宇宙幽霊とエルフの靴下

marvin

宇宙幽霊とエルフの靴下

 部屋の端から渡した紐に、沢山の黒い靴下が掛けてある。ぼくは床に胡座をかいて、吊るした靴下を下から見渡していた。素材はコットン、山羊や羊、兎なんかの動物繊維も少し。いま、どれにしようか思案中だ。

〈私にはどれも同じに見えますが〉

 アタランテが頭の中でぼくに囁いた。

 知覚は共有していても、アタランテはまだぼくの耳を上手く使えない。この靴下の違いを、よくわかっていないみたいだ。

〈まあ、コーディネイトに迷う心配はないようですが〉

 どこか投げやりだ。全部おなじ黒だからか。それとも同じ長さだから?

〈今のショートパンツなら、本来はサイファイソックスをお勧めするところですが〉

「それって、フーの好みなの?」

〈あの人の関心を惹きたければラコシの仮装でもすることですね〉

 アタランテからは肩を竦めるような気配が伝わってくる。何だラコシって。

「靴下はもう履いてるでしょ。今はどれを売るか迷ってるの」

 少し熱くなった耳の先を振って、ぼくはアタランテに説明した。

〈売る、ですって?〉

「ぼくも食い扶持くらいは稼がないと。このままだと、ただの居候になっちゃうからね」

 アタランテはなぜか言葉をなくして押し黙ってしまった。

「フーの書庫で見つけたんだ」

 ぼくは胡座の上にモニタを浮かべて、フーの閉鎖書架を開いた。そこにはまだ地球に人が暮らしていた頃の資料が入っている。

「靴下ってこっちの世界でも売れたんだね。顔写真がついてると高いんだって。野菜と一緒かな。育てた人が見えるから」

〈フィン?〉


 ぼくはフィンカ。れっきとした女性名を持った十五歳。でもみんなはまだ幼名でフィンと呼ぶ。ガラクティクスに暮らして一年足らず。たぶんこの世界でたったひとりのエルフだ。

 アタランテはぼくらの共生体だ。身体の中にいるのはごく、ごく小さなたくさんのボットで、本体はデータストリームの中にいる。本来は体調を整えたり言葉や知識を補完してくれたりするのが仕事なんだけれど、いまはぼくらに小言を並べることの方が多い。


「でも、靴下で種麹を作るのって、エルフだけじゃなかったんだね」

 知っての通り、エルフの靴下は麹の苗床だ。ぼくの場合は酒や味噌、電池や塑性材の元になる麹が多かった。どれも高値で取り引きされる貴重品だ。

 フーとアタランテによると、大むかしにエルフの松果体に同居した真核生物が、同類を感知する特殊な受容体を作り出したのだそうだ。何のことかよくわからないけれど。今それはぼくの全身に分布していて、特に集中しているのが耳と足の裏だ。だからエルフは耳で菌類を嗅ぎ分けるし、足でそれを育てることができる。

〈いずれにしても、この世界では不可です〉

 なぜか疲労に喘ぐような声でアタランテは言った。

〈切羽詰まっているわけでなし、貴重な靴下を売る必要はありません。むしろ世間的におやめなさい〉

「だって、フーだって働いてるんだよ?」

 あのガラクティクスいちの物ぐさが、蛞蝓退治だの紅葉狩りだの、しょっちゅう、わけのわからない依頼に駆り出されている。ぼくだけ何もしないわけにはいかないじゃないか。

〈放って置きなさい。フィンに養われるようになったら終わりです〉

 アタランテはそう断じた。

〈ですから靴下は仕舞ってください。ただし冷蔵庫はだめです〉

 そう。確かにこの前はそれで失敗した。家事ボットが冷蔵庫の靴下に混乱して、全部洗濯してしまったのだ。あれはもったいないことをした。

〈化学脱臭には限界がありますからね〉

 え?

