局は自分同士なんですぐに分かり合えるし、互いに隠し事は出来ないし、片方が思ったことはすぐに相手に伝わるしね。この日病院のベッドで対話に入った時は、最初のうちはなんというか会話をしていたんだが、慣れていくうちに会話体ではなくなっていった。片方が思うことは瞬時に相手に正確に伝わるし、単語ではなく概念がそのまま使えるので文字通り「話が早かった」んだ。
逆に概念を言葉にするのは少し時間がかかってくる。ちょっと先のことになるが、学校のテストをしているときなどに、答えを出すためにわざわざ脳内で会話をしなければならない事もある。
さて、話は戻るがなぜ私が入院しているかというと、中学入学を控えた春休み、短期ながら入院を必要とする喉の手術をこの機会に済ませておこうと言うことだそうだ。これには少し俺は驚いた。というのも前世では喉、いわゆるアデノイドを疑い検査を受けたのは覚えているが、手術を受けた記憶は無いからだ。確かにこの頃の俺は身体が弱く、季節の変わり目には必ずと言ってもいい程熱を出しては寝込んでいた。いつも扁桃腺が腫れて辛かったのを覚えている。で、この際治るものならと検査を受けたのだが、切るほどの事ではないということで手術は回避したはずなのだが。
術後の夜は結構な痛みに苦しんだ。眠れずに私は、特に俺は考えた。これは元いた世界と微妙に違うのではないか、多重世界ということなのか、もしそうならば違う人生を歩んでも良いのではないか、少なくとも為す術もなく病気で妻を失うようなことのない人生を目指すべきではないのか。眠れぬまま俺はそんなことを考えた。片割れたる僕からも特に反対はなかった。
なぜこんな転移をしてしまったんだろう。残念ながら神様も女神様も出てはこなかったから訳がわからない。死んだカミさんに対する妄執か、病気を治すことができなかったという後悔か、それとも死にかけている俺の見ている単なる夢の世界なのかもしれない。胡蝶の夢の例えもあるしね。
入院中の転移でよかったことの一つは、俺と僕がスムーズに現状の理解、意志の共有を図れたことだ。たぶんだが、普通に家で目が覚めたら頭のなかにもう一人の自分がいた、なんて事になっていたら、まわりを巻き込んでの混乱があったに違いない。術後は安静のため喉を使わない前提で事は進んでいく。絶食だし喋らなくても不自然さはない。手術に立ち会っていた父も目覚めた私を見て安心して帰っていった。
もう一つの良かったことは、身体の動かし方だ。翌朝術後初めてトイレに行こうとして驚いた(安静中は尿道カテーテルが付けられていた)。うまく歩けないのだ。病院の廊下なのであまり目立たないが、右左右左と強く意識しないと足が進まない。どうなることかと焦ったが、すぐに解決することができた。俺が僕に身体のコントロールを委ねればよかったのだ。どちらか一人の判断で動けば動作に不自由はないのだ。
それでも俺の判断で動きたいときもある。その都度切り替えるのは慣れるまでは大変だった。これも入院中になんとか折り合いをつけることができた。こんなこと家や学校でなんか絶対に出来なかっただろう。
しかしこの身体のコントロールというのには、後々まで苦労させられた。日常生活やスポーツをする時など、常にどう動けばよいのかなどと判断しながら身体を動かすわけにはいかない。中学入学後の体育の時間など本当に苦労した。突然転んだり何かにぶつかったりしていたからね。これは本当に慣れるしかなかった。
数日の入院を済ましてようやく退院となった。病院は繁華街の近く、住宅地から少し坂をあがったところにあった。それなりに大きな施設で、もともと私には馴染みのあった病院だ。今の時点から四年ほど前に母を亡くした場所なのだ。僕の記憶にはまだ鮮明にその頃の出来事が残っていた。ただ俺にとっては嬉しいことでもあって、ほとんど消えかけていた母の姿、動いている母の記憶が僕の記憶を通じて再現されるのは、懐かしくもあった。九才で母を亡くすというのは結構辛いことだよなあ、僕に対して俺はそんなことを思った。変な話だ今更だが。
何か食べて帰るか、と迎えに来た父が言うので「そばが食べたい」と言うと父の顔がほころんだ。入院中のあまり食事が進まない様子を見ていたので改めて安心したのだろう。
しかし若いな、そば屋で向かいに座った父を見て思う。もともと若作りだったはずで、小学校の頃、姉は授業参観に父が行くと、皆に若いおとうさんね、と言ってもらえて嬉しかったそうだ。母親たちの出席が多かっただろうからさぞ目立ったことだろう、まあ女の子の世界の話だ。
店にはテレビがあって歌番組をやっていた。あったなあ、司会者がいて曲紹介をして生バンドで歌うんだよ。また千昌夫が出てきた。これ大ヒットするんだよなあ。確か中国でも流行るんだ、カラオケでも。まだカラオケはないんだな。あと十年ぐらいすればカラオケが出てくるのか。
繁華街とは言ったが、うまくニュアンスが出せないので実名でいく、わからない人にはわからないだろうが、ここは神戸の新開地だ。昭和40年代の今では、まだ神戸で一・二を争う賑やかな街だ、少し柄が悪いが。
もう少し歳をとってからこのあたりを舞台にした小説を読むと、しばしばその描かれ方に驚いたものだ。ほとんど無法地帯のような扱いだ。特に戦後しばらくの頃が時代背景だと。
後にB級グルメ情報なんぞが流行るようなったころ、たしかこの蕎麦屋さんも老舗の店としてよく紹介されていた。ここの天ぷらそばは美味しかった。昔も今も。俺からすれば昔が平成で今が昭和だが。
私達の住んでいるのは、ここから海に向かって数キロいった工場地帯の手前にある県営住宅だった。コンクリート作りの団地のはしりといったもので、「おしゃれではない」コンクリート打ちっ放しにペンキ塗り仕上げの、もちろんエレベーターなどあるわけもない五階建ての三階の2Kの部屋に親子三人で暮らしていた。
病気で母を亡くしたのはこの時点からさかのぼること四年前となる。私が小学校三年生のときだ。それからずっと親子三人暮らしだ。たまに数ヶ月単位で祖母がいることがあったが、基本は四つ年上の姉と父とでの生活だ。そんな中で私が病弱なんだから困ったものだわ。よく親父もがんばっているな、今幾つになるのか、四十代前半か、若いな。
この時代に流行っていた言葉に「鍵っ子」というのがあった。俺や姉はそれのはしりだったんだろうな。学校から帰ると扉の鍵を開けて中に入る、俺の感覚からすると当たり前の感じだが、この当時は家には母親などの誰かがいて、鍵のかかっていないのが普通のことだった。俺の記憶でも友達の家に遊びに行くと鍵など掛かっておらず、適当に声をかけただけで出入りしていた。まだ核家族化が進む前だったんだろう。事情も良く知られていて、どこへ遊びに行っても母を亡くした私は同情されていたのだろう。それなりに優等生だったしね。
まあそんな生活の中に戻っていくことになったのだ、「俺と僕」は
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