眠るなら一人がいい
夏の茹だるような暑さには、もう飽きてしまった。蝉の声も徐々に寂しくなり、朝方や夕方はぐっと気温が下がり冷えてしまう。隣で眠る恋人は、普段はくっついてきたり、抱きしめてきたり、そんなことはしない。男ふたりでは狭く感じるセミダブルのベッドで、器用にお互い体を寄せ合わないように熟睡することに、もう慣れてしまった。こんな生活を、もう何年しているのだろう。仲睦まじいとは言い難いが、それなりにお互い楽しくやってこられたと思う。
男同士の恋人になってから10年、付き合い始めは高校生だったのに、今では会社に行けば若い女性社員に「アラサーですね」と言われる年齢になってしまった。結婚という文字もちらつき始め、周りの同年代の友人や同僚たちはだんだんと結婚していく。照れくさそうに結婚式の招待状を送ってくる友人たちを見ていると、羨ましい、なんて気持ちがわかないこともない。
隣に眠る彼を見つめた。背が高く優男風の顔立ちをしている。いびきをかいたり寝言を発したりせず、時折寝返りを打つたびに「ううん」と唸るくらいで、ほとんど熟睡している。仕事柄、俺はデスクワーク、彼は営業や現場職なので、疲労度は彼のほうが高いのだろう。俺が風呂から帰ってくると、いつも先に寝ていることが多い。
ふたりで暮らし始め、セミダブルのベッドを買ったのは3年前のことだった。住んでいるマンションの構造や、二人の収入を加味しても、キングサイズのベッドを買うことなんて造作無いはずだった。それでもそうしなかったのは、どうしてなんだろう。小柄な俺とは違い、彼には窮屈過ぎるのではないだろうか。当たるか当たらないかの距離にいる彼の、寝息を聞くことが心地いい。
網戸にして開け放たれた窓から、涼しい風がそよそよと入り込む。肩に当たると寒くて、思わず彼の方に少しだけ体を寄せた。彼は起きない。すうすうという寝息が可愛く感じてしまう。
眠るなら一人がいい。ひとり寝だと何も気にせずスコンと眠ることが出来るのに、そばにいるだけで、ついつい気になってしまってしょうがない。寝顔を見つめるといつの間にか時間が過ぎてしまって、眠るのが遅くなってしまう。何年も癖になってしまって、未だにこうして寝顔を見てから眠る。
恋人と結婚していく周囲を見ていると、羨ましいと思ってしまう。男同士だから、もちろん俺たちの関係は誰にも話していない。話したところで周囲の理解が得られるとも思っていない。でも、ずっとそばにいたい。世間体なんて今更気にしていないけれど、なにか、縛りのような確約が欲しいのも確かだ。好きなことには変わりない。何年も変わらない気持ち。傷ついたり、削れたり、痛んだりしている部分もあるけれど、その度に絆創膏を貼ったりして、ふたりで乗り越えてきた。この先だってそうしていくんだろうなあ、と思っている。
あ、口をもごもごさせている。珍しい。近づいたことに気づかれたのかな、と思って少しだけ体を離そうとした。その刹那向こう側から手が伸びてきて、ぐっと視界が狭まった。
「わ…っ」
ぎゅ、と抱きすくめられる。ひんやりとした体が、熱い体温に包まれた。時々こうやって寝ぼけて抱きしめられるけど、最近はついぞこんなことなかった。3ヶ月ぶりのぬくもりに、ドキドキした。
「…ちょ…っと……」
呟いて、ハッと口をつぐむ。つむじに顎を乗せられて、むにゃむにゃと口が動くたびに頭にゴリゴリと顎が刺さった。痛い気もするが、起こさない方が優先順位だ。そのままじっとしてやり過ごす。
目の前は鎖骨。骨ばった彼の体はがっしりとたくましく、羨ましくも思える。現場作業が多く、体力をつけるために運動を始めたらしい。「もう若くない」って、言ってるの聞いてしまったもんな。
寒かったのかな、まだ大判のタオルケットで寝ていたから、明日もし寒くなったら薄手の布団を出すしかない。明日は土曜日、俺は休みだ。色々と考えが巡る。掃除、衣替えの準備、模様替え…、したいことを挙げるとキリがない。それが俺の楽しみだったりもする。