「脱臭ってなに。ぼくの靴下が臭いって言うの?」

〈匂いの善し悪しは生活習慣や個人の嗜好によります〉

「臭くないよ。そんなはずない」

 ぼくは焦った。ぼくの靴下が臭いなんて心外だ。

「フーに訊いてくる」

 吊るした靴下を片端から抱え込んで、ぼくは部屋を飛び出した。


 フーことフースークはひょろりとした男の人だ。先の丸い耳と、身体がくすぐったくなるような黒い黒い瞳をしている。相対的に無限に財産のある地球領主のひとりで、帝国の専門家。この家と地球の十三分の一はフーの持ち物らしい。格好いいけど物ぐさな人だ。

 ぼくの元いたところは飛行機さえなかったけれど、ここは宇宙に船が飛んでいる。ガラクティクスは銀河の四分の一を占める人類版図、いわゆる地球が出自のアースリングの世界だ。ぼくはいま、この世界でフーと暮らしているのだ。


 フーは朝からお気に入りの長椅子に身体を伸ばして、三次元モニタを鬱陶しげに眺めていた。まるで怠惰な大型犬か、何を考えているかわからない気まぐれな黒猫だ。

〈靴下を隠しなさい〉

 意気込んで部屋に飛び込んだぼくは、フーの顔にぶち撒けようとした靴下を慌てて長椅子の後ろに突っ込んだ。目の前に知らない人が立っていた。

 どうやら来客だ。相手はモニタの中だけど、そこにいない以外には実際に会うのとそう変わらない。

 難しい顔で立っているのは白衣姿の男の人だった。白い髪と濃い色の肌。太く強い眉の下には子猫にさえ容赦ない厳しい焦げ茶の瞳があった。

 アタランテに促されえて、その人の頭の上にポップしている経歴タグを視線でつつく。

 名前はリロイ・サクソン。アカデミアの教授で軌道工学の権威。スフィアプロトコル(?)の要人らしい。

〈スペキュレイタからの出戻りとは珍しい経歴ですね〉

 サクソン教授は乱入したぼくを見て眉を顰めた。アタランテにスペ何とかを訊こうとしたけれど、ぼくは目線に竦んで動けなかった。

 長い手足を投げ出しただらしない男の人に、ガラクティクスで唯一無二のエルフが加わって、ぼくらの身元はいっそう怪しくなったに違いない。

「きみは異種生命体の専門家だと聞いたが」

 ぼくの方に少し目線を泳がせて、教授はフーに問いかけた。

「そんなおこがましい身分を名乗った覚えはない。僕はいまだ火星人が蛸そっくりだと信じている一人だ」

 フーはひらひらと手を振って返した。フーは肩書の大仰な人ほどそんな態度を取る癖がある。ただ、このやさぐれ方はきっとアガスティアの、帝国の絡みだ。


 ガラクティクスはいま、とても大きな問題を抱えている。帝国と呼ばれる世界とのコンタクトについてだ。自己完結しようとしたアースリングの、驕りと油断が招いた問題だった。

 帝国は、途方もなく広くて、途轍もなく古くて、数え切れないほど姿形や考え方の違う人たちが暮らしている。もちろん、人でないものも。正式な総称はなく、帝国と呼んだのが定着したのだそうだ。ガラクティクスでさえ帝国に比べれば米粒ほどの新参者に過ぎない。

 ガラクティクスにとって、帝国は予定調和の外にある存在だった。八〇〇年の安寧が消し飛ぶ可能性もある。だから本格的な交流に二の足を踏んでいるのが現状だ。

 その帝国の唯一無二の専門家が、なぜかフーなのだ。だからこうしてアガスティアが帝国絡みのトラブルだと断じた案件は、無条件でフーのところに来る

 ちなみにアガスティアはガラクティクスの根幹にある大規模な予測システムで、未来に調和しない不条理を嗅ぎ分けることに長けている。フーに厄介事を持ち込む張本人だ。


 ただし当然の帰結として、アガスティアに依頼を委ねた時点で、教授にはフー以上の最適解は存在しない。だから文句を言おうとも、誰も聞く人はいないのだ。教授はそのどうやらそのことに気づいたようだ。所在なげに辺りを見渡して、仕切り直しの咳払いをした。

