第31話 可愛いあいつは散歩中
「十、九、八……」
私は目を閉じて深く息を吸うと再び目を開け、勝ち誇ったようにカウントダウンを続けるアナスタシアを真っ向から睨みつけた。
「六。五……どうしたの、もうリミットが来るわよ。準備はいい?」
「……お断りするわ」
「……そう。あなたが今、ここで死んでも私は一向に困らないのよ」
せせら笑うアナスタシアを見つめる目に、私はすべての怒りを注ぎこんだ。
「たとえ今、私がここで蜂の巣にされても正義を信じる仲間たちがあなたを逮捕するわ」
「ふうん、麗しいお話ね。仲間たちが仇を打つ夢でも見ながら死ぬといいわ……撃てっ」
私が目を閉じ、覚悟を決めた瞬間「うっ」という声と共にたたらを踏む音が聞こえた。
「貴様……動けるのか」
目を開けた私の前に、手錠をはめたままアナスタシアの頭部をはがいじめにしているの雷郷の姿があった。
「『手錠のままの脱獄』というわけだ。どうやら油断しとったのはお前さんの方らしいな」
しわがれ声と共に顔を上げた雷郷の目は、燃えるように赤く輝いていた。
「麻痺剤を打ったのに……なぜだ?」
「確かにこやつの頭は今、筋肉に命令を出せん状態にある。だからわしが代わりに動かしてやっとるというわけだ」
そう言うと雷郷――ガミィはアナスタシアの顔面に向けて息を吹きかけた。
「……うっ」
よほど刺激が強かったのか、アナスタシアは雷郷の吐息を吸った瞬間、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「ひっひっ、どうじゃな、わしの『屍臭息』は。麻痺剤などよりよほど麻痺効果があろう。並の人間ならこの後、三十分ほどは動けないところじゃ」
「貴様……さては死神だな」
「ほっほっ、気づくのが遅いわ。ガスブージン一味ごときに不覚を取るわしではない」
「――ガミィ、危ない!」
私の目に、不意を衝かれて動きを止めていた部下たちが一斉に雷郷を狙うのが見えた。
「不届き者めが!」
雷郷が叫ぶと、轟音とともに二人の部下が地面に崩れた。部下の傍らには天井から落下したと思われる蛍光灯がひしゃげた状態で転がっていた。
「この野郎……よくも!」
再度雷郷に狙いを定めた部下の上にも、ひときわ大きな音と共に何かが落下した。倒れた部下の身体に乗っていたのは、修理車両を吊るすためのクレーンだった。
「ちょっと威力が強すぎたかの?ボスに救急車を呼んでもらうのだな……むっ?」
突如、アナスタシアが発条仕掛けのような動きで起き上がると雷郷の首を絞め上げた。
「ぐ……ううっ」
アナスタシアの両目は雷郷同様、邪悪な赤い光を放っていた。彼女の中にいる死神が、身体の支配権を奪ったのに違いない。私は咄嗟の判断で修理したてのバイクに駆け寄ると、ヘッドライトの光をアナスタシアの目に浴びせた。
「ぎゃああっ」
ひるんだ手が雷郷の首から離れた瞬間、私はバイクから離れ、雷郷の身体をアナスタシアから引き離した。
「これからこの女を逮捕するわ。いいわねガミィ?」
私が叫んだ瞬間、雷郷がにやりと笑い、同時に雷郷の両手首を戒めていた手錠がばちんと外れ宙に舞った。
「なんだと?」
明らかに女性の物とは思われぬ低い声がアナスタシアの口から迸り、次の瞬間、空中の手錠が回転しながらアナスタシアの両手首を拘束した。
「これでいいじゃろう?」
雷郷――ガミィがとぼけた口調で言い、私は「手際は悪いけど、まあいいわ」と笑った。
部下たちを逮捕するため私が応援要請の電話をしようとした、その時だった。地上に出る階段の方から、黒い小さな影がとことこと姿を現した。
「ぬっ、あれは……」
なぜかガミィがひるんだような声を出し、二、三歩後ずさった。見ると黒い影は生後一年も経っていなさそうな仔猫だった。
「すまぬがわしはいったん、こやつの身体に戻る。あとをよろしく頼む」
「えっ、どうしたの?……まさかあの仔猫が怖いなんて言うんじゃないでしょうね」
「大人の猫なら問題はない。死神は赤ん坊が苦手なのだ。……というわけで、さらばだ」
雷郷――ガミィはそう言うと、再びぐったりと床の上に伸びた。
「ちょ、ちょっとガミィ、一番大事な時に何やってるのよ、もう」
私が慌てて雷郷の身体を揺すった、その時だった。ふいにふくらはぎのあたりにちくりと鋭い痛みが走った。
「な、なに……?」
下を向いた私は、はっとして身を引いた。ペンのような物を握ったアナスタシアが、床に蹲るような格好で私を見上げていたのだった。
「どう?麻痺剤のお味は。私もこんなところで捕まるわけにはいかないの。……お前たち、引きあげるよ!」
全身の力が抜け、膝から崩れてゆく私の目にアナスタシアが倒れている部下たちを急き立てる様子が見えた。……畜生、やっぱり私は半人前だ。
「私としたことがとんだしくじりだわ。お父様に叱られないといいけど」
高笑いと共にアナスタシアと部下たちの姿が消え、床に倒れこんだ私の前を仔猫が悠然と横切っていった。仔猫はよりによって私のバイクの上にひょこんと飛び乗ると、ごろごろと喉を鳴らした。
「ふふっ、あなたもそれでかっ飛んでみたいの?……えっ?」
私の目は仔猫の首のあたりに釘付けになった。良く見ると仔猫の首輪には鈴を思わせる球体がぶら下がっており、そこから一条の光が伸びて壁に映像を映し出していたのだ。
――小型プロジェクター?
「ごきげんいかがかね、警察の諸君」
壁の上でこちらを見て笑っていたのは、黒づくめの服に身を包んだ初老の男性だった。
「私の名はガスブージン。諸君が私の仕事をことあるごとに妨害してきたことに、深い憤りを覚えているところだ。これ以上、私や息子たちに関わるようであれば、警察といえど恐ろしい死の裁き受けることになるであろう。よく覚えておくのだな。これが最終警告だ」
男性は語り終えると、ひっひっと喉の奥で邪悪な笑い声を立てた。映像が消え、仔猫は何事もなかったかのように「にゅあ」と一声鳴くと、再び階段の方に引き返していった。
しばらく経って痺れが弱まった私はふらつきながら立ちあがると、雷郷を揺り起こした。
「んっ……何があったの?姉貴に化けていた女は?」
「あなた、あの女が名月さんの偽物だって気がついてたの?」
「そりゃそうさ。姉貴だったらあんなもんじゃない、恐怖で全身の毛が逆立ってるところさ。あの女、まるっきり怖くなかったろう。一目見てすぐわかったよ」
雷郷はどこまで本気かわからない軽口を叩くと、譲太たちを事務室に運び始めた。私は面倒臭そうな雷郷と美しく蘇ったかつての愛車とを交互に眺め、忍び笑いを漏らした。
――あんな脅しに負けてなるもんですか。見てなさい、今度こそ全員逮捕してみせるわ。
私は胸のうちでそう呟くと、愛してやまない鉄の相棒と、ポンコツだがピンチの時には誰よりも頼りになるもう一人の相棒を微笑ましく見つめた。
〈第三十二回に続く〉
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