第39話 奇策なあいつは足の下


 往来にはなぜか人影も車もなく、私はこれが幻であることを理解し始めていた。


 あと少しで抜けられる、元の現実に戻れる――そう思いかけたその時だった。目の前にふいに人影らしきものが立ちはだかり、私はブレーキをかけた。立っていたのは希志幸人だった。


「希志さん……いいえ、あなたは希志さんじゃないわ」


 私はバイクを降りると、目の前の人物にそう言い放った。


「信じられない。私の演舞に魅了されない人間がいるとは……まったくもって不愉快だ」


 笑い声と共に人物から希志幸人の面影が消え、別人の――ニジンスキーの顔が現れた。


「ニジンスキー。あなたを逮捕します」


 私がそう告げて手錠を出そうとした瞬間、ニジンスキーの片手が私の顎を掴み、もう一方の手が口をこじ開けた。


「あ……うう」


「このような美しくない方法は好まないのだが……いたしかたない」


 ニジンスキーは私の口に指を突っ込むと、舌根をつまんで舌を引きずりだした。


「ぐえ……」


「もうお前は私の声しか聞こえない。冥界からの呼びかけを、亡者たちの声を聞くがいい」


 ニジンスキーがそう告げた直後、私の目の前に泡のように一つの顔が浮かびあがった。


「あなたは……」


 あどけなさを残したその顔は、十代の頃、私を慕ってつきまとっていた少年だった。


 偶然、夜の街を走っていた私を見たというその少年はあっと言う間に免許を取り、安いバイクを手に入れて私の後を追いかけ始めた。


 私は毎週、少年のバイクを振り切るのが習慣になり、少年はバイク仲間の間でも知られる存在になっていった。そんなある晩、しつこく勝負を挑んでくる少年に、魔が差した私はちょっとした意地悪をしかけることにした。


 いつものように追いすがってくる少年を、抜けるか抜けないかギリギリの走りでねじ伏せ、最後の直線で一気に突き離そうと試みたのだ。


 だが、そこに飲酒運転のトラックが行く手を塞ぐように突っ込み、私たちはトラックと接触してバイクから放りだされた。回避が一瞬早かった私は軽い打撲で済み、少年はその晩、すべての未来を失うことになった。


 私が思わせぶりな走りをしなければ、少年の対抗心に火がつくこともなかった。そんな思いがその後、何年も私の心をさいなみ続けた。数年後に遭遇したひどい事故の時には、これでやっと罪を贖える、今度こそ私の番だ――そう思ったりもした。だが、私は死ぬことなく警察官となり、生きている後ろめたさを抱えたまま、悪を捕える日々が始まってしまった。


 ――私はなぜ、刑事なんかやっているのだろう。人としての罪すら償っていないというのに。


 彼が呼んでいるのなら、喜んであの事故の夜に戻ろう。そう思いかけた、その時だった。


 ――だめよ、蓮那さん。あなたが悪を捕える道を選んだのなら、それがあなたの宿命。


 白い闇の中で響いたのは、名月さんの声だった。


 ――名月さん!


 ――どんな形であれ、この世には正義を全うする人が必要なの。迷う必要なんかないわ。


 名月さんの声に応じるように、私の胸が跳ねた。……そうだ。私は警察官になったのだ。


 私がそう確信した瞬間、目の前で強い光が爆発した。次に男性の「うっ」という声が聞こえ、同時にフロアの風景が目の前に蘇った。


「大丈夫ですか?桜城さん」


 近くで名前を呼ばれ、私は思わず声のした方を見た。壁際に長身の人物――レオンが立っていて、スイッチ類の並んでいるボックスに手をかけていた。


「レオン!……無事だったのね」


 私はほっとすると同時に自分たちの置かれた状況を思いだし、ステージ上に目を向けた。


「くそ……こしゃくな真似を」


 ステージ上で顔を覆って呻いているのは、ニジンスキーだった。どうやらレオンがプロジェクターを使って目に光を当てたらしかった。


「美を愚弄する虫けらどもよ、死ねっ」


 突然、ニジンスキーが拳銃を取りだした。銃口を向けられた私が身を屈めた瞬間、がん、という大きな音と共に丸い物体がニジンスキーの頭上に落下した。よく見ると、落ちてきたのはミラーボールらしかった。こんなことができるのは……まさか。


「……ほっほっ、用心が足りないな、若造」


 聞きなれた声が響き、ステージ近くの瓦礫が動いたかと思うと、下から雷郷が現れた。


「……ガミィ!よかった、みんな無事で」


 私が安堵の声を上げると、今度はすぐ近くで絵里名の声が響いた。


「桜城さん、今です。あの人を逮捕して下さい!」


 私は絵里名の方をちらと見て頷くと、手錠を取りだした。


「ニジンスキー、殺人未遂で逮捕します」


 そう言って私がステージに駆け出そうとした、その時だった。突然、モーターの駆動音が響いたかと思うと、ステージの後方にするすると白いスクリーンが降りてきた。


「な……なに?」


 虚を突かれた私が思わず足を止めると、突如、スクリーン上に見覚えのある風景と人物とが映し出された。


「その人を逮捕することは認めません。刑事さん」


 スクリーンの中からそう呼びかけてきたのは、希志幸人だった。幸人のいる場所はどうやら、砂上の『ヴィジョン』に侵入した際に見た地下の礼拝堂らしかった。


「これを見るのです」


 幸人が感情のない目で示したのは、説教台の近くに設けられた巨大な十字架だった。十字架には両手両足を拘束された紗央里が磔にされてぐったりしていた。


「これからこの女性に『花嫁』になるための儀式を施します。もしあなた方がそこにいる人物を逮捕しようとすれば、この女性を即座に殺します。……さあ、どうします?」


 幸人がそう言い放った瞬間、ガチャリという音と共に、手首に手錠がはめられる感触があった。周囲を見回すとどこから現れたのか、複数の警備員たちが私たちのすぐ近くに立っていた。警備員によって全員が両手を拘束されると、ステージ上のニジンスキーがふらつきながら立ちあがった。


「どうやら、形勢逆転のようだな。……その者たちを地下に連れてゆけ」


 ニジンスキーは勝ち誇ったように言い放つと、身を翻してフロアの外に姿を消した。


「さあ、ここに来てあなた方の知人が『花嫁』になるところをその目で確かめてください」


 不気味な言葉と共にスクリーン上から幸人の姿が消えた。私たちは警備員によって一列に並ばされ、ドアから廊下へと出された。


 ――このまま終わってたまるものですか。……見てなさい、最後の決着をつけてやるわ。


 小突かれるようにしてエレベ―ターに乗せられながら、私は胸の内でひそかに呟いた。


              〈第四十回に続く〉

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