「私は潮汐分裂の体感モデルを作成するため、崩壊寸前の大規模天体を追い掛けている」

 何も見なかったように話し始めた。

「あの気の長い計画の基礎研究だね」

 フーは人の知らないことほどよく知っている。そのぶん人の知っていることをぜんぜん知らない。

「そうだ。私のモデルはスフィアプロトコルを百年短縮するだろう」

 フーはびっくりしたように身動いだ。

「八万年のうちの百年も?」

 教授は超人的な忍耐力を発揮してフーの態度を見なかったことにした。

「私は天文学的見地から人為的な天体崩壊を何度も繰り返した。だが、自然現象の検証がまだだ。条件に合う事例に立ち会える確率は非常に小さい」

 教授は言葉を一拍ほど置いた。

「それこそ天文学的にな」

 ぼくとフーをじっと見る。ぼくには、何を期待されているのかよくわからなかった。アタランテが深い溜息のような感覚を投げてよこした。

「わざわざ壊れそうな星を探してるなんて、おかしな研究だね」

 ぼくが応えると、教授は無表情に頷いた。

「しかし我々は発見したのだ。私が肉体に戻ったのはその観測のためだ」

 教授が言うには、それはとあるガス惑星を公転する衛星のひとつで、極端な楕円軌道を描いていたため主星追突の憂き目に陥ったらしい。すでにロシュ限界域の内側にあって、すぐにでも潮汐分裂を引き起こすはずだった。

「そこで問題が起きた」

 教授と研究スタッフは崩壊寸前の衛星に基地を設け、潮汐力と地殻の綱引きを記録していた。後は秒読みだけだった。

「その衛星に生命体が存在していた。しかも知性体の可能性がある」

 教授は頬を硬くして、真剣な目でぼくたちを見た。

「このままでは、宇宙人が宇宙塵になってしまう」

 それは大変だ。ぼくは驚いて息をのんだ。

「このままでは、宇宙人が宇宙塵になってしまう」

 うん、それは聞いた。

 フーはのそりと長椅子から身体を起こして教授のそばまで歩いて行った。三次元モニタのストレージを探ると、徐に張り扇を取り出した。

 すぱーん。

 ぼくは呆然としたまま、フーが長椅子に戻って来るのを目で追っていた。

〈スペキュレイタは思索のために肉体を捨てた人たちですが、出戻るとおかしな性癖を持ってしまうことが多いのです〉

 頭を思い切り張られたのに、教授は表情を変えないまま、むしろ満たされたような目をしていた。

「めんどくせえ」

 フーが小さく呟いた。

「私はアカデミアに訴えたが、まともに取り合っては貰えなかった」

 教授の声には無念さが滲み出ていた。

〈そうでしょうね〉

 なぜだかアタランテの声は冷たかった。

「用件を聞こうじゃないか」

 フーは仕方なくそう言って、教授に依頼の詳細を促した。

 今のところ明確な記録ないのだが、と教授は最初に前置きした。たが、確かにそれは存在する。その正体を確認し、保護したい。おおよそはそんなところだ。

「始まりは空調機器の不調だった」

 話がことの詳細に移ると、教授は心持ち口調を変えた。

 単なる故障だ。皆そう考えた。しかし、突然ふわーと視界が翳る照明の異常が何度も何度も起きた。制御系かな? いやそんなはずはない。そうするうち、作業中に何者かの気配を感じたと言い張るう研究員が何人も現れた。自分の他に誰かいる、と。たが記録機器には何も残っていない。現場は次第に妙な緊張感に包まれた。

「そう、私が基地の制御エンジンを点検しようと十四番通路を歩いていたときだ。またいつものように照明が陰った。『ああ、まいったな。観測に支障がなければよいのにな』そう思っていると、こう、首のあたりにカーッと」

