第37話 耽美なあいつは陶酔中
最初に見えたのは、広い空間とそこを埋め尽くしている瓦礫の山だった。
身体を起こすと、周囲を包んでいた植物の残骸がカサカサと音を立てた。
――なるほど、これがクッションになってくれたのか。
周囲を見回すと、そこが小ホールのような場所であることが確認できた。天井は一部が完全に抜け、さっきまでいた『主の間』の天井が遥か頭上に見えた。
私は瓦礫の上に立つと、仲間の姿を探した、すぐ近くに絵里名がほぼ無傷で横たわっているのが見え、私はすぐさま駆け寄って抱き起こした。
「大丈夫?絵里名さん」
「あ……刑事さん。びっくりしたけど、大丈夫です」
絵里名も私と同様植物がクッションになったらしく、どこも痛めてはいないようだった。
「あの……他の方たちは?」
気になっていたことを問われ、私は頭を振った。
「わからないわ。無事でいると信じたいけど……」
私がフロアをあらためて見回した、その時だった。フロアの奥にしつらえられているステージの壇上に、細身の人物が影のように現れた。
「これはマドモアゼル、生きていらしたとは感激です。せっかくです、私のショーなどご覧になってはいかがですか」
声と共にスポットライトが点き、人物のシルエットを浮かび上がらせた。中性的ともいえる整った顔立ちに、私は見覚えがあった。
「ニジンスキー!……紗央里さんをどこにやったの?」
ピアノを弾いていた時のタキシードとは打って変わって、身体にぴったりと貼りつくようなサテンの衣装を纏ったニジンスキーは、答える代わりに嘲るような笑いを浮かべた。
「居場所を言わないのなら、拉致監禁の現行犯で逮捕するけど、いい?」
私がステージに向け一歩踏み出すと、背後でモーターの駆動音が響いた。振り返るとフロアの後方の壁からプロジェクターらしき物がせりだして来るのが見えた。
「ほう、これは愉快だ。私の美麗な演舞を見た後でも逮捕できますか?」
ニジンスキーが自信に満ちた高笑いを響かせると、ステージ後方の壁に美しい都市の夜景が映し出され、頭上に設置されているミラーボールが回転を始めた。
「この非常時にお気楽なことね。後で取り調べのライトを嫌というほど当ててあげるわ」
「くくく、美しいものには皆、立場を超えて魅了されるものなのですよ、刑事さん。見苦しい相方を見続けて濁った目に、今から素晴らしい幻をご覧に入れましょう」
ニジンスキーがそう言い放つと、突然、フロアの照明が絞られた。同時にどこからともなく壮大な交響曲の調べが流れだし、壇上のニジンスキーが身体をくねらせるような動きでバレエに似た踊りを舞い始めた。
「時間稼ぎのつもり?悪いけど学芸会につき合うほど暇じゃないの」
ステージに向かって再び歩を進めようとした瞬間、私はある異変に気づいた。身体がまるで麻酔剤でも打たれたかのようにいうことを聞かなくなっていた。
「足が……動かない」
もどかしさで歯噛みしていると、ニジンスキーが再び高笑いを始めた。
「それでよいのです、マドモアゼル。もうすぐ素敵な夢があなたを包みこみます」
ニジンスキーの声がとろりと耳から流れこみ、強い酒を呷った時のような酩酊感が私を襲った。隣を見ると、絵里名も同様に虚ろなまなざしをあらぬ方向に向けていた。
「何を……したの」
うまく回らぬ舌で問いを放った直後、脳が痺れるような衝撃と共に、目の前が極彩色の幻に覆われた。やがて身体の感覚が失われ、視界のすべてが完全な闇へと没していった。
〈第三十八回に続く〉
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