口の動きも止まったようで、また寝室に静寂が訪れる。近所から虫の声や車の音が時々聞こえる。心地よくて目を閉じる。普段だったらもう少し起きていようかなとも思うけど、今日は、もう眠れそうな気がする。
まどろみに包まれそうになったその時……、
「うぅん」
と、下手くそな咳払いが頭上から聞こえる。
「ねえ、まだ、起きてるよね」
彼の声。突然過ぎて声が出ない。とりあえず、もぞもぞして、起きていることをアピールする。
「ああ、よかった」
視界が開けた。腕は体に回したまま、彼が体を離す。普段より少し眠たそうな彼の顔が、目の前に現れた。
どうしたんだろう。僕は目をぱちくりとさせて、彼からの言葉を待つ。
「あ、……そのさ、明日、休みだよね」
俺が今考えていたことを当てられたみたいで、びっくりしてしまった。小さく頷く。
「そっか、よかった」
それだけ、呟くと、ふう、とため息をつかれる。俺の考えが見透かされていたのか?暑がりだから、布団出さないで、とか思っているのかな?それとも、掃除はもう少し待って、なのかな。
「明日、来て欲しいところがあるんだ」
彼が起き上がる。狭いセミダブルのベッド。正座をする身長180センチオーバーの男。俺はびっくりして、上体を起こしたまま動けない。彼をじっと見つめた。
「…その、起きてくれないかな…」
彼が俺の体を持ち上げて、その場に座らせてくれる。
座ると、彼は一息ついて、
「結婚してください」
そう、呟いて、着ていたスウェットのポケットから何かを取り出した。
「…………え?」
彼は今、何といった?結婚?どういうこと?考えていたこと見透かされた?それとも、なにか悩みでもあるの?
ぼーっと何事か考える俺の手をそっと取って、彼は俺の指に何かをつけた。
「本気だよ。結婚してくだい。……完全タイミングミスったし、俺スウェットだし、情けないけど…」
ぱちくりと目を見開く俺の視界に入ってきたのは、キラキラ光るシルバーのリングだった。左手の、薬指。
結婚って、本気?どうして?
声が出ないまま見つめていると、落ち着きを取り戻したらしい彼はニコニコしながら俺の頭を撫でた。
「明日、やすみだよね?空いてますか?」
「は…はい…あいて、ます」
やっとのことでそれだけ答えると、彼は俺の両手を握り締めた。
「全部、捨てよう…って言えなくて情けないかもしれないけど、よかったら」
手の甲にキスをする。
「俺と、カナダに行って欲しい」
唐突な言葉に思わず息を飲んでしまった。
「眠るなら一人がいい。あなたの寝顔を夜中に見るたびに、独り占めしたくなるんだ。なんの制約もなくあなたを僕のものにすることはできない。言葉だけでしか繋ぎ止めることができない自分が嫌でした。周りの結婚の話をするたびに嬉しそうだけどどこか寂しそうなあなたの表情が苦しかった。だから、結婚したくなった」
一息ついて、ハッと、息を吐くように彼は笑った。
「馬鹿らしいと思われてもいい。もうこうして指輪は準備してしまった。全部捨てなくてもいい。……いや、結果捨てさせることになるかもしれない。でも、僕はあなたと結婚したい。お願いします」
そう言って、彼はベッドの上で、三つ指をついて、スウェット姿で、俺に頭を下げた。
彼の背後にある窓辺から月明かりが差し込む。それが彼を照らして、キラキラと輝いていた。
俺は彼の精一杯の言葉に対して、
「……ばか」
と、言うしかなかった。
そして返事の代わりにこう告げたのだ。
「ひとり寝なんて、これからだってさせない。離れてなんかやらない。俺で良かったら、結婚してください」
そうして俺は、明日の休日に、掃除や、模様替えや、衣替えを済ませたあと、人生初のパスポートを取得することになった。
ショート・ショート 柊 魚月 @fishoops_
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