 不意に教授の周囲の照明が落ちて、アッパーライトに照らし上げられた。教授はモニタに顔を寄せ、かっと目を剥いている。

「何なの?」

〈何でしょうか〉

 ぼくとアタランテは気の抜けた問いを交わした。演出の意味がよくわからない。

 すぱーん。

 フーがまた教授を張り扇で叩いた。

「素晴らしい」

 そのまま教授に向かって手を打った。

「これは心霊現象だね?」

 教授はしばし表情を固めたままフーをじっと見返した。キーワードを検索しているのだろう。ぼくにもその心霊現象がよくわからない。

「アニミズム的な事象かね?」

「幽霊だよ」

〈絶えて久しい現象ですね。今では比喩や名称の一部に残っているだけですが〉

「そっちに行こう、星が壊れる前に」

 フーが教授に宣言した。ぼくには、何がどうなったのかわからない。最初の態度などなかったかのように、フーはやる気を見せていた。


 かくして、ぼくとフーは家を出て、一路教授のいる壊れかけの衛星に向かった。物理的には二〇〇〇光年ほど離れているけれど、フーは世界のあちこちに秘密の扉を持っていて、手近な場所から最短の航宙路で二日ほどの船旅だった。

 本来、扉は帝国の主要インフラで、公的にはガラクティクスにほとんど存在しない。ぼくの元いた世界の高台に浮かんでいるのは、フーの造った模造品だ。フーたちハイランダーは、その扉からぼくの元いた世界に来たのだ。


 いつものように手近な場所まで扉で移動し、そこから足の速い星間船をチャーターした。なぜだかフーには無駄なほどの権限があって、そうした都合は旅行会社より早くつく。今回の船は黒塗りの軍艦だった。

 主星がまだ舷側の小窓に収まる距離で星間船を乗り換えて、ぼくらはデフレクタシールドに着膨れたシャトルで件の衛星の基地に降り立った。

 基地の本体は宇宙船で、免震構造の支柱の上に浮いている。衛星が崩壊しても、基地はそのまま離脱する算段だ。シャトルと同じく幾重ものデフレクタシールドに保護されていて、主星の電磁輻射を凌いでいるそうだ。

 浮遊範囲内の震動は基地に影響しないけれど、窓から見える衛星の地表は、目に見えるほど大きく震えていた。視界だけが揺れるから、却って目が回りそうになる。

「ようこそ。ここも長くはないが」

 実体の教授がぼくらを出迎えて言った。

 通されたのは中央制御室だ。円盤型をした基地の中央にあり、フラットで広い半円形をしていた。この場所を中心に、基地は同心円状の区画割りになっている。

 中央に一脚のコンソールがあり、半円形の外周に沿って制御卓が並んでいた。見渡すと四人ほど研究員がいる。みな自分の作業に集中しつつも、興味津々でぼくらを盗み見ていた。

〈懐かしい構造ですね。こういうのはたいていパネルが火を吹いたり椅子が飛んだりするのですよ〉

 もともとが星間船の制御人格だけあって、アタランテはこんな場所に厳しい。行きの軍艦の中でもそうだった。

「さて、僕らには後どれくらい時間があるのかな?」

 フーはそう言って教授に向き合った。

「長くて三日。それも運次第だ」

 つまり潮汐分裂はいつ起きてもおかしくないということだ。よく間に合ったものだ。

 フーは小さく口許を捻って制御室の真ん中に進み出た。

「その後、幽霊を見た人は?」

 制御室の皆を見渡してそう訊ねる。部屋の中の全員が手を上げた。律儀に教授も手を上げた。

「羨ましい。ラコーム博士になった気分だ」

 何だかよくわからないけれど、フーは満足気に頷いた。しかも今回は記録もあるという。教授の話にあったコンタクト以来、余った高精度観測機器を基地内に転用したらしい。

 教授の指示で部屋の中空に映像グリッドが拡がった。立方体に空間を切り取った立体映像だ。ぼくには少し見上げる高さに浮かんでいる。

 ドーナツを八つに割ったような、緩い弧を描く通路が映った。時刻と場所が載っている。画面の端から、横に木の芽が生え出すように人影が現れた。紅い髪を綺麗に切り揃えた女の人だ。

「あ、それ私です」

 研究員のひとりが手を上げた。確かに同じ髪型をしている。頭の上のARタグにはシルという名前が書いてある。

 ちなみに研究員は女の人が二人、男の人が二人。もうひとりの女の人はユカ、男の人にはタオとポタと記されたタグがついていた。

「ほら、ほら、ほら、ほら」

 不意にシルが映像を指差して大声を上げた。何かキラキラとした塊が映像の中の彼女の足許に現れた。床を滑るように追い掛けて行く。彼女の前に回り込み、不意に目の前で大きく膨れ上がった。

「ぎゃー」

「ぎゃー」

「ぎゃー」

 映像の中のシルと部屋のシルが同時に悲鳴を上げた。最後のひとつは教授だった。皆の視線を受けて、教授は仕切り直しの咳払いをした。

「おわり戴けただろうか」

 わかったも何もそのままだ。

「私にはコンタクトを試みているように思えるのだが」

「驚かせたいだけかもね」

 フーはあっさり受け流して次の映像を促した。

 記録映像は全部で六本あった。いずれも同じような内容だ。どこからともなく現れた『きらきら』が、人に近づいて伸し掛かり、悲鳴と一緒に掻き消えるだけだ。

「どう思う?」

 ぼくはこっそりアタランテに訊ねた。何となく耳先がふるふるする。

〈彼が面白がっているうちは正体不明のままでしょうね〉

 アタランテは投げやりに応えた。

「さて、そこのきみ」

 いつの間にか、四人の研究員は制御卓の前に一列に並ばされていた。フーは最初の映像に出てきたシルを指した。

「はい」

 ぴしりと手を上げて彼女が応える。

「かっこいいですフースークさん。結婚してください」

 なに言ってんだこいつ。

 教授がすぱーんと張り扇でシルの頭を叩いた。何だか家にあったのが気に入ったらしい。わざわざ複製して常備していたようだ。叩いた方も叩かれた方も表情を変えないのがちょっと気持ち悪い。

「迫る崩壊と謎の生命体で少し動揺しているのだ。許して欲しい」

 教授は真面目な顔で謝罪した。

〈サクソン教授の強制でしょうか。パワハラ案件では?〉

「あれを正面から見たね? どんな顔をしていた?」

 いまの出来事などすべて無視して、フーはシルに訊ねた。

「顔ですか? いいえ、何もない真っ白な塊でした」

 叩かれたシルは撥ねた紅い髪を整えながらそう答えた。

「そうか、次に遭遇したきみ」

「ねえきみ、その耳は本物? よく見せて貰っていい?」

 すぱーん。

「ええと、うっすら目鼻があったような」

「次の君」

「将来に不安はありませんか? 今なら死後の人格保存を格安で」

 すぱーん。

「パーツはありましたが、顔になっていませんでした」

「次」

「助手にするンなら、アタシの方が胸あるし、イイと思うんですケド」

 すぱーん。

「げふ」

 最後のこれはぼくが蹴った。胸なんか関係ないし。だいたい助手じゃない。相棒だ。

「顔、ありました。目とか鼻とか大きさバラバラでしたケド」

 とりあえず皆いちいち余計なことを言って教授に叩かれた。嫌な研究室だ。混乱しているのはわかるけど、発言のたび手を上げて喋るのもよくわからない。

〈崩壊直前の場所で研究を続けると、人はこうも追い詰められるものなのですね〉

 アタランテは気の毒に思っているのか呆れているのか、よくわからない口調で囁いた。

「顔なんてどの映像にも映っていなかったが」

 教授が呆然と呟いた。確かにどれもつるんとした『きらきら』だけだった。そこに顔があるという仮定がなければ、訊こうとさえ思わないだろう。

「焦点が合ってなかったんだな」

 フーはそう言って研究員を順に見渡すと、そのままぼくまで視線を移した。

「じゃあ、実践に移ろう」

「え? ぼく?」

「こういうのは、なるべく先入観がない方がいい」

 フーは身体を折ってぼくの目を覗き込むと、不意にぼくの身体をくるりと回した。後ろから肩を叩いて押し出した。

「さあ、まずは通路をぐるりと一周してみよう」

 呆れたのと不貞腐れたのと、なんだかんだやっぱりぼくに頼るんだ、などといった複雑な感情に促されながら、ぼくは渋々通路の前に立った。

「照度を五分の一に落として」

 フーが制御卓を振り返って言うのが聞こえた。辺りがすっと暗くなる。

 ぼくらエルフは素でもアースリングより赤い方の光が見える。それでも暗いものは暗い。これは心象の問題だ。

〈制御室のモニタにリンクしました。視界を転送します〉

 アタランテが囁いた。フーの指示だろう。今ぼくの見ている風景が制御室の中に浮かんでいるはずだ。何だか少し恥ずかしい。余計なところは見ないようにしよう。

 ぼくとフーの両方にいるアタランテを介して伝言のような会話はできるけれど、いっそ声が聞こえればいいのにと思う。正直、少しだけ心細い。

〈心拍数が上昇していますね。当然ですが〉

 歩き出したぼくにアタランテが囁いた。何となく耳がざわざわする。よくわからない感覚だ。不安と一緒に背中が薄ら寒く感じてしまう。

 ぼくは辺りを見渡しながら、少し速足で通路を進んだ。そのうち、不意打ちで後ろを振り返ったりもした。気配だか気のせいだかよくわからない感覚に時々竦んだ。ほんの少しだけど。区画の表示はあるけれど、どの辺りまで歩いたのかがよくわからなかった。

 不意に耳の先が撥ねた。でも、目の前には何もない。視界の隅を何かが擦り抜ける。後ろだ。ぼくは反射的に振り返ってしまった。

 鼻先に人の顔があった。目鼻の位置も大きさもいびつで、時と場所を選べば笑って済ませたはずの福笑いのようだった。

 ぼくは歪んだ顔と睨み合った。正直に言うと、竦んで動けなかった。徐に目の前の目鼻が寄り集まって形を変えて、ぼくそっくりになった。

「きゅ、きゅきゅきゅ」

 喋った。というより無数の細い糸を擦り合わせたような音がした。

「うーわああ」

 ぼくが思い切り悲鳴を上げると、その顔は呼応するように大きく縦に伸びて、白目を剥いて捩じれて消えた。

 ぼくは声を上げたまま、思い切り走って逃げた。表示も何も見えていない。どれが制御室の扉かもわからなかった。

〈フィン、通り過ぎました〉

 アタランテの言葉が耳を素通りした。とにかく走って、半泣きで走って、不意に側面の扉から現れたフーに思い切り飛び込んだ。

「で、で、で」

「よし、よくやった」

 そう言ってぼくの髪を掻き混ぜると、フーはぼくの身体を小脇に抱えて制御室に戻った。

 一斉に振り向いた教授や研究員の目線に、耳がかっと赤くなる。フーは気にしたふうもなく、ぼくを抱えたまま教授に言った。

「幽霊の正体はキノコだ」

 いや、わけがわからない。

 視界が大きく上下に揺れた。最大音量の警告音が、幾種類も幾種類も一斉に鳴り響いた。フーに抱えられたぼくの身体は、倉庫にあったボディブレードみたいに上下に跳ねた。掴まり損ねた研究員が二人ほどデッキを跳ね転がっていく。

「構造臨界を越えました。衛星が自壊します」

 喋っているのは制御室のオートンだ。生身の人間はまだフードプロセッサーの余韻にふらついている。聞かされていた通りだとしたら、いったん崩壊が始まれば、あっと言う間に衛星はばらばらになってしまう。

「離脱シークエンス継続中」

「観測器の状態を報告」

 中央制御卓にしがみついた教授が凛とした声で言った。恰好はともかく、その冷静さはさすがだ。

「ターミナル八二機が正常に作動中。損失は予想範囲内です」

 椅子から撥ね飛ばされた紅い髪のシルが、頭を振りながらコンソールを覗き込んで叫んだ。

「ねえ、これって今、飛んでるんだよね?」

 ぼくは、ちょうど顔の前にあった舷窓を覗き込んで皆に訊ねた。さして遠くない衛星の地表は、無数の泡立て器を突っ込まれたような有様だった。

「この基地、動いてなくない?」

 視野の角度が変わらないのだ。

「離脱シークエンス中断。障害の排除、もしくは各自の遺書を発送してください」

 オートンが告げる。

「船底が岩盤に固定されています」

 制御卓に這い上がったタオが悲鳴のように状況を告げた。

「映像を」

 教授の指示と同時にメンテナンスカメラの映像が一斉にグリッドを埋めていった。

「幽霊だ」

 ポタがデッキの上から見上げて呻いた。まだ起き上がれないでいる。

 きらきらした糸の束が、基地の底から揺れ動く岩の隙間の奥底に幾筋も渡っている。踏んづけたガムのように基地を衛星に貼りつけていた。

「船外作業機で切除を」

 タオの言葉と動作を半分で遮って、教授は皆に宣言した。

「船殻を分離。三層以下を破棄する」

 教授の判断は早かった。基地の推進力で引き千切れなかったのだ。切除にどれほどの時間が掛かるかわからない。

「ターミナルの六割が失われるんですケド」

 ユカが抗議のような呟きを洩らした。

「我々の屍に価値などない。分離準備」

「きゅ、きゅ」

 ユカが頷いて制御卓に手を伸ばした。

「まて君は誰だ」

「あっ、アタシが二人いるんですケド」

 ユカが隣を見て目を剥いた。まったく同じ姿をした彼女が立っている。よく見ると、膝から下はほどけて透き通った細い糸の束だ。七色に光りながら床に広がっている。

「きゅきゅきゅきゅ、きゅー」

「フィン、靴下を投げろ」

「え?」

 首を捻ってフーを見上げる。ぼくはまだフーに抱えられたままだったからだ。

「早く」

「う、うん」

 フーが両手で抱き上げたものだから、ぼくは考えるのをやめて目の前の自分の脚に手をのばした。留め具を外して靴を蹴り落とし、靴下を両手で引き抜いた。フーが身体を向けるタイミングに合わせて、偽物のユカに靴下を投げつけた。

 僕の黒い靴下が、彼女の顔に張りついた。

 ぶるん、と制御室が震えた。

「きゅー」

 偽物のユカが急激に色味を失い、無数の糸の束にほどけて溶け崩れた。あっという間に見えなくなっていく。

「離脱シークエンスを再開します」

 オートンの声と同時に、分厚い布団に圧し潰されるような衝撃がきた。ぼくは平然と立つフーに抱きかかえられていて、それほど辛くはなかったけれど、教授や研究員はひとり残らず椅子から転げ落ち、デッキの上に突っ伏した。

〈ほらね〉

 アタランテが小さな声で囁いた。


 崩壊する衛星を飛び出した基地は、幾重ものデフレクタシールドに包まれて観測軌道に位置を移した。スタッフは本来の観測任務に追われつつも、どこか心ここに在らずといった様子だ。

 ぼくはデッキに取り残された靴下を回収し、制御室の端にあてがわれた席にいた。ひとりのほほんとしているフーの隣だ。

「キノコって言った?」

 隣を見上げて問い掛けると、フーはいつもの惚けた顔で頷いた。

「菌糸だよ。幽霊は直径二〇〇ナノミリほどの菌糸が寄り集まって作ったホログラムだ」

 フーはそう気のない解説をした。幽霊だって喜んでいたのはフー自身のくせに。

 一本一本は細すぎて見えないけれど、無数の菌糸の偏光が人の姿を真似た映像を作り出していたということらしい。通路で研究員を驚かせた幽霊は、面と向かって像を結んでいたせいで当事者にしか顔が見えなかったのだ。

「やはり何らかの知性があったのだ。惜しいことをした」

 いつの間にかそばにいた教授が、悔しさを滲ませて言った。

「あんなところに放り出して、知性の有無で惜しむのかい?」

 フーはしれっとそう言って、教授の口許にもう一筋の皺を追加した。

「うそだよ」

 時々フーは平然と人を苛める。

「ほら、きみたちの撮ったものをご覧」

 手を振って、フーは皆に映像を観るよう促した。教授が望んだ本物の天体崩壊のドキュメント映像だ。

 見た目にも撓んだ球体が、不意に引き捩れるように破裂した。岩塊と呼ぶにはあまりに大きな破片がいびつな渦を描いて拡がって行く。ひときわ大きく衛星の半球ほどもある塊が壊れた。その隙間にきらきらと光る靄がある。

 教授がぽかんと口を開けた。

 白い靄のような無数の菌糸が果汁のように岩塊の苗床から溢れ出し、何万キロにも渡って虚空に薄く薄く敷かれていく。

 それはやがて、主星の電磁放射を風のように孕み、ゆっくりと虚空を漂い始めた。

「知性も自然も境界は曖昧だね」

 フーは庭の柿の木でも眺めるようにそう言って、手持ち無沙汰な手でぼくの髪をなでた。

 フーによると、この手のキノコは天体の内部に菌糸を張り巡らせ、核の重心を振動させるのだそうだ。何百万年も掛けて天体の軌道を変え、衛星を自壊させて菌糸を宇宙に飛ばすのだという。

「よくあるキノコさ。そこらの星に生えてたって、誰も見向きしやない」

 呆然と映像を見つめる教授の手から張り扇が落ちた。まだ持ってたんだ。

「幽霊の正体なんてこんなもんだね」

 そうかな。けっこう、すごくない?


 ◆


 しばらくして、ぼくらは迎えの星間船に乗り換えた。少し離れた軌道からこっそりと。

 事後処理、あるいは今後の算段に忙しいはずの教授が、わざわざシャトルに同行して送ってくれた。立ち去り際、ぼくらに握手を求めた教授は、フーにセンスが八百年ほど古いと言われて肩を落としていた。何のことかは、よくわからないけれど。

 実のところ、教授の目的だった観測は微妙な結果になった。あれはキノコの仕業で、自然現象とは言い難い。けれど発見したものは前代未聞だ。教授に耳を貸さなかったアカデミアは土下座ものの大騒ぎになったそうだ。

 もちろん、フーにとっては幽霊の方が大事だったから、その正体が宇宙キノコだろうと枯れ尾花だろうと、もはやどうでもいいことだった。

 ただし、ぼくには少し気になることが残っていた。

 フーはキノコと呼ぶけれど、あれはぼくの知っている菌類とはまるで違う。菌糸はカーボンナノチューブ。可視光を制御し、節ごとに光学的なパルスを生成させている。いわばニューロンみたいなもので、衛星規模の集合体なら、あるいは教授が言うように知性だってあるかも知れない。それは椎茸と同類か?

 確かに基地の中では変な感じもしたけれど、ぼくの耳があの宇宙キノコを嗅ぎ分けたのかどうかは、はっきり言って自信がない。

〈確かに、あれがフィンの育成した麹を認識したかといえば、少々怪しい気もしますね〉

 アタランテが言うのは、ぼくが投げた靴下のことだ。宇宙キノコは異種の同類に驚いて崩壊の引き鉄を引いたという説だ。

「ぼくの靴下、本当に必要だった?」

 ぼくたちの意見に、フーは惚けた顔をした。あの幽霊を怯ませるなら、実は何でもよかったのかも知れない。

「二つほど仮説がある」

 頭を掻きながらフーは言った。

「あれは帝国でも疎通圏外の生物だ。そもそも人間なんて存在も認識していない。酵母と糸状菌の違いはあっても、構造的な近似でようやく相手を認識したんだ。ひょっとしたら、フィンの酵母をスキャンして持ち帰ったかも知れない。フィン印の種麹の宇宙一号店だ」

 ぼくは複雑な面持ちで頷いて、フーに先を促した。

「もうひとつは?」

「臭かったんじゃないかな」

〈フースーク〉

 アタランテの警告よりも早く、ぼくはフーに詰め寄っていた。

「いま臭いって言った?」

「言ってない」

 確かに言った。フーの目が泳いでる。

「臭くなんかないからね」

 声を上げるぼくに、フーはおざなりに頷いた。本気じゃない。口だけだ。耳の先が熱くなる。これはぼくの名誉に関わる事態だ。

「本当だから、本当に臭くないから」

「うん、うん」

 ぼくは蹴り飛ばすように靴を脱ぎ捨て、靴下を引き抜いた。そのままフーの鼻先に突きつける。

「本当だから、嗅いでみて」

 フーは助けを求めるように視線を泳がせ、後退った。

「嗅いでよ、嗅げったら」

 不意にぼくの靴下の先から、小さな『きらきら』が生え出した。それはぼくにそっくりになって、フーに向かって小さな靴下を突きつけた。

「きゅう」

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宇宙幽霊とエルフの靴下 marvin @marvin

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